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5-6.覚悟したのは津久井

 それから日が経ち、とある土曜日――

『かっとばせー! 比出野ひでの!』

『比、出、野っ! 比、出、野っ!』

 学校から北東に四キロ行ったところにある、県の総合運動場。

 陸上競技のためのトラックや、バレーボールやバスケットボールをするための体育館が、それぞれ応援席つきで設けられている。

 しかし、今日の中心となっているのはそこらではない。

 運動場の中央部にある野球場だ。

 まだまだ静岡の地方大会、しかもその一回戦だというのに、球場は大きな叫び声と暑苦しい熱気に包まれていた。

 最前列で黒光りする学ランに身を包む応援団員。

 手足を振り上げ、黄色い声を上げるチアガール。

 学校で何回も覚えさせられた振りつけで、ある者は必死に、ある者は面倒くさそうに声援を送る生徒たち。

 それらが見つめる先にいるのは、ギラギラと照りつけてくる太陽の下で駆け回る、南城高校の野球部員だ。

 試合は午後から始まり、点を取ったり取り返したりのシーソーゲームとなっていた。

 もう気づけば最終回。

 前の回に一点取られての三対三、同点だ。

『ストライク! バッター、アウッ!』

 ああー……という落胆の声。

 先頭打者がフォアボールで出塁し、次のバッターがバントを成功させ、一アウト・ランナー二塁のチャンス。

 だったのだが、今の三振で一アウトが二アウトに。

 これで決まらなければ、いよいよ延長戦だ。

『九番、ライト、津久井君』

 ベンチから数メートルほど離れた場所にある、白いサークルから立ち上がった野球部員。

 大柄で高身長の選手が目立つ中、シルバーのバットを長く感じさせる彼はどこか幼さをかもし出していた。

 津久井だ。

 土で茶色く汚れたユニフォーム。

 顔に貼られた、痛々しいテープ。

 そんな外見など関係ないと訴えるように、津久井は金属バットを大きく振り回した。

 左のバッターボックスに収まり、

『プレイ!』

 相手投手との真剣勝負が始まった。

『かっとばせー! 津久井ー!』

『一発決めろー!』

 応援席からは、ベンチに入れなかった野球部の同級生が声を張り上げている。

 本来、二年生といえばよくてベンチ入りが普通だ。

 その中で出場メンバー入りしている津久井は、同級生にとっても特別なのだろう。

 相手のピッチャーが二回ほどうなづき、グラブを横に構えた。

 津久井もバットを肩から持ち上げる。

 わずかな合間をとり、素早い動作からボールが放たれてきた。

『ストライーク!』

 主審の手が高々と上がる。

 俺たちから見て右前方にある電光掲示板には、ストライクのカウントを示す黄色いランプが点灯した。

 球速は百二十キロ。

 野球部員からすれば十分に打てる速度なのかもしれないが、俺みたいに運動もしていない人間からすれば恐怖感を覚えるくらいだろうな。

 津久井はバッターボックスから足を外すと、ベンチにいる監督――地獄谷に視線を移す。

 厳しい顔をしている地獄谷が、ジェスチャーのように両腕を動かすと、津久井はうなづきながらふたたび白線内へと収まった。

 また緊張感が漂ってくる。

 相手投手が首を縦に振り、足を前へと放り出してきた。

 同時にスイングの構えをとる津久井。

 しかしやってきたボールは、大きな弧を描いて津久井を困惑させた。

 ブンッ!

『ストラックツー!』

 迷いながら振ったのか、弱々しく空を切った金属バット。

 今のは変化球というやつか。

 俺でもあてることのできそうな、やけに遅いボールだったが、打者からは打ちにくいのだろうか?

 これでツーストライク。もうカウントに余裕はない。

 また白線から片側だけ足を外し、ベンチへ視線を送る津久井。

 地獄谷はあきらめたかのように、右手をブンとあさっての方向へ投げた。

 もう暗号など意味がない、ということだろうな。

 向き合う打者と投手。

『かっとばせー! 津久井! 津、久、井! 津、久、井!』

 叫んでいる応援団員の声が、にわかに大きくなった気がする。

 当然暑いだろう。学ランから見える首筋に、汗が光って見えた。

 主審が腰を落とす。

 投手が足を上げる。

 そして……腕を振り抜いた。

 速い……直球だ。

 そのままキャッチャーのミットへ収まろうとしている白球を――

 キィン!

 津久井のバット、シルバーの光がとらえた。

『わあっ!』

 どよめく応援席。

 全員の視線が、空中を飛んでいくボールへと集中する。

 弾道の低い、緩やかなカーブを描きながら、白球は内野の選手の頭を軽々と越え、後ろに構えている外野選手すらも飛び越えようとしていた。

 それを許すまいと、九番の背番号を背負った相手高校の部員が必死のダッシュで追いかけていく。

 ぐんぐんと緑の芝生へ落ちていく打球。

 全力で追う外野手。

 あと少し。

 その時、外野の選手がこれで終わりだと言わんばかりに、左腕を伸ばしてジャンプした。

 どよめき、サッと静まる場内。

 一瞬の内に、外野手は芝生の上へと倒れこむ。

『うおおおっ!』

 だが、そのグラブの中にボールはなかった。

 深緑のフェンスへ転々と転がっていく、白い球。

 別の選手が慌てて追いかけるが、勢いのついているボールとの距離はなかなか縮まってくれない。

 その間に二塁ランナーが三塁を蹴り、ホームの白いベースへと、左足から滑り込んだ。

 両腕を上げて歓声を上げる、応援席。

 選手が次々と出てきて、一塁ベースから帰ってくる津久井をバシバシと叩いている。

 もうそれは、いじめられていた元気のない顔ではない。

 チームを勝利へと導いたヒーローとして、祝福に喜んでいる笑顔だった。

『勝ったな!』

『あのカーブの後で、よく目が追いついたよな!』

 うるさいほどの歓声の中から聞こえた、同級生が賞賛する会話。

 まったく……いじめられっ子からヒーローになっちまって。

 俺たちがいなければ、試合に出られたかすらもわからないのに。

 ……まあ、許してやるか。

 表舞台に立たないのが、俺たち雑務部だからな。


 こもったブレーキの音と共に、路線バスがターミナルへとやってきた。

 この私鉄の駅に隣接するように設けられたバスターミナルは、屋根の下というよりも完全に屋内にあるため、雨の時とかは非常にありがたい。

 まあ今日は雨なんか降っていないけどさ。

 バスの乗降用扉と共に、事故防止用に設置されているクリアのドアが開き、並んでいた人々が次々と車内へと収まっていった。

「そういえば、なんで西ヶ谷はこっちのバスに乗ってきたの?」

 右手で鞄を下げ、左手で吊り輪をつかんだ久遠が聞いてくる。

「ああ、帰りにスーパー寄ってこいって言われちゃってさ」

「そう」

 久遠はそれだけ返すと、窓の方へと向き直った。

 別にうそをついているわけではないが、こんな息があたるほど近くで久遠に話しかけられると、どうも緊張してしまう。

 土曜日だというのに、バスは嫌になるくらい混んでいた。

 ここは終点で乗客を全て降ろし、カラッポになったバスがくる停留所だぞ?

 次の停留所は、あろうことか静岡駅だ。

 時々見かける待機列の人が全員乗ったら、バスが内側からパンクするんじゃないかと心配になる。

『左前よし、右よし、車内よし。はい発車します』

 俺からすれば車内は全然よくないが、バスは揺り動かされながら発車していった。

 ターミナルのゲートから出ると、沈みかかった太陽の光が目に入ってくる。

 まぶしいな。

「そうだ久遠、聞いておきたいことがあるんだけど」

「何かしら?」

 唐突になってしまったが、今回の件でどうしても気になっていたことがあるのだ。

 そう、久遠の言った「野球部員でなければいいのよ」という言葉。

「野球部員でなければいいって、どういうことなんだ?」

 なし崩し的に津久井から依頼され、行動を起こしてしまったわけだが……

 野球部の甲子園大会という人質がいたからこそ、三年生たちに逆らえずにいたのだ。

 それを封じる手段があったからこそ久遠は依頼を受けたのだろうが、結局その手段とは何だったのか。

 引っかかっているのが、その野球部員でなければいいという久遠の発言だ。

「ああ、あれね」

 思い出したように返事をすると、久遠は俺の方へ視線を動かした。

「三人には、野球部を退部してもらったのよ」

「退部!? そんなことができたのか!?」

 退部って、顧問に退部届けを出して承認されなければできないんじゃないの?

 しかも退部届けの提出には、退部理由やら署名やら面倒くさい手続きがあるはずだ。

 そもそも三年生は自ら退部する理由がない。

 どうやっても、退部させるなんて不可能な気がするけど……

「部活顧問の権限に、強制退部という項目があるのよ」

「顧問の都合で、いつでも退部させられるってこと?」

「どんな時でもというわけではないわ。今回は素行不良の名目で、野球部顧問である地獄谷先生に協力していただいたの」

 あの地獄谷が?

 それでもすっきりしない。

 生徒に厳しい地獄谷とはいえ、自分の監督している部員をやめさせろ、という依頼を素直に受けるだろうか?

「そんなに態度が悪かったのか」

「違うわ。地獄谷先生に「大会に影響しないよう考慮します」という交換条件を出したのよ」

 西ヶ谷に部室の鍵を取りにいってもらった時があったでしょう?

 そう付け加えた。

 なるほど。

 久遠が地獄谷と話すなんて何ごとかと思ったが、そういうことだったのか。

 そして野球部内におけるいじめを、よく言えば穏便に、悪く言えば隠ぺいして対処する裏工作。

 やっぱり雑務部の権力は絶大だな。

 あの地獄谷が首を縦に振るなんて。

 さすがに国家権力には勝てないってか。

 いや……そうとも限らない。

 口論というか、口先の勝負であれば右に出る者はいない久遠だ。

 純粋な交渉術で地獄谷をねじ伏せたのかもしれない。

 どちらにせよ、恐ろしいな久遠は――

「でも、本当の切り札は西ヶ谷だったのよ」

「え?」

 俺が切り札?

 バスのブレーキと重なり、思わず身体がよろけた。

「言ったでしょう? この件における問題は、津久井君が自らの受けているいじめを認めることだって」

「そうだな。でも俺と何の関係があるんだ?」

 信号が青になり、バスが動き出す。

 揺れる視線の中、久遠はしっかりと俺を見つめて言った。

「いじめの被害者は、自分に対して悲観的になる傾向にあるわ。どうせ状況は好転しない、何も変わらない。……でも西ヶ谷という経験者がいたから、私は津久井君に対し強気に出られた」

 僕の気持ちなんかわからない。

 そう津久井が叫んだ時か。

 いじめを受けている人間は、自分を過小評価するものだ。

 自分なんかどうでもいい。

 自分は弱い人間だ。

 自分なんていなくなればいい。

 同時に、手を差し伸べてくれる者の心に対して疑心暗鬼になる。

 本当は助けるつもりなんかないくせに。

 なぐさめるだけで、何もしてはくれないんだろ?

 自分の気持ちがわからない人間に、悩みなんか打ち明けられない。

 それに対応できる方法が、いじめを受けた経験のある人間が接触することだ。

 俺はいじめを受けた。

 罠にはまり、バスケ部員や剣道部員から。

 でもギリギリのところで久遠に助けられた。

 一歩も引かないという覚悟を、久遠に教え込まれたのだ。

 その経験が、今度は久遠を助けるきっかけとなった。

 よかったよ、久遠の力になれて。

 純粋にうれしいと思った。

「だから……依頼は成功させられたわ」

「ああ。そうだな」

 でもあの時の久遠は、珍しく激昂げきこうしていたな。

 いつもは感情なんて全く出さないのに。

 このところ、久遠はわずかずつではあるが表情がわかりやすくなっているみたいだ。

 久遠なりに成長している。

 そう考えるべきなのだろうか――

 バスがとまった。

 乗った時よりは気持ち少なくなった乗客の間をぬうようにして、俺と久遠はバスを降りる。

 冷房に慣れた身体が蒸し暑い外気に触れ、すぐに首筋へ汗がにじんできた。

 足下からも熱波が襲ってくる。

 よくアスファルトが溶けないなと思えるほどだ。

「それじゃあ私はこれで……」

『おい、気づかないふりをするんじゃねえよ』

 言いかけた久遠を遮るかのような、低い男性の声。

 まさか三年生が仕返しに?

 いや、ここまで追ってくるなんてありえない。

 しかも今の声は、高校生とかのレベルではなかった。

 もっと低い、四十代とか五十代の中年レベルの声。

 一体、誰の声だ?

 声が聞こえたのは、降りたバス停から向かって左側。

 静清ホームの方向に伸びる横断歩道の方向からだ。

 そこにハザードを点滅させながら停車しているワンボックス。

 すぐ隣に立っていたのは……

「俺は昔っからな、そうやって他人ひとをバカにするような態度をとるようなやつが大嫌いなんだよ」

 青白く、濃い縦じまの入った半そでのTシャツ。

 暗いベージュのズボン。

 それらの上から出ている丸い顔には、細めの黒目が二つ開いていて、大して高くない鼻と黄色い歯がわずかに見えている口があった。

 見た目五十代の中年男性が、寒くもないのにズボンへと手を突っ込み、若干ニヤけた顔でこちらを見ていた。

 気持ち悪い。

 第一印象はそれだった。

 電車で若いOL相手に痴漢をするような。

 あるいはパチンコ店や競馬場で、タバコを吹かしながら文句を言っている。

 そんなえない親父みたいだ。

「ちょっとこっちへこいよ」

「……なんであんたが、……ここにいるのよ」

 久遠の声。

 どうしたんだ?

 違和感のある、やけに震えた声だった。

 目の前に現れた人間に怯え、心の底から恐怖感がわき上がってきているような。

 我慢できず、久遠の方へと振り向く俺。

「えっ……!?」

 久遠は、実際に震えていた。

 瞳孔を大きく開き、口は半開きになって白い歯が見えている。

 そこからはカチカチと小さいながら歯と歯があたっている音が聞こえた。

 顔も白い。首も白い。腕も手先も、血が通っていないかと思えるほど白い。

 鞄を持っている右手も、わなわなと小刻みに上下振動をくりかえしていた。

 久遠が……怖がっている……?

 三年生の先輩を相手にしても、全く動じなかった久遠。

 学校でもっとも怖いとされる地獄谷にすら、単独で交渉しにいったような久遠。

 その久遠が……目の前にいる中年男性に対し、怯えの表情を見せているのだ。

 初めて見た。

 久遠が恐怖をあらわにするところを……

「仮釈放されたんだよ。俺は真面目に生きてきたからな」

 中年男性は、またニヤッという気味の悪い笑みを浮かべた。

 とても真実を述べているようには見えないが。

「なんであんたなんかが……」

 さっきの言葉から感じた違和感の正体が、ようやくわかった。

 呼び方だ。

 久遠は俺のことを、「西ヶ谷」という名字で呼ぶ。

 津久井のことは「津久井君」。他に、朝霧のことを「朝霧さん」。

 名前がわからない人物に対しては「あなた」あたりか。

 ――そう、「あんた」などという見下すような呼び方を使っていた覚えがないのだ。

 にもかかわらず、目の前に立っている中年男性には、躊躇ためうことなく「あんた」を使用している。

 それほど嫌いな人物なのか。

 あるいは恨みのようなものを持っているのだろうか。

「さあ、早くこいよ」

「嫌よ……」

「こいって言ってるだろうが!」

「嫌っ!」

「こい! この小娘がっ!」

 中年男性が声を荒げた。

 同時に表情が一変する。

 さっきまでのニヤけ顔はどこかへ消え、顔にシワを何本も走らせた怒りの形相をしていた。

 大声に通行人も不自然に思ったらしい。

 何人かは足をとめ、こちらをじっと見ていた。

「このガキが……!」

『おいまだか? もう待てないぞ?』

 黒塗りのワンボックスから聞こえた、別の男の声。

 中年男性はそれに振り向き、チッと聞こえるくらい大きな舌打ちをした。

「手をかけさせやがって。だからてめえはそんな人生送ってるんだよっ!」

 そう言葉を吐き捨てると、ワンボックスの助手席に乗り込み、乱暴な動作でドアを閉めると。

 パパパーッ!

『邪魔だ小娘が! てめえなんか死んじまえ!』

 後ろからきたバスが鳴らした、けたたましいクラクション。

 その八つあたりをするかのように久遠を責めたてると、車窓も閉めずに去っていった。

 周囲に集まっていた数人の野次馬が、あれは何ごとだったのかと言いあいつつその場を歩いていく。

 久遠は下へうつむき、何かに耐えるように両手をギュッと握り締めていた。

 俺はその久遠に、何をしていいのか、何と声をかけていいのか全くわからなかった。

 さっきまでの久遠はどこかへ行ってしまった。

 あれが誰なのかは結局わからずじまいだったが、少なくとも久遠にとって気持ちのいい人物ではないのだろう。

 手すら届くような距離で助けてあげられなかったことを、今さらながらひどく後悔した。

「なぜ……なんでなの……」

 久遠の口から言葉が漏れてくる。

 今までに一度として聞いたことのなかった、弱々しい声だった。

「久遠……」

「だ、大丈夫だから……。何もないから……」

「大丈夫って、そうは……」

「帰って!」

 激しい声が飛んできた。

 帰って、か。

 久しぶりにその言葉を聞いた気がするな。

 入部する時以来……だったかな。

「……月曜日も、部活はあるから」

 それだけ言うと、久遠はうつむいたまま横断歩道を渡っていった。

 あまりにも寂しげな、そして悲しげな背中。

 何かを訴えたい、でも言えない。

 そう伝えているようだ。

 久遠が渡りきり、信号が青の点滅から赤へと変わった。

 車道を待っていた車が行きかうようになり、それまで静かだったこの場所に音が戻ってくる。

 俺は肩の力が抜けていくのがわかった。

「……はぁ」

 俺の知らない、久遠の問題。

 どうやらそれは、入ってはいけない領域にあるようだ。

 人間、誰にでも隠しておきたいことはある。

 それは久遠とて例外ではなかった。

 俺の知らない久遠――

 脱力した身体を追い立てるように、俺は反対側にあるスーパーへと向かった。

 異様なくらい足が重い。

 なかなか前へと進めない。

 応援のせいではない、もっと別の疲れが背中に覆いかぶさっているようだ。


 日曜日を挟み、週の始まりである月曜日がやってきた。

 日に日に迫ってくる夏休みに、クラスメートもテンションが上がり始めている。

 どこか遊びに行く?

 海でも行こうか!

 昨日に降ったもうしわけない程度の雨のおかげか、外はいつも以上に明るく感じられた。

 そんな気持ちのいい日――

 俺は周囲から引かれるほど、機嫌がよくなかった。

 話しかけてくる友人もいなければ、心配するような恋人もいない。

 クラスメートからすれば、今日は特に近寄りがたい雰囲気を漂わせている。

 そんなイメージだろう。

 実際、誰にも近寄って欲しくなかった。

 理由は当然、久遠のことだ。

 初めて見た、久遠が怯えている顔。

 身体を震わせ、首や腕の血の気が引いていくほどの恐怖感を覚えていた。

 改めて思い出しても、夢なのかと疑うほど信じられない姿。

 ……一体、何があるのだろう。

 あの中年男性と、何らかの関わりがあることだけは確かだ。

 しかし久遠はそれを話さないだろう。

 知らないとモヤモヤしたわだかまりが残り、何ごとにも手がつけられない。

 でも久遠は絶対に言わないだろうし……

『起立!』

『ありがとうございました!』

 悩んでいるうちに、放課後はきてしまった。

 いつもなら飛び込むようなロッカールームに、最後の順番で入る。

 片付けも、いつもの倍はかけてゆっくりと行う。

 鞄を閉める動作一つすらも、丁寧ていねいにやってみた。

 それでも、時間はとまってくれないらしい。

 教室前でやることは全て終わってしまった。

 ……部室へ行かないと。

 今日ほど部室へ行きたくないと感じたのは、剣道部の一件で退部を申し出にいった時くらいか。

 部室には必ずきなさいと言われたことなど、今まで一度たりともない。

 授業の間にも、今日は適当に理由をつけて休もうかと思った。

 でも……それはしない。

 別の俺が、それはやってはいけないと主張している。

 久遠と向き合わねばならないと、自分自身に言い聞かせているのだ。

 俺はそれに従うしかなかった。

 階段を上がって四階へ。

 一年生はすでに部活へ行ったか、それとも下校したのか、誰一人として姿が見えなかった。

 音すらしない廊下を、反対方向に向かって踏みしめるように歩いていく。

 長い廊下ではない、一分もたたないうちに部室のスライドドアが目の前に現れた。

「……」

 無言でドアを引いた。

 いつも通り、抵抗もなくすんなりと滑っていった。

 窓を開けてあるのか、わずかに風の感触がする。

「……」

 久遠もいつも通り、右側のパイプ椅子に座っていた。

 読んでいた本から上げた視線が、空中で俺とぶつかりあう。

 反射的に避けてしまった。

 照れくさいというか、恥ずかしいというか。

 久遠と直接、目をあわせるのは苦手だ。

 俺は長机の縁を回るようにして、いつも座っているパイプ椅子へと落ち着いた。

 窓から弱々しい風が入り込み、少しながら室内の空気を冷やしている。

 そのそばでは、相変わらず効果を疑う小型の扇風機がプロペラを首と共に振り回していた。

 ……今部室で動いているのは、これらだけだ。

 他は時間がとまったように静止している。

 俺も。

 久遠も。

 動くことが禁じられたかのように。

「……」

「……」

 そのまま、どれくらいそうしていただろうか。

 十分? 二十分?

 俺には一時間にすら感じた。

 永遠ともいえる時間というのは、こういった時の流れを言うのだろうな。

「あのさ……」

「あのね……」

 あっ――

 双方の声が重なった。

 お互い顔を上げ、視線をあわせたまま固まる。

 気まずい沈黙が下りた。

 こういう時、言葉の始まりがかぶることほど辛いものはない。

 探りに探っていたタイミングが狂い、次の言葉が出せなくなる。

 いわば手詰まり状態になってしまうからだ。

「に、西ヶ谷が……先でいいわ……」

 それでも久遠が、会話のテンポを作り出してくれた。

 こんな状況でも、俺を気づかってくれるんだな。

 もっとも、その俺は久遠に対して有益な情報を伝えられるわけではないけど。

 むしろ思い出したくないことを突きつけてしまう、残酷な結果になってしまうかもしれない。

「こ……この前のこと……なんだけどさ……」

 後にひくことができず、言うつもりだった言葉を並べていった。

「あんな久遠を見たのは初めてだったから……その……悪かったと思ってる」

 思うように言葉が出てこない。

 本当はもっと単語を並べるつもりでいたのだが、口を開くたびに頭からこぼれていってしまう。

 久遠は黙って聞いていた。

 やや下方を向き、その顔色はよくない。

 本を支えている手も、小刻みに震えていた。

 それでも拒むことはしない。

 ヒステリーを起こしてもおかしくない状況にも関わらず、久遠はじっと俺の言葉に耳を傾けていた。

「あれは……あまりいい事柄ではなさそうだから……忘れておくから」

 不満だ。

 もっと言いたい。

 もっと伝えた。

 でも無理だ。

 自分が何を伝えたいのか、何を言おうとしているのかがわからなくなっていた。

 物事の説明は難しいとよく言われるが、それの比ではない。

 雲をつかむかのような、まるで感覚のない幻めいた行動にしか感じられなかった。

 ごめんな久遠、俺の能力ではこれが限界みたいだ。

 会話が終了したことを悟ったのか、今度は久遠がゆっくりと口を開く。

「ごめんなさい……」

 それが第一声だった。

 本をコトンと机に落とし、両手をスカートの上でモジモジとあわせている。

 震えを紛らわすかのように身をくねらせ、上目づかいで俺を見つめる視線はいつになくやわらかな、もろくすら感じられるものだった。

 淡く紅潮こうちょうしているほほ

 わわっ……!

 率直に可愛いと感じてしまった。

 冷たい顔をした表情のない、普段見ているような久遠ではない。

 そこにいたのは、恥じらいに顔を赤らめた女の子だった。

 反射的に視線を落としてしまう。

「いっいや、何も謝ることは……」

 何とか会話をつなぎ、自らの感情を誤魔化した。

 その表情は……卑怯ひきょうだぞっ……

「もう西ヶ谷に隠しておくことは……不可能になってしまったようね」

 まだやわらかさの残る、久遠の声。

「西ヶ谷」

「な、なんだよ……?」

「お願いがあるのだけれど、聞いてもらえる?」

 お願い?

 久遠が俺に頼みごととは珍しい。

 それも部活絡みではない、おそらくプライベートなことでだ。

 どんなことか見当もつかないが……

「日時は八月の十日」

「盆の前あたりか。その日付がどうしたんだ?」

 顔を上げると、そこにはいつもの久遠が戻っていた。

 緊張感から解き放たれ、俺もようやく言葉が出てくるようになる。

 少し間を開け、覚悟を決めたような言葉が返ってきた。

「私と一緒に……栃木へと行ってくれないかしら?」

「と……栃木!?」

 社会科が全般的に苦手、地理が音痴な俺でも栃木が近くないことぐらいはわかる。

 ここは静岡だ、直線距離にしておおよそ二百キロ。

 東京を経由しなければならないことを考えれば、単純計算でも片道四百キロくらいは移動することになるだろう。

 夏休み中だとはいえ、そう簡単に行くことを決められるような距離ではない。

 なんでまた、そんなところに……

「西ヶ谷にだけは話しておきたい。でも、こういった雰囲気では話せないのよ」

 少し強く、訴えるような口調で久遠が言ってきた。

 栃木か――

 一体そこに、何があるというのか。

 そこにいけば、土曜日のことがわかるのだろうか。

 あの中年男性と久遠の、謎に包まれた関係が。

 知りたい。

 興味本位も当然ある。

 しかしそれ以上に、久遠にもっと近づきたかった。

 手の届く距離でありながら、何もしてあげられなかった土曜日。

 無知ゆえに、「帰って」と突き放されることまでされた土曜日。

 それは近いところにいると思っていた久遠が、まだまだ遠くにいると痛感させられた場面でもあった。

 俺は久遠から離れたくない。

 もっと近づきたい。

 俺の知らない久遠を、知ってみたい。

 それができる、絶好のチャンスだと思えた。

 見えない何かを見るために、

「わかった。俺も栃木に行くよ」

 力強く、そう答えた――

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