5-3.覚悟したのは津久井
その夜――俺はバイパス近くの道路脇を歩いていた。
いくら昼の長い七月といえど、この時間にもなれば太陽などとっくの昔に沈み、空は青みのかかった黒色をしている。
特にこの道路は住宅街を通っているため、明るい照明も少ない。
前から走ってくる乗用車、後ろから迫ってくるトラック。
そのヘッドライトの光に目を細めながら、あまり広くない白線の内側をとぼとぼ歩いていく。
家から一キロ近くも離れたこんな場所にいる理由は、書店に行った後だからだ。
趣味と呼べるような趣味もない俺。
唯一惜しい立ち位置にいるのが、ある意味イメージぴったりの読書だ。
思い立った時にふらっと書店に立ち寄り、表紙とタイトルを見て面白そうな本を買ってくる。
読書自体は履歴書にも書けるほど立派な趣味なのだが、どうして趣味と呼べないのか。
それは読むスピードが殺人的に遅いからである。
元から黙読が遅いというのに加え、環境変化に対して妙に敏感なせいか自宅以外では読む気が全く起きない。
さらに毎日読むわけではなく気が向いた時に二、三ページを読み進めるだけなので、そんなに長くないものであっても読破するのに半年はかかっているのだ。
これで「読書が趣味です」というのはちょっと抵抗感がある。
なぜか内容も頭に入っていないことがあるしね。
まあそもそも、「趣味は何ですか?」と聞かれたことすらないんだけど。
ちなみに今日買ってきたのは「遊撃艦隊抜錨せよ!」というミリタリー小説だ。
主人公がヒロインと共にタイムスリップし、太平洋戦争の結果を変えていくという内容なのだが――
オブラートに包んで言えば、「ものすごく作者の個性が現れている」かな。
出てくる登場人物は自分と大して年齢の変わらない女の子ばかりだし……
しかもみんな胸が大きい設定になっているし……
ヒロインなど、相手が誰であろうと構わず襲っているし……
この作者、ものすごく女の子好きなんだろうなーと思う。
たぶん女性経験のない、俺みたいなやつが書いているんだろうな。
女子のクラスメートとか、同じ部活の女子とかを常に視線で追うようなやつ。
あ、俺はそんなことしていないからな!
あれは視線の中に向こうから入ってきただけなのだ!
ノーカン! ノーカン!
……どこの地下にいる班長だよ。
部活の女子と言えば、久遠を思い出してしまった。
ついでに失敗した津久井のことも。
「……」
やっぱりあれは俺の責任なんだろうな。
津久井がいじめられていた原因を探ることはできたが、同時に雑務部への期待を裏切る結果となってしまった。
雑務部はいじめられた者にとって、頼ることのできる最後の砦だ。
そこから希望通りに対処できないと言われたダメージは大きいだろう。
久遠がどういう回答をするのかもわかり切っていたことだし、あまりにも博打だったな……
すぐ右横にコンビニのまぶしい照明を受けながら、前方にある少々大きめの交差点へと歩いていく。
左には営業時間を終え閉まっている、真新しい自動車ディーラー。
正面にはまだ明るさの残っている、ハンバーガーのファストフード店。
ここは側道が県道と合流する道だ。
高速道路のインターチェンジともつながっているので、時間に割りに交通量が多い。
先を急ぐように走っていく自動車をボヤーッと見ながら、俺は白線の外側から正方形のタイルが敷き詰められた県道脇の歩道へと入った。
「ん?」
信号待ちで止まっている自動車。
そのヘッドライトに照らされながら、細身の女性がこちらに向かって横断歩道を渡ってくる。
そでをまくった灰色のパーカーに同じ色のズボン。
足を踏み出すたびにさらっと揺れる、肩よりもさらに伸ばされた黒い長髪。
色白で冷たく、どこか見慣れたその顔。
……久遠?
目が離せなくなった俺の視線に気づいたのか、
「あら、西ヶ谷じゃない」
横断歩道を渡り切ったところで顔を向けてきた。
笑顔……とは言えないが、さっきよりは表情がやわらいでいる気がする。
「何やっているんだ? ランニング?」
その格好で暑くないのか? と思いながら聞く。
夜とはいえ、気温はなかなか下がってくれない。一応、まだ熱帯夜ではないらしいが。
「違うわよ。部屋に篭っていると息が詰まるから、たまにこうして散歩するの」
そうするのが当然かのように、自然な形で俺の隣へと並んでくる久遠。
正直言って、ドキッとした。
さっきまで女子のことを考えていたせいなのか、変に意識してしまう。
そういえば、こうしてプライベートで久遠と会うのも初めてなのか――
「普通科も野球部の応援はあるのかしら?」
幅二メートルもない歩道を、二人並んで歩いていく。
「あるどころか、強制的に狩り出されることになっているよ」
「そうよね、理数科があれば普通科もあるわよね」
理数科も応援に行くのか。
勉強第一の科だから、まず行くことはないと思っていたんだけど。
「理数科も行くのか」
「担任が野外活動をさせたがるのよ」
理数科の担任は、何か特別な授業で姿を見たことがある。
ふわふわしているというか、メルヘンチックというか……
勉強中心の理数科担任とは思えない、つかみどころのない女性教師だった気がする。
あの人が野外活動好きねぇ……
「じゃあ夏休みとかも何かあったりするのか? キャンプとかさ」
「そんなレジャーに行かないわよ。あるのは勉強合宿ね」
「なんだそれ?」
名前から何となく想像はつくけど。
「東静岡駅の近くにある文化ホールに行って、缶詰になるのよ」
「缶詰って……」
想像できるけど、想像したくないな。
泊まりこんでまで勉強するとは、さすが理数科。
五十分授業の半分も集中できない俺が行ったら、途中で逃げ出すか発狂するかのどちらかだろうな。
勉強によるショックで死んじゃうかもしれない。
西ヶ谷 一樹を飼う時には、絶対に勉強をさせてはいけないよ♪
「普通科に夏休みの学校行事はないのかしら?」
「うーん……、普通科でっていうのはないな」
「夏期講習も?」
「ああ、それはある」
たった五日だけどな。それもプリント数枚をやるだけど聞いている。
普通科は勉強ガチ勢じゃないから、受験対策なんて三年生の後半になってからだ。
中にはもう準備をし始めている生徒もいるが、俺を含めほとんどは受験などまだまだ先のこと……って感じだし。
「西ヶ谷みたいに適当ね」
冷静な口調で言われた。
「それ普通科全員を敵に回した瞬間だぞ?」
でも久遠だったら、普通科全員を相手にしても勝てそうな気がする。
理数科に匹敵するような秀才もいれば、俺みたいに中学卒業を疑われるレベルもいるのが普通科だからな。
「久遠の話を聞いていると、普通科でよかったよ。勉強を強制されているみたいで苦痛だ」
「そうかしら? まあ集まってやる必要性は感じないけれど」
「そこだよな。別に教師が集めなくても、生徒だけで勝手にやるんだから」
夏休みに友達の家へ、問題集やらノートやらを持って行き、狭い机を融通しあって鉛筆を走らせる。
お互いにわからないところを教えあったりして、真面目に勉強するのだ。
……するかと思えば、先に解き終わったやつの答えを丸写し。
少し頭が働けば、どこからか模範解答を持ち出してきて人間コピー機と化す。
そのうち、宿題に飽きてゲームを始める。
ここまでが夏休みに生徒が集まる時のテンプレートだよな。
うん、やっぱり教師が集めた方がよさそうだ。
「あれっ、どうした?」
さっきまであった、隣の気配がなくなっている。
後ろを振り返ると、久遠が足をとめていた。
「久遠?」
「……」
じっと下を向き、右手を軽く握り締めたまま顎へとあてている。
久遠が考えている時の仕草だ。
一メートル足らずしか間のない空間だったが、時間が固まっているようにも感じた。
息苦しいというほどでもないが、緊張感が漂っている。
俺……何か変なことを言ったのだろうか……?
久遠の後ろに見える信号機が、青から黄色を経て赤へと変わる。
うなるような走行音を流しながら走ってきた路線バスが、甲高いブレーキの音をたてつつ白線を前にして停車した。
プシュン! という空気の排出音。
「それだわ」
音が収まるのを待っていたかのように、久遠が顔を上げた。
顎にあてていた右手を離し、前方に向きなおって歩き出す。
「それ? 勝手にやるってこと?」
「違うわ、その前」
「教師が集めなくても生徒だけでやる……ってこと?」
久遠の歩調にあわせるかのように、俺もふたたび歩みだした。
「津久井君の件よ。部活内のいじめではなく、生徒同士でのいじめとして処理をすれば……」
「どうなるんだ?」
つばを飲み込むように、ほんの少し首を振ると、
「部活から切り離されるのよ。生徒内でのいじめなら、学校という大きな単位で扱われることになるから」
部活で起きたいじめではなく、単なる生徒間でのいじめに見せるのか。
なるほど、考えたな。
たしかにそうすれば、関係のない野球部は責任を取らされることも、それによって大会出場資格を停止されることもなくなる。
さすがにいじめ一件で学校を閉鎖するわけにはいかないから、部活や他の生徒への影響としては最小限に抑えられるだろう。
全校を巻き込んでしまえば、他の部活や生徒との調整が必要なくなるため、雑務部としても動きやすくもなるし。
メリットばかりが目立つが……問題点もある。
「……関係者が全員野球部員だとわかれば、野球部の責任も問われるんじゃないか?」
雑務部が出動するようないじめが発生した場合、警察と県の教育委員会にその報告が行われる。
この教育委員会への報告――上申にはいじめの詳細情報が含まれているのだが、これが問題だ。
なぜなら被害者や加害者の詳しい情報も送ることになっており、その中に「所属部活」が存在するのである。
つまり、生徒間のいじめとして上申したとしても、単純に上申するだけでは関係者全員が野球部だとわかってしまうため、「これは野球部内でのいじめではないか?」と思われてしまう可能性があるのだ。
雑務部としての所見は数行でまとめられるため影響力もないし、これを教育委員会が見逃してくれるかと言われれば……
書類を偽造するわけにもいかないし。
「野球部員でなければいいのよ」
久遠が声のトーンを変えずに言った。
「いや、だって四人とも野球部員じゃないか。それとも三人が野球部員でない可能性にかけるのか?」
「それは無理よ。津久井君の話からして、野球部の先輩であることは確実なんだから」
いじめの原因が野球部絡みなのだから、野球部員以外が出てくるわけがない。
では、「野球部員でなければいい」の意味は何だろうか。
それに答えるかのように、久遠は顔をこちらに向けると、
「でも野球部員として扱われない方法があるわ」
無表情で、しかし自信に満ちあふれるかのような視線を送りながらそう言ってきた。
野球部員として扱われない方法とは一体……
やっぱり書類偽装なのか?
「それよりも、この方法の問題点は別のところにあるわ」
右手方向に白い光でうっすらと照らされている土手が見えてきた。
その向こうには照明を落とし、閉店準備をしている和菓子屋。
さらに奥には電飾が鮮やかな電気店。
久遠の住む静清ホーム、その近くの交差点まで帰ってきた。
横断歩道に向き直り、信号で足をとめる久遠。
「津久井君が、いじめを受けていると認めるかどうかよ」
そうだ。
いじめは受けた人間が判断する。
俺たち雑務部は津久井が「いじめを受けている」と認めることで、初めて行動できるのだ。
それまでは、何を考えても机上の理論で終わってしまう。
「そうだな。津久井自身が認める必要があるな」
「そしてそれは……西ヶ谷に任せるわ」
車用の信号が赤になり、ほどなく正面の信号が青色に変わる。
歩き出す久遠。
「おいおい、俺が津久井にいじめを認めさせろってのか?」
津久井は普通科だが、クラスは別だ。
クラスが別なら話す機会もない。
話す機会すらなければ、あれはいじめだと主張することも、いじめだと認めたほうがいいと説得することもできないのだ。
同じクラスであったとしても、俺が何とかできると思うか?
「そうよ。西ヶ谷を信頼しているわ」
背中を向けながらそういい残し、久遠は静清ホームの方へと去っていった。
やれやれ……
信頼しているわ、かよ。
久遠から雑務部員としての任務を任されたのは光栄だが、できる気が全くしない。
今日の失敗があるだけに、余計手が出しにくいのだ。
「汚名返上だと思うか……」
こんな時でも、空には星が輝いていやがる。
輝いている余裕があるのなら、俺に方法を教えてくれよ。
※フラワーコウ氏作「遊撃艦隊抜錨せよ!」
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