6-1.知ったのは西ヶ谷
社会人になると大変そうだ。
こんな日にも堅苦しいスーツを着て、重い鞄を下げ、かかってくる上司からの電話にペコペコと謝りつつ、会社へと出勤しなければならない。
これが一部の人間だけならまだしも、日本社会にはこういった悲しい大人が溢れかえっているのだ。
俺はああなりたくないな。
車内にいるスーツ姿のサラリーマンを見ながら、失礼にもそう思ってしまった。
いや、いくら拒否したとしても、大学を卒業した後は彼らと同じ立場になるだろう。
いやいや、就職できると決まったわけではない。
自宅警備員という職業もあるから、必ず社会人になるわけでもないな。
いやいやいや、そもそも大学を卒業できるかすらあやしいし。
……大学、行けるのかな?
『ご乗車、ありがとうございました。静岡駅前です』
バスの運転手のアナウンスで、ハッと我に帰った。
数年先のことよりも、これからの集合に遅れないことからだな。
やや平たい肩かけのリュックサックに、この前の竹刀ケース。
中に入っているのは重量竹刀――ではなく、あの真剣だ。
久遠から持ってこいと言われたのだが……
意図が読めないな。
依頼を受けたわけでもないし。
荷物をまとめた俺は、ICカードを取り出しながら出口への通路を歩き始めた。
バス停に下りると、日本の夏特有のむわっとした暑さが身体を襲ってくる。
エアコンに慣れた身体には辛い。
地面のタイルは、鏡にでも替えたかのように光が照りつけてくる。
視線を上げれば、横に長い駅ビルからも太陽光。
もう周囲の高層ビル全てが、俺に向かって太陽の光を集めているかのようだ。
俺はソーラーパネルじゃないっての。
熱気から逃げるようにして、手動式になっている駅ビルのドアをくぐった。
「九時半までに新幹線改札口前に集合、か」
昨日に久遠からきたメールの内容を確認しつつ、コンコースを歩いていく。
混んでいるわけではないが、すいているとも言いがたい。
そんな人ごみの中、黒髪にスレンダーな少女を探し回った。
「こっちが新幹線の改札だよな……」
コンコース内にあるファッションストア、食品売り場への入り口、そして在来線の改札口……
普段の生活で、新幹線はおろか在来線も乗らないため、改札口が複数あるだけで困惑してしまう。
市内の移動なんて、バスがメインだし。
それに俺は基本的に引きこもりだから、通学以外は家から出ない日が圧倒的に多いのだ。
『遅かったわね』
突然、後ろから聞こえた女子の声。
冷たく、あきれるような声だ。
こんな声をかけてくる女子は一人しか知らない。
「ば、バスが遅れてね……」
苦しまぎれの言い訳をした。
いや言い訳じゃないし! 本当に遅れたんだし!
……五分くらいだけど。
サッと振り向いた先には――予想通り久遠がいた。
しかしその趣は、学校で見る制服姿とは大きく異なっている。
緩めの首もとから膝あたりでひらひらとしているスカートの端まで、ひとつなぎになった明るい青――スカイブルーのワンピース。
深い青色をしたボタンとのコントラストがきいているそれは、そでがわきまで詰められていてさわやかそうな印象を受ける。
正面に伸ばしている左手には、細いブラウンのベルトで巻かれた白い文字盤の腕時計。
同じように伸ばしている右手と腰あたりで合流し、そこで握っているのはクリームイエローで染められている小さなトートバッグの持ち手。
そしてヒールが低く控えめな、上品な女性らしい薄い青色の靴。
瞳は大きく口元は軽く結ばれ、その上には赤いリボンの回されている広めの麦わら帽子をかぶっていた。
俺のプレゼントした蜜柑色のヘアピンも、黒髪にワンポイントを作り出していた。
大事にしてくれているのだろう。
頭の麦わら帽子を手元へ下ろしながら、久遠は電光掲示板に目をやった。
上りと下り、それぞれの車両名と出発時間が表示されている掲示板。
俺たちの乗る新幹線は五十二分発らしいから、発車まではまだ余裕がある。
「まあ、間にあっているからいいけど」
しょうがないわね。
そう言いたそうな口調だった。
ちなみに俺も、胸のあたりにワンポイントの入った小さなシャツに、セピアの薄い長ズボン、といった軽装だ。
特別必要な持ち物はないと言われたので、他には自分なりにタオルとかを持ってきている程度である。
正確な行き先は聞いていないが、山か川あたり?
栃木県といえば内陸の県、山脈と渓谷だらけのイメージを勝手に持っているが……
「それより、刀は持ってきたの?」
「あ、うん……」
言葉に詰まりながら、肩にかけてある竹刀ケースを見せた。
「それじゃあ、行きましょうか」
改札口へと歩いていく久遠。
その姿を、俺は一人分ほど間隔を開けてついていった。
どうも照れくさい……
落ち着かない足どり。
無意識のうちに身体がそわそわと動く。
それまで友人と隣の県へすら行ったことのなかった思春期の男子高校生が、いきなり異性と地方すらまたいで日帰り旅行に出るのだ。
甘酸っぱいというか、くすぐったいというか。
期待感と緊張感が入り混じるような、つかみどころのない感覚が俺の心いっぱいに広がり始めていた。
それまで毎日のように会っていた久遠。
にもかかわらず、急に目をあわせることすら抵抗を感じてくる。
ここから栃木まで――いや、ことを済ませて帰ってくるまでの長い時間、下手すれば二人きりで行動を共にすることになるのだ。
平常心を保っていられるだろうか……
自分自身がいつになく心配になってくる。
こうして、俺と久遠の非日常的な一日が始まった。
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