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5-4.覚悟したのは津久井

 朝、起きて朝食を食べ、身支度をして登校する。

 SHRの後から一時限目が始まり、五十分間の授業が四時限続く。

 昼休みには食堂に足を運び、食べたくもなかったレーズンパンを食べる。

 午後の授業が始まり、ホワイトボードに黒い文字が並べられていく。

 そして、帰りのSHRが終わる――

『ありがとうございました!』

「ありがとうございました。……はぁ」

 そんな一日の中、ずっと考えていた。

 雑務部員として任された、久遠からの任務。

 津久井に現状をいじめとして認めさせること――

 最終的には、津久井本人から雑務部へ依頼を出させることが目的だ。

 しかし……妙案はおろか案一つすら浮かんでこない。

 いつもなら爆睡するはずの午後二時限すら、覚醒したまま考え抜いていたのだ。

 にも関わらず、打開策が一つも出てこないとは……

 帰りのあいさつと共に、思わずため息が漏れ出てきてしまった。

 あれはやっぱりいじめだったと、押し通しての説得か?

 それとも、いじめとして言った方がいいよ、とやんわり言っての説得か?

 ……説得しか手段が思いつかないのは、俺の知能が欠けている証拠か。

 クラスメートたちは次々と教室を後にしていく。

 俺も部室へ行くか。

「よっこらしょっと」

 考えすぎて使うひまもなかった、教科書やノートを机の上に出した。

 ロッカールームで先に片づけをしていたクラスメートが終わる間にも、俺は津久井のことを考えていた。

 ただ久遠にも具体案が出せないことだからなぁ……

「おい西ヶ谷、早くしろよ」

「えっ? あ、ごめん……」

 前の生徒が終わったのに気づかず、後ろから急かされてしまった。

 南京錠を外し、お世辞にも綺麗きれいとは言えない自分のロッカーを開く。

 ここも整理整とんしようと考えてはいるのだが、なかなか機会がない。

 休み時間にでもやればいい話なのだが、なぜか休み時間にやろうとは思わない。

 いつも机でスマホいじっているか、携帯ゲーム機に熱中しているかのどちらかなのにね。

 午後二時限分の教科書類をロッカーに収め、さて部室へと……

「あ、いけないいけない」

 竹刀ケースを忘れるところだった。

 この前に間違えて、部室から中身の重量竹刀ごと家に持って帰ってしまったのだ。

 久遠に「早く返しなさいよ」と言われていたのだが、忙しい朝は竹刀のことなど気にしている余裕もなく……

 人間、思い立った時にやらないと忘れてしまうというのを再認識した気がする。

 それで、今日の朝はギリギリで思い出したのだ。

 せっかく持ってこれた竹刀を、今度は教室に忘れるわけにもいかない。

 一度教室に戻り、後ろに立てかけてあった竹刀ケースを手に取った。

「ん?」

 直後にくる、スマホのバイブレーション。

 この回数……スマホへのメール着信だな。

 普段メールのやりとりをすることない俺は、着信がきたのをすぐに感じ取れてまう。

 役に立たない能力ではないが、こんなことで……と悲しいことこの上ない。

 で、だいたいが記憶にないほど昔に登録したサイトのメールマガジン。

 よくて母親からの連絡メールといったところだ。

 ちなみにメールの返信は、数少ない友人からドン引きされるほど早い。

 最近はディレイタイムを設けているのですよ?

 どうせこれも意味不明なサイトからのメールマガジンだろ。

 そう思いながらロックを解除し、やはり着信していたメールの送り主を確認する。

「あ、久遠からだ」

 メールマガジンや母親以外からのメール着信など、いつ以来だろうか。

 微妙な感動を覚えつつ、メールを開いた。

『部室の鍵、開けておいて』

 予想してはいたが、言い放つようなあまり温かみを感じない文章だった。

 メールのやりとりとは、こんなものなのだろうか。

 まあ久遠からすれば、部活内での連絡がメインだ。

 それさえ満たせれば文章の組み立て方などどうでもいいのだろう。

 敬語使われたら、それはそれで緊張する。

 絵文字顔文字いっぱいのメールがきたら、むしろ「うわぁ……」ってなるし。

 雑務部室の鍵は、職員室にある佐々木先生の机の上に置かれている。

 だから部室が閉まっていたら、職員室に取りに行くのよ。

 そう久遠から教えてもらってはいたが、実際に行くのはこれが初めてだ。

 西ヶ谷、初めてのおつかい。

 どこかにテレビクルーとかいないのかな?

 あるいは行く途中で「そこの君、お菓子あげるからついておいで」って言われたりするのかな?

 今言われたら、喜んでついて行っちゃいそうだけど。

 ……妄想はこれくらいにしよう。

 何を考えているのかと、自分を恥ずかしく感じながら三階の廊下を歩いていった。

 東側の階段を下校する生徒たちの流れに乗って下りていき、高速道路の分岐みたいに一階でわかれて職員室へと向かう。

 職員室は白い壁で覆われており、四角くて大きな窓がいくつかはめこまれている部屋だ。

 ここだけは他の高校とあまり変わらない。

 俺らの教室みたいにスケルトンにしないのは、いわゆる大人の事情ってやつだろう。

 便利だな「大人の事情」。

 とりあえずこれを使っておけば、どんな状況でも乗り越えられる気がする。

 そうか、津久井のやつも「大人の事情」で……

 ……乗り越えるのは無理だな。

「失礼します」

 職員室に入る時には、自分の名前とクラス、用件などを言うというルールがあった気がする。

 しかしそんなことは、一年生の頃の記憶と共にすっかり忘れていた。

 まあ他の生徒も名前くらいしか言っていないし。

 そんなことを考えながら、軽くお辞儀をしつつ職員室へと足を踏み入れる。

 職員室中の視線が、一斉に俺へと集まってきた。

 そんなに見つめないでくださいよ。

 俺はただ部室の鍵を取りにきただけのごくごく一般的な普通科二年生ですって。

 等間隔で並んでいる机の間を、足下に気をつけながら歩いていく。

 そんなに狭くはないが、鞄やらプリントやら掃除機やらが置いてあるからだ。

 ……掃除機って何だよと突っ込んではいけない。

 久遠から聞いていたため、真ん中あたりのある佐々木先生の机はすぐに見つかった。

 色ごとにわけられているファイルに、整頓された教科書。

 薄い茶色をした質素なペン立てに立てられている、数本のボールペン。

 その手前には生徒から集めたものなのか、クリップで留めてあるプリント。

 角という角がきっちりそろえられており、何がどこにあるのか一目瞭然いちもくりょうぜんだ。

 さすがは佐々木先生、印象から見ても几帳面そうだもんな。

 部室の鍵は、その机の中央にプレートを面にしてわかりやすく置かれていた。

 今日も取りにくるであろう、久遠のためだろうな。

 俺はカチャッという音をたてながら銀色の鍵を手に取ると、教師たちの視線から逃げるように職員室を後にした。

「失礼しました。……ふぅ」

 なんか職員室って緊張するよな。

 教師という、生徒ではない人間たちのテリトリーだからだろうか?

 動物が他の縄張りに入るって時には、こんな緊張感を覚えるのか。

 いや、あっちは生死がかかっているから全然違うと思うけど。

 あまり使うことのない西側の階段を、今度は流れに逆らうようにして上っていく。

 部室に行くにはこちらの方が近いからだが、周囲が理数科など普段会うことすらない生徒ばかりのため、職員室のような緊張感を覚えた。

 違うテリトリーを通過していく、どこか気味の悪い感覚。

 それに耐えながら四階まで上がり、廊下を向こう側まで見通したところで、部室の前に立っている久遠と目があった。

「早かったな」

「先生と話をしただけよ」

 鍵穴に鍵を差し込み、親指と人差し指を使って反時計回りに回す。

 軽い金属音と手ごたえがあり、ドアの拘束が解かれた。

「話? 誰と?」

地獄谷じごくだに先生とよ」

 地獄谷――嫌な名前が出てきたものだ。

 体育担当の教師であると共に野球部の顧問の地獄谷。

 漫画に出てくるような深みのある強面に、頭はハゲ……じゃなくてスキンヘッド、ギロッという鋭い眼光。

 体型はガッチリしていて、まさにプロレスラー。

 パッと浮かぶだけでも、これくらい特徴が挙がるほど印象の深い教師だ。

 少しでも逆らうと烈火のごとく怒るため「ヤカン様」の異名がある。

 わざわざ「様」がついているのは、例えあだ名であっても呼び捨てにできないという恐怖感からだ。

 なお矛盾したりしていても、自分が悪いと絶対に認めない頑固親父でもある。

 体育を受けた生徒からすれば、いじめっ子なんかよりこっちを制裁して欲しいくらいだろうな。

「何を話していたんだよ?」

 その地獄谷に久遠が話?

 久遠だったら勝てそうなんだよな……

 むしろ地獄谷が久遠に押されているところを見てみたい気もする。

「それは……」

 部室の窓を開け放す久遠。

 暑苦しい室内の空気がかき乱され、わずかであるが涼しさを感じられる。

「西ヶ谷の想像に任せるわ」

 そう言いながら、相変わらず変わらない表情で軽く視線をあわせてきた。

 地獄谷の体育は基本的に男子が受ける。

 だから女子、しかも理数科である久遠が地獄谷と接点を持っているとは考えられないが……

 進路担当でもないし。

「それより、竹刀は持ってきたの?」

 視線を窓の外へ戻した久遠から聞かれた。

 そうだった、これでようやく肩の荷が下りる……

「これ以上忘れたら、針で刺されそうだからな」

「西ヶ谷が無駄に持ち帰らなければ済んだ話なんだけど」

 その皮肉たっぷりな言葉を言われると、非常に耳が痛いからやめて。

 人間である以上、誰にだって間違いはあるものなんだから。

 俺は肩に掛けていた竹刀ケースを机上に下ろし、ゆっくりと開けていった

 中の重量竹刀が姿を……

「あれ?」

 姿を見せたのは、重々しい雰囲気をかもし出す重量竹刀……ではなく、紫色の布。

 それも薄い合成繊維でできているような安っぽいものではなく、厚く深みのある紫色をした高級そうな布だ。

 こんなものに包んだ覚えはないけどな。

 そもそも布にくるんだ記憶もない。

「なんだこれ?」

 ケースを開け切ると、紫色の布は棒状の中身を包み込んでいるようだ。

 真ん中からやや上あたりで、紺色のひもが結んである。

 これまた普通のひもではなさそうだ。

 細い一本を何重にも巻きつけ、強く固く仕上げているような複雑な作りのひも

 当然、こんなひもを巻きつけた覚えもない。

 不審に思いながらも、丁寧ていねいに結ばれているひもを解き、国宝でも扱うかのような慎重な動作で紫色の布を広げていった。

 そして布の下に見えてきたのは――

「これは――刀?」

 肌色よりもさらに白っぽい、しかし真っ白ではない。

 そんな絶妙の色をした、わずかにざらつきのある表面。

 端から五分の一くらいのところで入っている、深い切り込み。

 その他には全く無駄のない外見――

 つか刀身とうしんへだてるつばもないし、きらびやかな装飾も全くついていない。

 しかし、おそるおそる手を伸ばして切り込みを開くと……

 カチッというわずかな音と共に、光で反射する刃が見えた。

 やはり……本物の刀だ。

白鞘しらさやね」

 久遠がぼそりと言った。

「シラサヤ?」

「……持ってきた本人でしょう?」

 そんなことも知らないの?

 そう言いたそうな口調だ。

 だって自分の意志で持ってきたものじゃないし……

 間違えて持ってきたやつだし……

 心の中から精一杯の言い訳をしておいた。

 実は今、俺の家は骨董こっとう品やら何やらであふれれかえっているのだ。

 母親が言うには、亡くなった祖父の遺品整理をしているらしい。

 祖父が亡くなったのは結構昔なのに、何で今さら……とは思う。

 ちなみに祖父は武道が得意であり、剣道なんかは有段者だったと聞いたことがある。

 俺も祖父の影響を受け、中学校では剣道部に入ったのだ。

 しかし、まさか刀なんて持っているとは思わなかったな。

 しかも入れてあるのが竹刀ケースとか……もうちょっと別の入れ物があったでしょ。

白鞘しらさやというのは、刀とかを保存するためのさやよ」

 端の方で申し訳なさそうにしていた登録証を見つめながら、久遠が説明を入れる。

「ということは、こいつは保存状態にあるってことか」

「ええ。今の日本で常に帯刀する人なんてまずいないし……」

 銃刀法により、一般の人は登録証がないと所持が禁止されている。

 だから代々伝わる品だとか、趣味で収集している人を除いて、刀を持っている人はそうそういないだろう。

 祖父は太平洋戦争の時代に少尉だったらしいから、下賜かし品としてこの刀をたまわった――のかもしれない。

「まあ外見が同じだから、今回は見逃してあげるわ」

「え?」

 竹刀のケースから俺の方へと視線を移す久遠

「機会を見て、できるだけ早く持ち帰りなさい。登録証があるとはいえ、そうそう振り回していいものでもないのだし」

 さすがに雑務部であっても、刀の保有は無理らしい。

 まあそうですよね、たかがいじめに刀まで持ち出すことはありえないと思うし。

 それに……と久遠は付け加えた。

「西ヶ谷家にとって大切なものなんでしょう?」

 用のさやに入れ、このような布まで用意した上で保存されているくらいだ。

 祖父もそれなりに愛着を持っていたのだろう。

 ……竹刀ケースに入っていたのだけは解せないけど。

 ここは久遠に従っておくべきだろう。

 登録証を刀と共に紫色の布で丁寧ていねいに包み、その上から紺色の紐もやさしく、しっかりと結ぶ。

 竹刀ケース本体を閉じれば、開ける前の状態に戻った。

 こうして見ると、やはり中身が刀だとはとても思えない。

 特別なオーラを感じるわけでもなく、それだけ異彩を放っているわけでもなく……

 間違えたことを正当化するつもりはないが、重量竹刀の入っているケースと全く見分けがつかないな。

 竹刀のケースを横の戸棚にたてかけると、

「さて、今日もやりましょうか」

 両腕を高く上に上げ、伸びをしながら久遠が言った。

「やるって何を?」

「西ヶ谷の問題集よ」

 あ

「まだ終わっていないんでしょう?」

「そ、そうだけどさ……。あっ! ちょっと飲み物を買ってくるから!」

 あはは……と無理矢理作った笑顔をしながら、俺は久遠から後ずさりするようにジリジリとドアへと向かっていく。

 まもなく締め切りがくるであろう問題集――宿題のことをすっかり忘れていた。

 また意味のわからないローマの法則とやらに付き合わなければならないのかと思うと、今すぐに背を向けてダッシュしたいくらいだ。

 もっとも、久遠から逃げることができても、宿題の締め切りからは逃れられないだろうけど。

 ……久遠からも不可能な気がする

「はぁ……早く帰ってきなさいよ?」

 母性本能がくすぐられるような一言。

 まるで母親のような台詞をもらいながら、俺は部室のドアをスライドさせ……

「おっと!」

 開き切った瞬間、正面にいる人物に気づいた。

 半そでの白いシャツに濃い色のネクタイ、夏服にしては暑苦しい長ズボンで男子生徒だということはわかったが、

「津久井じゃないか。どうした?」

 顔をうつむかせているせいか、やや時間をかけてようやく津久井だと理解した。

「また息抜きにでもきたか?」

「……」

 一瞬、俺は問題集から逃れられると期待した。

 が、反応が返ってこない。

 短い髪の毛に、広く見えている額。

 下を向いたままの目線。

 ボタンこそきっちり留めてあるが、シワが何本も入ってしまっているシャツ。

 留め金が土で汚れている、腰のベルト。

 色があせ、ひもが解けている制服の革靴。

 野球部だからなのか、津久井は身だしなみをいつもちゃんとしていた印象がある。

 でも目の前にいる津久井は、それを忘れさせるほど乱れていた。

 身だしなみだけではない。

 以前ここへきた時よりも、さらに雰囲気が沈んでいるように感じた。

 元気のないというか、覇気のないというか……

「どうしたの? 入らないの?」

 奥の久遠がドア越しに聞いた。

 と、その時――

「つっ!?」

 ダンッという、勢いよく廊下を蹴り出す音。

 目の前から残像が見えるほど早く、横へ消えていく津久井の姿。

 本当に押されたのか、その勢いに身を引いてしまったのか、後ろへ倒されるような感覚を覚えた。

「お、おい!」

 反射的な呼びかけにも応じず、津久井は東側の階段へと走っていった。

「追って!」

「わかってる!」

 何かを感じとったような、久遠の鋭い声。

 それと同時に俺の身体は動いた。

 普段は動かすことのない筋肉までが総動員されているおかげで、足を蹴り出すたびに身体のあちこちから悲鳴が聞こえてくる。

 しかしそんなことに構ってなどいられない。

 なぜ、わざわざ雑務部室へと足を運んできたのか。

 なぜ、すぐに走り去っていったのか。

 ……一体、何から逃げている?

 その疑問を知りたいがために、俺は走っていく津久井の背中を全力で追った。

 それほど広くない踊り場で直角にターン。

 太陽の光で、薄くだいだいに染まりつつある階段をどんどん上っていく。

「ハッ……ハッ……」

 どこまで行くつもりなんだ!?

 部室のある四階から五階。

 さらに上って六階。

 最上階の七階へ――

「おい! 待てったら!」

「ハッ……ハッ……ハッ……」

 激しい息を残しながら、津久井は七階から次の階段へと走り込んだ。

 これより上は生徒立ち入り禁止区域。

 この学校でもっとも高い場所にある――西館屋上だ。

 屋上?

 熱気がこもっているはずの俺の背中に、何か冷たいものが流れた。

 兄の死んだ原因は転落死。

 実質的には飛び下り自殺。

 そして、この学校でそれができる場所といえば――

「やめろっ!」

 明るいグレーの塗料が厚く塗られている屋上フロアに飛び出した瞬間、俺は目の前にいるであろう津久井へと叫んでいた。

 いや、怒鳴ったという方が正しいかもしれない。

 そしてピントの定まった目で捉えたのは――

 白い手すりに両手をかけながら足を振り上げ、今にも身体ごと飛び下りようとしている津久井の姿。

「よせって! とまれ!」

 もうとにかく必死だった。

 二、三メートルくらいある間隔を力の限りジャンプし、唯一ゆいいつフロアに残っていた左の足首をつかむ。

「離してくれっ!」

「誰が離すもんか!」

 握力検査をしたら自己最高記録が出るんじゃないかと思うほど、足首が赤くなるのも構わずに握り締めた。

 振りほどこうと足をばたつかせる津久井。

 固い革靴のかかとがほほに、鼻に、額へとあたって痛みが走る。

 構うものか。

 俺は匍匐ほふく前進の要領で身体を前に出し、左足首を抱え込むようにしてしつこくまとわりついた。

 自ら死ぬなんて、そんなの……

「ぐえっ!?」

 突然、背中へと痛みを感じた。

 鈍いそれは深く、後から後からじわじわと俺を苦しめにかかる。

「はな……せ……って!」

 津久井が右足で踏みつけてきたと理解した時には、すでに俺の力は抜けかけていた。

 緩くなった両手から解放される、左足首の感覚。

 やばい……!

 とめられない……!

 俺が反応の遅れた右腕を弱々しく上げた、その瞬間、

「うっ!?」

 短いうめき声。

 ワンテンポおいて、津久井の身体が力なく落ちてきた。

 避けるような体力が残っているはずもなく、そのまま下敷きにされる。

「ぐっ……、ハァハァ……」

 空気が我先にと出入りしているため、気管が引っかかれるように痛い。

 暑さを感じ取る神経が働きを取り戻したせいか、溜まっていたように汗がドッと出てきた。

 上にかぶさっている津久井の息を感じながら、俺はようやく周囲の静けさに気がついた。

 空には大きめの雲がふわふわと流れている。

 ここまで声が届かないのか、それとも休憩時間なのか、グラウンドにいるはずの運動部の声も聞こえてこない。

 まるで俺たちだけが無駄に騒いでいたかのように、周りは気味が悪いほど静かだった。

「被害者に……針を刺すなんて……初めてよ……はぁはぁ……」

 久遠が息を整えながら、まだ十分に明るい空を見上げている俺の視界へと入ってきた。

 そうか、久遠の針で動きをとめたのか……

 酸素の回らない頭で、それだけは理解した。

 あの状況下で正確に針を投げるとは、さすが久遠だな。

 どうやら、また助けられてしまったみたいだ。

 息を吸い、吐き出し、また吸い込む。

 酸素を欲しがっている身体のために、持久走のあとでもやらないような深呼吸を数回くりかえした。


 ――どのくらい時間が経っただろうか。

 ぐったりとした津久井を二人で支えながら部室に連れ戻し、パイプ椅子に座らせた。

 動作としてはたったこれだけなのだが、最上階から男子高校生を抱えてくる労力は、決して小さくない。

 その上俺も久遠も、人並み外れて力持ちというわけではないので困った。

 後から考えれば、保健室あたりから担架でも持ってくればよかったとも思ったが……

 ケガをしているわけでもないし、保健医の過度な心配を誘発したくはないな。

 キーンコーンカーンコーン……

 エコーのかかった鐘の音が、窓の外から聞こえてきた。

 静岡において児童へと帰宅をうながす、五時の鐘だ。

 その音と入れ替わるように聞こえ始める、吹奏楽部の演奏。

 甲子園大会で演奏するためか、高校野球の実況番組で聞く応援歌だ。

 ここ最近はずっと変わらない、いつも通りの高校の表情。

 それなのに……

「……」

 俺の寄りかかっているスライドドアには、珍しく鍵がかけてあった。

 内側からかけられるのは知っていたが、使ったのは今日が初めてだ。

 それを命じたのは久遠。

 その久遠は、普段座っている向かって右のパイプ椅子を空けていた。

 窓際に外を背にして寄りかかり、口を結んだいつもより気持ち硬い表情で腕を組んでいる。

 そして俺の座っているであろうパイプ椅子には……

 顔を下に向け、動くことすら忘れたかのように固まっている津久井の姿があった。

 会話のない、静かな空間。

 ピリピリという張り詰めた雰囲気。

 身を動かすことすら躊躇ためらうような空気が、この雑務部室に漂っていた。

 いや、漂っているのではなく、空気が凍っているとでも表現すべきだろうか。

 夏という暑い時期に凍るという表し方は間違っていると思われるだろうが、背中を伝って流れ落ちていくのが冷や汗だというのを考えれば、この表現も正確なのかもしれない。

「……」

 俺も久遠も――津久井に声をかけられずにいた。

 少しでも言葉の道を踏み外せば、また津久井は身を投げようとするかもしれない。

 正確な言葉を送れば、もう頼れる人間はいないのだと絶望してしまうだろう。

 口先のやさしさを働かせたところで、それは時間稼ぎにしかならない……

 もう……津久井にどういう言葉をかけていいのか、わからなくなってきたのだ。

 くそっ。

 俺のミスが、ここまで影響を及ぼすなんて。

 想定できなかった、などというのは言い訳にならない。

 実際に自殺者が出そうになったのだから。

 頑張った、などというのは理由にならない。

 結果として命が絶たれそうになったのだから。

 俺なりに考えた、というのも……

「西ヶ谷、自分を責めないで」

 気持ちを読みとったかのように、久遠が真っ直ぐな声で言った。

「結果は様々な要因が重なった上で決まるもの。誰が悪いと責任を押しつけても、解決への糸口は見えないままよ」

 鋭い視線が、俺の方へと飛んできた。

 西ヶ谷が崩れたら、誰が津久井君を支えるの?

 私だけで支えられるような状況ではないことを、すでにわかっているでしょう?

 今すべきことは何か、その答えを導き出すのが先ではないの?

 それだけのことが、言葉を介さずとも聞こえてきた。

 腕を組みなおし、津久井へと視線を移していく久遠。

「津久井君」

 津久井は顔を上げなかった。

 反応も示さなかった。

 それでも、久遠は目を離さなかった。

「あなたは逃げているだけ」

 冷たい口調で、そう言い放った。

「あなたは三年生からの反撃が怖いだけ。野球部のこと、同級生のこと、理由をつけてこそいるけれど……全ては建前にすぎない」

 そこにいるのは、久遠だった。

 絶対に曲げない。

 絶対に容赦ようしゃしない。

 絶対に場を濁して逃げようとしない。

 どんな理由があろうとも、どんな状況であろうとも……

 自分の信念を貫き通す。

 それがいじめから救うための最善策だから。

 例え、目の前の人間が自ら命を絶つようなリスクを背負ってでも。

 それができるからこそ、津久井に向かって言葉を浴びせている人間は、やはり久遠だと思った。

「そこまでして逆らおうとしないほど、あなたは先輩たちが……」

「怖いよっ!」

 叫ぶような、怒鳴るような、訴えるような。

 一際ひときわ大きな津久井の声が、部室の隅々まで響いた。

「毎日毎日毎日毎日! 嫌がらせをされて! 変なうわさ話を流されて! あざができるくらい殴られて! 蹴られて!」

 下を向いたままだったが、力の限り大声で発生している津久井。

 それは、今までたまっていたものが一度に出ていくかのようだった。

 あるいはダムが決壊した時のように、支えるものがなくなったと言ってもいいかもしれない。

「誰も助けてくれない! 誰も戦ってくれない! 誰も! 誰も!」

 涙声が混じるようになってきたな。

 いじめを受ける人間というのは、ほとんどが孤独な存在なのだ。

 他人と交流するのが怖いから。

 単独でいるのが楽だから。

 理由は様々だが、同時に孤立を招きやすい。

 助けてくれる人間がいないゆえに、全てを自分だけで抱え込んでしまうのだ。

 それだけ、信頼できる人間がいないからだろう。

「僕だけで勝てると思ってるの!? 非力な僕だけで!? 大したとりえもない僕が三年生相手に!?」

「ええ勝てるわ。あなたの努力次第だけど」

 冷静な声で久遠が返す。

 が、それが津久井の怒りに油を注いだらしい。

「ありえねえよ! そんなのは幻想なんだ! 虚妄きょもうなんだ! いじめなんか受けたことのない人間が、高い位置から見下して言う妄言もうげんなんだよ!」

「なんですって……」

「ああ……君はいいよな。理数科で成績優秀なんだろ……? ここにいる人間は、いじめられたやつの気持ちなんか考えたこともない、役所のお偉いさんみたいな連中なんだろっ!?」

 津久井が言い切らないうちに、久遠がガタッと背を伸ばした。

 そのまま顔を上げた津久井のところへ足早に近寄ると、

「ぐっ…!? なんだよっ!?」

 胸倉をつかみ、無理矢理立ち上がらせながらその目をにらみつけた。

「もう一度言ってみなさい、その言葉」

「何度だって言ってやるさ! ここにいる人間は、いじめられた時の恐怖感なんて知らないんだろ!?」

 軽く頭一つ分は身長差のある久遠と津久井。

 それでも久遠は負けていなかった。

 胸倉をつかんだままパイプ椅子から引きずり下ろすと、つかつかと俺の方へと力ずくで連れてきた。

 お、俺に何か言わせる気か……?

「この男を見なさい! 目の前にいる西ヶ谷という男を!」

「見てるだろうが! 何だって言うんだよ!?」

 ごくりとつばを飲み込むと、

「私は役所のお偉いさんみたいに感じるかもしれないわ。でも彼は――西ヶ谷は違う。あなたと同じようにいじめを受け、それでも生き抜いてここにいるのよ!」

 叫ぶように言った。

 いじめを受けた?

 ああ、剣道部の一件のことを言っているのか。

 あれはきつかったもんな。

 だまされてさ、バスケ部から目の敵にされてさ。

 最後は剣道部の一年生が本当のことを訴えてきたからよかったものの、自分への自信を完全に失うところだった。

「だから何だよ!?」

「恐怖なんて知り尽くしているってことよ! 先輩が怖い? 反撃を受けたら怖い? だから何なの?」

 ふたたび視線を津久井に戻す久遠。

「怖いから抗いません? あなたはそうやって、力のある者には一生服従していくつもりなの?」

「なんで一生の問題になるんだよ!?」

「なるに決まっているでしょう! ここは高校よ、社会の縮図なのよ!? ここであなたに起こった問題は、そっくりそのまま社会人になった時に反映されていくんだから!」

 高校は社会の縮図――

 そうだな。

 嫌なやつともクラスメートとして顔をつきあわさなければいけない。

 理不尽な教師にも逆らってはいけない。

 結果が反映されるわけでもない選挙にも投票しなければならない。

 見事に日本社会の縮図だな。

 そして、いじめもしかりだ。

 ただ年齢が上であるというだけの先輩に逆らえなければ、役職が上の人間や財布を握られているような人物に対し、例え命がかかっていても逆らうことはできないだろう。

 そういう意味でも、ここは「学校」なのかもしれない。

「あなたが思っているほど、人生は甘くないわ」

「じゃあどうしろって言うんだよ!?」

「覚悟を決めなさい! 自殺する覚悟ではなく、殺す覚悟をね!」

 思わぬ言葉に、津久井の口が結ばれる。

 またすごいことを言い出したなと思った。

 殺す覚悟を持てって……

「西ヶ谷は反撃のリスクを背負いながらも、いじめてきた相手を返り討ちにしたわ。……あなたも死ぬ覚悟があるのなら、殺す覚悟も見せなさい」

 そうだ。これがいじめに対する、唯一ゆいいつ有効な手段。

 抵抗の意思を見せ、抑止力とする。

 これができるかできないかで、いじめを回避できるかどうかは大きく変わってくるのだ。

「で、でも……、俺にはそんな力はないし……」

 さっきとは大違いの、弱々しい声が聞こえてきた。

 どうやら久遠のすさまじい剣幕けんまくに折れたらしい。

 久遠はつかんでいた手を緩めた。

 ドサッと倒れこむ津久井。

 はぁ……と俺は息をついた。

「私たちは、あなたの気持ちを理解することはできない」

 静かな声で久遠が言った。

 声はさらに続く。

「でも、あなたの望む行動を、代わりにとることはできるわ」

「望む……行動……?」

「私たち雑務部の目的は、いじめた者に怒りの鉄槌を振り下ろすこと。……あなたの代わりに、三年生たちへ制裁をすることよ」

 久遠がそう言い切った瞬間……

 携帯の着信音が聞こえてきた。

 バイブレーションのパターンが違うし、俺のではない。

 久遠も、こんなおしゃれな着信音にはしないはずだ。

 ……というか、設定できないはずだし。

 ということは……

「で、電話……いい?」

「ええ、どうぞ」

 津久井が右ポケットをまさぐり、ブルブル震えているスマホを取り出した。

 明るいブルーのケースがつけられている、細長いスマホだ。

 そのまま出るのかと思ったが、着信画面を見た津久井が動きをとめる。

「どうした? 出ないのか?」

 俺の言葉に津久井は、

「……三年生の先輩です」

 と答えてきた。

 直接、電話をしてきたか。

 メールのような間接的な接触ではないとすると、何か嫌な予感がする。

「その着信、私たちにも聞こえるようにできるかしら?」

「ハンズフリーに設定しろよ。そうすれば不自然でもないし」

 俺の提案に、津久井はこくりとうなづいた。

 部室中央の長机にスマホを置き、ハンズフリー設定で電話に出る。

「……はい、津久井です」

『おう、出るのが遅せえ。すぐに出ろよ』

 ドスのきいた声というか、不良みたいな低くした声が聞こえた。

「すいません」

『まあいい。お前今どこにいる?』

「まだ学校です。担任の先生のところへ行っていました」

『本当か? てめえウソついてるんじゃねえだろうな?』

「はい、本当ですって」

『ウソだな。声でわかるぞ。……もう一度聞く。本当に、教師に用があったのか?』

 怯えた津久井の顔。

 呼吸が少し早くなり、顔が白くなりかけている。

 怖いんだろうな、野球部の先輩っていうのは。

 すると久遠が、メモ帳にさらさらっと何かを書き始めた。

 シャープペンで走り書きした文字だが、それを津久井へと見せる。

“担任のところへ行っていたで通しなさい”

 震えながらうなづく津久井。

「本当ですよ。……提出物を忘れてしまったので」

『提出物? 何の?』

「えっと……宿題の問題集をやっていなかったので、それで……」

 向こうはウソだと完全に見抜いているんだな。

 だが見抜いていたところで、それを証明する方法はない。

 実際に教師へ聞くという手段がなきにしもあらずだが、そんなことをするような人間なら津久井をいじめたりなどしないだろう。

『……ちっ、しょうがねえな』

 あきらめたような口調で返事がきた。

『じゃあ今からすぐに安倍川の河川敷へこい。練習だ』

「練習? 今からですか?」

『今からだよ。場所はバイパスの橋の下、ガタガタ抜かしてねえでとっととこいや』

 津久井が反論する間もなく、通話は切られてしまった。

 河川敷で練習、ね。

 オレオレ詐欺レベルでうさんくさい。

 静岡市のやや西側を流れる安倍川には、どちらの河川敷にも野球やサッカー、その他スポーツに使えるグラウンドがいくつもある。

 平日の夕方に使っている人などほとんどいないから、それらを使わないというのはあまりにも不自然だ。

 それ以前に、学校のグラウンドで練習すればいい話なのだし。

「罠を張ってきたわね」

「わかりやすい罠だけどな」

 おそらく津久井が断れないことを承知で、河川敷にこいと言ったのだろう。

 何をされるかわからないが……

「さて津久井君、どうするのかしら?」

「どうする……というのは……?」

 困ったような目で久遠を見る津久井。

 そんな怯えた目で見るなよ。

 甘えたこと言わなければ、別に久遠だって怒ろうとは思わないし。

 その久遠は改めて背筋を伸ばすと、凛とした声で言った。

「私たち雑務部は、いじめをする者に制裁をするのが役割。……あなたがいじめを受けているとしっかりと認め、依頼をしてくれれば、私たちは初めて動けるようになるわ」

 野球部が甲子園大会に出られなくなるかもしれない。

 二年生が野球をしていけなくなるかもしれない。

 建前だったとはいえ、これらも完全に無視できるリスクではないだろう。

 大丈夫だ。

 それをクリアする方法を、俺たちは考えた。

 野球部は大会に出られるし、二年生も部活を続けていけるだろう。

 しかしそれをあえて言わないのは……

 久遠が、津久井の覚悟を試しているからだろう。

 自分の置かれた状況と、向き合っていけるのか。

 自分はいじめをされているのだと、受けとめられるのか。

 自分は反撃を怖がっている弱い人間だと、認められるのか。

 そして自らのプライドと利益を天秤てんびんにかけ、必死に考えている津久井。

 数分……もっと考えていただろうか?

 やがて顔を上げると、

「……僕は、野球部の三年生にいじめられています。だから……助けてください」

 弱々しくも、はっきりとした声で伝えてきた。

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