5-2.覚悟したのは津久井
薬品倉庫の片付けは一時間以上かかった。
作業内容自体は単純なものだ。
授業で使った薬品のビンを、化学室から薬品倉庫の決まった場所に戻すだけ。
その気になれば小学生でもできる簡単な作業。しかもビンが大量にあるわけでもない。
問題があったのは二つ。
まずビンの表記が化学式で書かれていたこと。
そして、俺にはそれを理解できるほどの能力がなかったということだ。
おかげで「これは何?」とか「塩酸? えっと、どれ?」と聞き返しながらやることとなってしまった。
おまけに久遠と佐々木先生に化学の講義までさせられるし……
塩酸が「HCl」とか、どこをどうしたらそこに落ち着くんだ。「塩」でいいじゃないか。
そう久遠に文句言ったら「じゃあ塩化ナトリウムとどうやって区別するのかしら」と言われた。
塩化ナトリウムだHClか知らないが、俺には一生塩のない話だ。
……おい、誰か笑えよ。今の笑うところだぞ。
そんな俺の勉強不足で時間を取られながらも、ようやく薬品倉庫の整理が終わった。
俺と久遠は部室へ戻ろうと、東側の階段を上っていく。
「おっと」
前を歩いていた久遠が、窓の前で急にとまった。
ここは三階と四階の間にある踊り場。
上る階段と下りる階段の間に設けられたスペースは、曇りガラスのおかげで照明がなくても十分に明るい。
そして、三ヶ月ほど前に朝霧がいじめられているのを見かけた場所だ。
全てがスタートした、始まりの場所――
「……どうしたんだ?」
その踊り場にある小窓から、久遠はじっと外を見つめている。
風を誘い込むため半開きになっている小窓には、久遠の顔が映っていた。
無表情の、しかし何かを必死に感じ取ろうとしているような鋭い目で。
「西ヶ谷、あそこ」
数十秒ほど見つめていただろうか。
ふわっと顔を離し、俺の方へと少しやわらかさを取り戻した視線を向けてきた。
そして小窓を右手の人差し指で示し、のぞくようにジェスチャーする。
「どこ?」
聞きながら久遠と場所を代わり、外を見つめた。
夏で日が長いとはいえ、この時間帯では太陽が傾きかけ夕焼けが空を染め始めている。
そんなオレンジ色の空から目線を下げていけば、ガラス張りの東館の建物。
四階から三階、三階から二階……
「裏の方、災害用倉庫のスペース」
久遠の小声が耳へ入ってくる。
東館裏は災害用倉庫が立ち並ぶスペースだ。
五つか六つほど見える、銀色で直方体の倉庫。赤い小型消火器も三つほどあり、コンクリートで固められた区間は非常用の井戸……
「んっ?」
その井戸のすぐ横あたり、三人の人影が見えた。
白いシャツにネクタイを締め、下はズボンの服装は俺と同じ男子生徒だ。
二年生か三年生に見える彼らは、真ん中にある白黒のボックスのような物体を蹴っている。
……いや、違う!
蹴っているのは何かの物体ではない。
同じ男子生徒だ!
「おい、これ……」
「行くわよ」
俺からの返事を待たずして、久遠は階段を駆け下り始めた。
慌ててその背中を追う。
一段飛ばしで西階段を下りながら、ふとある記憶が舞い戻ってきた。
あの踊り場から始まった、朝霧さんのいじめだ。
あれも起きた場所は東館裏の災害用倉庫のスペースだった。
倉庫の配置、置いてある物、校舎との位置関係。
大きく変わっていないあの場所は、周囲から見えづらくて人も来ないゆえ、いじめには絶好の場所なのだ。
一階に下りた久遠は、「開閉厳禁」と書かれているガラス戸を蹴り飛ばすように開けた。
ゴーン……という反響音を残して外側に開け放されるガラス戸。
職員室やグラウンドにいる運動部の顧問に聞かれやしなかったかと心配しながら、俺もガラス戸をくぐり抜けた。
東館と西館をつなぐ連絡通路、その下から外れて災害用倉庫のスペースへとひたすら走った。
「何してるの!」
四人の姿を視界に捉えるなり、久遠が鋭い声を上げた。
同時に左のポケットからピンク色の箱を取り出し、マジックのように空中で開いた。
針が数本と太さがまちまちの白い糸、人差し指用の指あても見える。
知らない人から見れば、ただの裁縫セットだ。
しかし久遠のそれは違う。
いじめを行う者に怒りの鉄槌を下すための道具、背中に集まる神経を圧迫して動きを封殺することのできる、強力な武器となるのだ。
その武器――長さ五センチにも満たない針を構える久遠。
照準の先には、四人の男子生徒。
一人は頭を抱えて地面へとうずくまっており、残る丸刈り頭の三人がそれを取り囲んでいる。
集団暴行?
久遠の声に面倒くさそうに顔を上げた三人。
しかしそれが久遠だとわかるなり、
「やべっ!」
「逃げるぞ!」
目を見開き、怖いものから逃げるようにして後ろにある倉庫の裏へと姿を消していった。
声が遠くなっているあたり、きっとグラウンド側に脱出したのだろう。
久遠が声を上げてから、わずか数秒の出来事だ。
「ふぅ」
久遠が息をつき、右手の針をピンク色の小箱へと仕舞った。
立てないのか、先ほどのままうずくまっている男子生徒。
助けようと近寄りながら、俺は三人の行動に違和感を覚えていた。
……何に怯えた?
女子相手とはいえ、針を向けていれば怖く感じるのはわかる。
しかも姿を現したのは久遠だ。
雑務部がどういう行動をとってきたのか、その部長は誰なのか、目標となった部活動や生徒はどうなったのか。
それを知っていれば、久遠に怯えるのは当然といったところだ。
……それでも違う。
針に怯えた。
久遠に怯えた。
そのどちらでもない気がするのだ。
しいて言えば……見られたくなかった?
「隠れていじめをしていれば、あたり前のことか」
結局そんな初歩的な結論にたどり着いた。
やっぱり違和感は消えないけど。
うなだれているようにも見える男子生徒の右腕をつかみ、せーので起こしてやった。
頭髪にうるさい南城高校の教師相手にも一発で合格がもらえそうな、短髪と丸刈りの中間くらいの髪型。
丸い顔は元気がなく、またやつれている様子にも感じ取れた。
細めの目はしょんぼりしていて、口元からも笑みが消えている。
土がついているせいか茶色気味になっているシャツ、ぐにゃりと曲がっているネクタイ。靴底の跡が前に後ろに、いくつもついている黒いズボン。
手ひどくやられたみたいだな……
足下まで視線を落とすと、数センチ四方の紙片が落ちている。
どうやら選択授業の割り当て表らしい。
授業数が多いな。ということは、この男子生徒は二年生か。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
紙片を差し出すと、慌てて受け取る男子生徒。
「俺らも二年生だから、敬語は使わなくてもいいよ」
「それより何があったのかしら? 見ている限り、ちょっとした諍い程度には見えなかったけど」
隣に並んできた久遠が聞いた。
「いや、何もない。ちょっとケンカしただけだ」
「ケンカ? その割には……」
「僕が変な主張をずっとしていたんだ、彼らは悪くない」
やけに一方的だったなと言おうとして、先を読まれてしまった。
「本当でしょうね?」
「ほ、本当だよ。大丈夫だ、もう解決しそうだからさ」
作り笑顔で笑ってみせる男子生徒。
無理をしているのがよくわかる。
本当にケンカなのか? 三対一のケンカなのか? もしかしてさっきのは……
「いじめでは、ないのね?」
俺の心の声を読んだかのように、久遠がストレートに問う。
「う、うん。いじめじゃないから。彼らに追いつかなくちゃならないから、もう行くよ」
それじゃあ、ありがとうな。
そう言いつつ何度も頭を下げながら、男子生徒は銀色の災害用倉庫の裏へと姿を消していった。
……普通に校舎側から行けばいいのに。
「いいのか? 行かせて……」
踏み込んで問いただすかと思っただけに、久遠の行動に対して不満感のようなものを抱いた俺。
踊り場から見ていじめであることは明白だったのだから、事態を深刻化させないためにも早期に対処したいところだ。
つまり、ここでいじめだと言質をとるべきだったのではないだろうか。
「西ヶ谷」
「なんだ」
「西ヶ谷は、あれがいじめに見えた?」
妙な質問をしてきた久遠。
「あたり前だろう。久遠には見えなかったのか?」
俺にはそのつもりで小窓を見るように指示したのかと思った。
そして実際に見えたのは、二年生の男子生徒が他の三人から一方的に蹴られるシーン。やはりいじめだった。
じゃあ久遠は何だと思ったんだ?
男子生徒の言う通りにケンカだと判断した?
それとも何らかの作業中、たまたまいじめのように見えたとでも?
「そうね……」
久遠は振り返り、さっきまで見下ろしていた西館の踊り場にある小窓を見上げた。
「……いじめにしか見えなかったわ」
そのまま視線を落とし、西館へと歩き始める久遠。
ことが終わったため、改めて部室に戻るらしい。
「でもそれは被害者が決めることよ」
俺は小走りで久遠を追い、開いた距離を詰めた。
「あの男子がいじめに遭ったと自ら言わなければ、今回の件はいじめにならないわ」
そうだ。
いじめの定義は、「いじめの被害者が一連の出来事についていじめられたと認めた時」だ。
あの男子生徒が「ケンカだった」と言い張る限り、俺たちは手を出せない。
あくまでも男子生徒単独で解決すべき問題、という扱いになるのだ。
「しかし、あれは裏があるんじゃないか?」
「ええ。間違いなくあるでしょうね」
一方的に被害を受けていることが明白なのに、いじめだと言わない理由。
反撃が怖いのか、解決が期待できないのか、単に恥ずかしいだけなのか……
いや、もっと深い理由がある気がする。
助けを求めたくても、求めることのできない理由が。
それが何なのかはわからない。
「西ヶ谷、あの男子とコンタクトは取れないかしら?」
さすがに今度はガラス戸から入るわけにもいかず、おとなしく玄関ホールへと回る。
ホールのガラス戸を開けたところで、久遠が問いかけてきた。
「……無理だな。クラスも名前もわからないし、普通科だってクラス間のつながりがあるわけじゃない」
六つある普通科のクラスと、数十名はいるそれぞれのクラスメート。
この中で一人の男子生徒を探すのは無理難題だ。
まあ本音としては、コミュニケーション能力に著しく劣る俺がそんなことできるわけがないからなんだけど。
「そう……」
すまんな、久遠。
ことが大きくなりそうな予感がする今回だけに、手伝ってはあげたかったが。
俺たちは無言のまま玄関ホールから階段を上り始めた。
そういえば、上履きのまま外に出てきちゃったな。
今日持ち帰って、母親に洗ってくれと言わなくちゃ……
あくる日――
昨日と比べ、最高気温が下がったと朝のニュースでやっていた。
……一度だけ。
最高気温というのをどうやってカウントしているかわからないが、一度下がったくらいでは何も変わらない気がする。
その割にはエアコンの設定温度を一度下げるとやけに涼しい。
誰かこの不思議な現象を解明してはくれないのだろうか。
東京大学の理学部あたりの研究室で実験しないのかな?
タイトルは「一度の変化による体感の違い」で。
題名だけはかっこいいのができたな、俺の仕事終了。
……などと言っている場合ではない。
暑くて汗が滲み出てくる。性能の悪い俺の頭はオーバーヒートしやすいんだから。
南城高校に限ったことではないが、最近の高校はどこへ行っても教室にエアコンが設置されている。
しかし近年の節電節電とうるさい国家には勝てず、だいたいが設定温度や駆動時間に制限があるものだ。
南城高校は設定温度は二十八度、かつ授業時間以外は電源を入れてはいけないという嫌なルールがある。
そして今は――朝のSHRの途中。
エアコンはついさっきつけられたばかり、つまり全然涼しくない。
一瞬で設定温度になるエアコンって、作れないのかなぁ……
頼むよ日本の職人さん。
首筋を汗がツーと流れていった。
外を見れば、朝だというのに元気よく照り続ける太陽。
その太陽を隠しそうなくらい上っている、真っ白な入道雲。そびえ立っていると表現した方が正しいかもしれない。
ホワイトボードと、その前で淡々(たんたん)と連絡事項を述べていく、我がクラスの担任。
廊下側を臨めば、ガラス張りでスケルトンになっている他の教室の風景が見えた。
どこのクラスでも同じように、白いシャツにネクタイを垂らした男子が、あるいは一番上のボタンを開けてブラウスを着崩した女子が正面のホワイトボードに視線を送っている。
昨日と変わらない、朝のSHRの風景。
「昨日……」
昨日といえば、東館裏にいた男子生徒のことが気になった。
なぜいじめだと告白しない?
当然、自分から「いじめられています」というのは辛いものだ。
だからいじめというのは表に出ないものが多く、発見しにくい。
しかし……
雑務部長である久遠のことは、全校生徒が知っていると言っても過言ではないだろう。
その久遠が現場を見たのだ。
声で訴えなくてもいい、頷くとか遠まわしに言うとか、伝える手段はいろいろ存在したはずだ。
にも関わらず……?
ダメだ、わからない。
当事者以外は、その心理など知る由もないのだから。
『それで次の連絡事項ですけども、もうすぐ甲子園大会があります』
担任の声が一回りほど大きくなった。重要な事項らしい。
甲子園大会――野球部の出場する全国規模の大会、「全国高等学校野球選手権大会」の愛称で、決勝トーナメントが行われる「阪神甲子園球場」からきている。
汗と努力の結晶で挑む、高校野球の頂点……らしい。
『えー予選大会がありますので、皆さんには午後から応援に出てもらいます。場所は……』
俺には関係ない、そう言いたいところであるが、不幸にも応援という忌々(いまいま)しい行動を強制されるのである。
野球部の大会なのだから、関係のない一般生徒がなぜ応援に行かねばならないのであろうか。
バスケ部のインターハイにも吹奏楽部のコンテストにも応援に行かないのであるから、野球部の応援に行くのもやめるべきである。これでは他の部活動に対する差別ではないのだろうか。
おまけに野球場のスタンドは炎天下、そこで立ち続けなければならない。
もはや拷問だ、懲罰だ、嫌がらせだ。
あああ……甲子園大会なんてなくなってしまえ。
声に出したら野球部員に殺されかねないので、心の中で叫んでやった。
その日の授業は午前で終了した。
夏休みが近くなってくると、教師たちの都合なのか短縮授業になったり、授業数そのものが減る日が出てくる。
これは小学校から高校まで共通事項みたいなものなのだが、やはり早く授業から解放されるのは嬉しい。
……ごく普通の生徒であれば、の話だけど。
というのも、俺は家に帰ったところでやることがないからだ。
ダッシュで家に帰り「新しくできたゲーセン行こうぜ」と言い合う友人もいなければ、数時間ぶっ続けでやれるような濃厚な趣味も持っていない。
ダラダラっとしてゲームをするか、昼寝で夜中に起きてしまうのが関の山だ。
かったるい授業を受けなくていいというのが最後のメリットであったが、受験対策とか言われて大量の宿題が出るのであれば、何の意味もなさない。
土曜講座は増やさないくせに、何が受験対策だよ。
増やさなくてもいいけどさ。
「違うでしょう? ここが十ボルトなんだから、こっちで分かれて……」
そんなわけで帰る場所のない俺は、ここ数ヶ月の癖で雑務部室へと向かった。
まさか宿題をやることになるとは思わなかったが。
エアコンがないため、相変わらず蒸し暑い部室。
流れてくる汗をぬぐいつつ、俺は久遠に教えてもらいながら宿題を片付けていた。
本来であれば、わざわざ理数科のエースに教えてもらわなくとも解いていけるレベルの問題だ。
しかし俺の頭は南城高校に入学して以来、ほとんど発展していなかった。
むしろ荒廃しつつあるかもしれない。
おかげで物理の電気分野が全くわからない。
ワームの法則とやらを使いなさいと久遠に言われたが、電圧と抵抗を掛けたら電流になるなんて教わった記憶がないぞ。
……オーブの法則だっけ? 電圧と電流を掛けたら抵抗になるんだっけ?
「西ヶ谷って、本当に中学校卒業したの?」
「うるさいな、なんなら卒業証書を見せてやろうか?」
と久遠に疑われるレベルである。
そういえば卒業証書はどこいったかな?
雑誌と一緒に燃えるごみとして処分してしまったかもしれない。
あれがないと、最終学歴が「小卒」になる可能性すらあるのですが……
「そこ、本当に計算したの?」
「だって全部で八ボルトだから、これが四ボルトになるんだろ?」
はぁ……とため息をつき、あきれかえる久遠。
頭が痛い、という風に右手でこめかみを押さえた。
直列接続と並列接続による電圧と電流の違いを出す問題をやっているのだが、分圧分流とか言われてもさっぱりわからない。
足したり引いたり掛けたり割ったりといろいろ試しているのであるが、分数まで出てきて余計に混乱していた。
「次だ次! 十五ボルトの電池に六オームの抵抗二つが並列につないであり、さらにその後ろに二オームの抵抗が……」
えーと六オームの抵抗が二つ並列にあるから、六分の一足す六分の一で六分の二になるのか。
それを約分して三分の一にして、そこに二オームの抵抗を……
全部で二と三分の一オーム?
「十五は四十五分の三だから……」
「どこを計算してるのよ? 分数なんて出ないわよ?」
もうわけわからん。思わずシャープペンを放り投げた。
並列接続は逆数にして足した後に引っくり返すと言われたが、直列が入ったらどういう扱いになるのか意味不明だ。
誰だよ、こんな面倒くさい計算を考えたのは。ワットか? ボルトか? オームか?
単位に自分の名前をつけるとか、ナルシストにも程があるだろ。
「これは並列接続の方から順番に解くのよ。六オームが二つだから、六分の一の二つ分で三分の一、引っくり返して三オームになって……」
久遠が俺の放り投げたシャープペンを拾い、回路図を指しながら説明してきた。
やはり理数科トップクラスの秀才、久遠の教え方はポイントを押さえていて上手い。
成績優秀者に聞くとよくある「何でそうなるの?」というのがなかった。
ただ惜しまれるのは、右から左へ教えてもらったことが抜けていってしまう俺の学習能力の無さだが。
「それでこっちの二オームと足して、全部で五オームになるわ」
身を乗り出してくる久遠。
ふわっとした花のような、女の子特有の匂いがする。
全身の力が抜けていきそうな、やさしい香り。
恥ずかしくて目線を上げられずにいると、一番上のブラウスのボタンが開けられているせいで、白いブラウスの下からやわらかそうな肌色の地肌が見えた。
息遣いと共に、細かに動く肌。
さらに目線を下げていけば、小さな肌のふくらみが見えてくる。
慎ましくも綺麗な形で盛り上がっている胸元。
それは吐息に合わせるようにして、わずかな上下を繰り返していた。
そして落ちていくに従い、緩やかなカーブを描いて……
「わかったから、暑いって……」
意図せず身体が動いた。
両腕で久遠の肩を押し、自分の身体から離してパイプ椅子へと座らせる
危ない危ない。
すんでのところで理性が働いた。
俺だって男子なんだから、少しは考えてくれよ。
女の子と付き合うどころか会話も交わした経験もほとんどなかった俺に、この状況は刺激が強すぎるって。
「あ……」
俺に引き離された久遠は動きをとめ、ちょっと驚いたような目をしている。
自分が拒否されたように感じたのだろうか。
「ああごめん。……ちょっと、飲み物買ってくるわ」
俺はガタガタっと不器用な音をたてながらパイプ椅子を後ろに下げると、必要もないのに早足で部室を出て行った。
スライドドアを引き開け、そして押し閉める。
放っておけば自分で閉まるスライドドアは、いつもであればそのまま開け放して出て行くところだ。
しかし今は、一秒でも早く久遠からの視線を切りたかった。
タンッとやや勢いのある音。
早く閉めたいと思ったせいか、少し力んでしまったようだ。
その緩衝用のゴムがドア枠にあたる音を聞いた直後、
「はああ……」
深いため息が自然に漏れ出てきた。
なんで俺って、女子に対してこんなにも不器用なのだろうか。
しかも相手は茶髪にミニスカのギャルではない、真面目な久遠だ。
見てるのがばれたって、全校生徒に「西ヶ谷はのぞき魔」と言いふらされるわけじゃないんだから。
代わりに鋭い針が首元へ飛んでくるだろうけど。
四階の廊下は静かだった。
このフロアにいるはずの文化部員は、午前中で帰ってしまったらしい。
どんよりとした暑さだけが、俺を取り囲んでいた。
……ジュース、買ってくるか。
突き放して出て行った感じになってしまったから、いつまでも帰ってこなければ久遠は心配するだろう。
俺は西側の階段へと小走りで向かった。
三階にある学食のスペースに近づくにつれ、小さいながら話し声が聞こえる。
放課後もある程度は機能を保ち続けるここは、文化部、主に吹奏楽部員のカフェみたいな場所となっていた。
今日も二年生か三年生の女子たちが三、四人の仲間と共にテーブルを囲んでいる。
男子の姿が全く見えないので、まるで男子禁制の場所に入っていくようで気持ち悪いことこの上ない。
校則で決まっているわけでもないのに軽く頭を下げ、そのまま端にある自販機コーナーへと向かった。
「はぁ……」
自販機の硬貨投入口に百円玉と十円玉を入れながら、漏れ出るようなため息をつく。
いくら胸が小さいからって、ボタン外した上にあれだけ近づけば見えちまうって。
久遠だって女子なんだから、そういうところには気をつかってくれよ。
女子としてのエチケットだぞ。
……それを見ようとした俺が言う言葉ではないけれど。
百五十ミリリットル増量中! と書いてあるお得感のするメロンソーダのボタンを押し込む。
ガラガラと音をたてて落ちてくる緑色の缶。
取り出し口の扉を開けて手を伸ばすと、キンキンに冷えた缶の表面が指先にあたった。
夏の自販機はこれがあるから買いたくなる。
紙コップに飲料を注ぐタイプ、あれでは体験できない新鮮な冷たさだ。
何でもかんでも新しい南城高校だが、これは従来のタイプでよかったなぁと思う。
ちなみに冬でも熱いコーヒーの缶とかで逆のことができる。
……季節関係ないじゃん。
「あれっ?」
その冷えたメロンソーダの缶を片手に四階へ戻ってくると、
「……」
校則で定められたよりも、さらに短く切ってある髪の毛。
白いシャツは一番上までしっかりとボタンを閉めてあり、ウエストよりもやや上方でベルトが締められている。
元気のない顔を下に向け、両手はギュッと握られていた。
そんな部室の前にいる男子生徒は……
「入らないのか?」
俺の声にビクッと身体を震わせ、驚くような表情を見せる。
巡回中の警官に見つかった空き巣かよ。
「理由があるから雑務部にきたんだろ?」
精一杯やさしくした声に、ホッと肩を落とした男子生徒。
昨日、東館裏でうずくまっていた、本人曰く「ケンカをしていた」二年生だ。
「いや、僕は別に……」
「いいからいいから。だったら遊んで帰るだけでもいいからさ」
断り切れないと思ったのか、男子生徒は決まりが悪そうにドアを開けた。
強引に入れてしまったが、どうしても昨日のことが聞きたかったのだ。
なぜ本当のことを言わないのか。なぜいじめと言わないのか。なぜ俺たちを頼ろうとしてくれないのか。
少しでもいいから聞きたかった。
連れ込んでしまえば、久遠が何とかしてくれるような期待感もあったからだけど。
「……私は西ヶ谷に拉致の教育をした覚えはないのだけれど」
男子生徒の後に続いてドアをくぐると、久遠からそう言われてしまった。
「俺は某国の工作員かよ」
真顔でそう言われると、俺が悪いみたいになるからヤメロ。
いや、半ば強引に連れ込んだことは認めますけどね。
不可抗力ですよ、不可抗力。
この不可抗力の使い方、絶対に間違っている自信あるわ。
某国の収容所みたいに狭い部屋へと連行された男子生徒は、どうしていいかわからずにキョロキョロしていた。
「ああ、あそこに座っていいよ」
そういえば、ここ椅子が二つしかないんだった。
問題集を片付けながら席に案内すると、おどおどしながらもパイプ椅子へと収まる男子生徒。
入り口から向かって左側の席、俺がいつも座っているポジションだ。
「なあ久遠、せっかくお客さんがきたんだからゲームでもしようぜ」
「それが目的で呼んだわけじゃないでしょうね?」
ちょっと厳しい目を向けつつも、自分の足下に置いてある通学用の鞄からトランプを取り出す久遠。
裏面に赤色の唐草模様が入っている、薄いプラスチック製のトランプだ。
どうやら今までとは違うやつを持ってきたらしい。
それを箱から出すと、慣れた手つきでシャッフルし始める。
俺が勉強を放棄したことを責めつつも、おもてなしはするのですね。
「何のゲームにするんだ?」
「大富豪でもやりましょうか」
他の意見は認めないくらいの言い切り方をすると、慣れた手つきでトランプを三人分にわけ始めた。
目の前に赤い唐草模様が、一枚、また一枚と重なっていく。
見事なものだ。下手なカジノディーラーなら素足で逃げていきそうなレベルである。
手早く五十三枚のトランプをほぼ均等に配り終わると、
「ルールはどうしようかしら」
この大富豪というゲーム、自分の順番がきたら手札を場に出していき、最初に手札を使い切った者の勝ちだ。
その場に出す上での制約みたいなものがあるのだが、そのルールがまた面倒くさい。
複雑というわけではないのであるが、何しろローカルルールが多いのだ。
ダイヤの三、七渡し、十飛び……
日本全国のローカルルールを足したら、それこそ全てのカードに効果がつくんじゃないだろうか。
もっとも最大の問題は、ルールの多さよりもそれの統一で揉めることであるが……
「八切りと革命と……」
「あとはスペード三返しでいいんじゃないか? どうせ三人しかいないんだし」
「そうね、それでいきましょう」
人数が少ない上、俺がシンプルなルールで決定してしまったので衝突らしいものは起きなかった。
この大富豪というゲームでもっとも重要なのは、強い手札を出すタイミングだ。
あるだけドンドン出していっては相手のあがりを阻止できないし、温存し続ければ自分があがれない。
ケースバイケースでどこまで対応していけるかという技術を競うゲームでもあるのだ。
俺の手札で強いカードと言えば――
クラブとハートのAが一枚ずつ、その次はJが二枚で十が一枚……
二が一番強い大富豪において、その最上位が不在という不運の手札だ。
三と八と九が三枚ずつあるから、これを軸にしていくしかないか。
でも三人だから、スリーカードでも強みにならないんだよな……
自らの運のなさを嘆いていても仕方ない。
「西ヶ谷から……ええと」
「津久井、です……」
男子生徒とは思えない、弱々しい声で返事がきた。
「……西ヶ谷から津久井君、それで私の順番にしましょう」
「それじゃあ俺からだな」
男子生徒――津久井を入れて、大富豪が始まった。
弱いカードから出していくのがセオリーだけど、人数が人数だけに革命が怖いな。
同じ数字が四枚そろうと発動できる「革命」。
カードの強さが全て逆転する、文字通り革命的な効果だ。
そうなれば最上位は二から三になり、それまで温存していた強いカードは、その価値を一気に失ってしまう。
でも革命が起きるとは限らないし、もっと言えばいつ起きるかもわからないのだ。
迷った挙句、下から二番目であるハートの四を出す結果になった。
「津久井君、どうぞ」
久遠が津久井へカードを出すように促す。
きっと必要以上に緊張しないよう、久遠なりに気をつかって話しかけているつもりなのだろう。
こういう時、やはり久遠も人間なんだなと改めて感じさせられるな。
津久井は無言でうなづくと、いきなりダイヤの九を場へ出してきた。
どうやら手札がいいらしい。
いやペアを崩したくないがゆえに、単独で一番低かった九を出してきただけかも……
「津久井君、あなたに聞いてもいいかしら?」
久遠がスペードのJをかぶせながら、少しうつむいている津久井に視線を移す。
「昨日のこと……?」
津久井はゆっくりと、ゆっくりと顔を上げた。
聞きたくないことを聞く時のように。
「そう。でも私たちは尋問しようとしているわけじゃないわ。」
「言いたくないことは言わなくていい。ただ言えることは言って欲しいんだ」
目撃した人のほとんどが「あれはいじめに見えた」と答えるであろう、昨日の出来事。
それを否定するのだから、背後に何か理由があるのは明白だ。
しかしそれを直接聞くわけにはいかない。
本人が言いたくないことを強引に聞くのは、いじめを受けている被害者を責めることになるであろうから。
人間、言いたくないことは多かれ少なかれあるものだ。
だが朝霧のように悪化する可能性がある以上、放置はしたくない。
そこで津久井が話せる情報から、それを推測しようという久遠の作戦だ。
「昨日のは……、いじめられていたわけじゃなくて……」
スペードのKと共に、かすれるような声が出てきた。
やはりいじめではないと言い続けるか。
それでも耳を傾け続ける、俺と久遠。
「僕は野球部員なんだけど……」
「だから髪が短いのね。……続けて」
Kに出せるカードはない。
俺が順番をパスすると、久遠もパスのジェスチャーをして見せた。
「それで、今年の甲子園のレギュラーに選ばれたんだ」
「レギュラー? ガソリンのことか?」
石油価格の高騰を受け、最近ガソリンの値段が上がってるもんな。
レギュラーがあるということはハイオクもあるのかね?
「西ヶ谷……知らないならしゃべらないでくれる?」
はぁ……と久遠がため息をつきながら、津久井の出した五のカードの上にQのカードを置いた。
「レギュラーというのは、簡単に言えば出場メンバーのことよ。実際に試合へ出る人」
「二年生で? それってすごいことじゃないか」
通常、大会に出場するのは三年生だ。
最後の公式戦であるし、技量もあって経験も豊富なのだから。
しかも野球部は学校をあげて応援するほどの注目度である。
そのメンバーに二年生で……
「嬉しいよ、嬉しいんだけど……」
「けど?」
「選ばれなかった三年生から、色々なことを言われたりして……」
パスの合図をしながら、津久井はもじもじとこぼした。
本来なら出場メンバーに選ばれるはずの三年生から、ね……
何となく察しがついてきたが、言わないでおいた。
俺がわかったのだ、久遠ならとっくに理解しただろう。
でも今この状況で、それを津久井に迫るわけにはいかない。
「どんなことを言われたの?」
四のペアを出しながら、久遠が質問を重ねる。
「『あーレギュラー入りできていいなー』みたいな言葉をしつこく耳元で言われたり、そうかと思えば話しかけても無視されたりして……」
俺の置いたJのペアに、Qのペアを静かにかぶせた津久井。
煽ってくるタイプか。
レギュラー入りできないのは自分の実力がないからだと、気がつかないのだろう。
あるいは気がついていても、それを認めたくない先輩としてのプライド。
このどちらかだ。後者の方が多いかな。
「部活ではトスバッティングと言って、近くから投げてもらったボールをネットに向かって打ち返す練習があるんだけど……それでわざと僕の方へ打ってきたりして」
「それ、ケガとかしないのか?」
津久井は六のペアを机に落とすと、左腕を見せつけてきた。
薄い茶色に焼けた腕には、青白いあざが丸く残っている。
よくよく見れば一つではない。真ん中にある大きなものの他、肘のあたりに二つ、手の裏にも丸く生々しいあざが一つ……
おそらく反対の腕や、見えない胸や腹部分にもあるのだろう。
グラウンドに転がっている野球ボールを拾ったことがあるが、あんな硬いのが金属製のバットによって高速で放たれてくるのだ。
よくてこうしたあざ、悪ければ骨折すらするかもしれない。
「最近は部活だけじゃなく、普段の学校生活でも嫌がらせをされたりして……」
「どんな嫌がらせかしら?」
「誰々と付き合っている、とか、あそこで一緒にいるのを見たとか……。クラスメートから聞かれるんだよ、毎日毎日……」
出たよ出たよ、他人の恋バナをいじめに使うやつ。
恋人がいるわけでもなく、モテるわけでもない男子にはこれが一番きく。
本人からすれば、恥ずかしいことこの上ないからだ。
「他にも突然呼び出されてパシリされたり、ロッカーの場所教えろとか言われたりして……」
「やめて、のように拒んだりしたことはなかったの?」
この質問は、被害者である津久井の嫌な記憶を引っ張り出すおそれがある。
そう感じたのか、より丁寧な口調で久遠は聞いた。
左手に広げた手札から、ハートのJをつかんだ津久井。
それを久遠の出したスペードの七へと重ねると、
「……やめて欲しいと言ったら、昨日の出来事が起きたんだ」
力なく、ややうつむき、声のトーンを下げて答えた。
津久井からしたら、あまりにも理不尽な出来事だろう。
やめて欲しい。そう言っただけで、暴力を受ける結果になったのだから。
「ということは、あの時に周りを取り囲んでいたのは三年生なのか」
俺の問いかけに、首を縦に振るだけで答えた。
そうか……だから俺たちを見て逃げ出したのか。
雑務部に野球部の三年生がいじめをしていたと知れれば、剣道部のように大会出場資格を停止させられる可能性があるから。
そうすれば例え自分たちがレギュラーになる以前に、大会に参加することすらできなくなるだろう。
「あなたはそれを、なぜ周囲に言うことができなかったの?」
ダイヤのAを出しながら久遠のした質問は、深い意味が読み取れるものだった。
あなたは言うべきだ、言って周囲の人に助けてもらうべきだ。
そう伝えたところで、津久井は周囲にいじめを受けていると告白したりしないだろう。
反撃が怖いから、恥ずかしいから、解決しないと思ったから……
いじめの被害者が、被害をなかなか告白できないのは様々な理由がある。
そしてそれが重い理由であることを、久遠は知っているのだ。
だから、助けてもらうべきだったとは言わない。
どうして言えないのか、久遠はそれを探りにきた。
しばしの沈黙の後、
「部活ができなくなるかもしれないから……」
小さな声で返事がきた。
「……いじめだと思われたら、剣道部のように甲子園へ行けなくなるかも知れないんだ」
部内で起こったいじめを隠ぺいした剣道部は、一年生の決断により雑務部から上申が行われた。
結果、一年の間は大会出場資格の停止処分が下り、今年と来年の大会は出場不可能となっている。
これで他の部活動でも、いじめが起きづらくなるだろう。
そう思っていたが……
「三年生は今年で終わりだけど、俺たち二年生はまだ来年まであるんだ。でも剣道部のように出場資格を停止されたら、甲子園どころか地方大会すら出られなくなるし……」
ハートの二を出し、津久井はさらに続けた。
「それに……嵐が過ぎるまでの辛抱だから」
いや、それは違う。
そう簡単に嵐は過ぎてはくれない。
もしくは過ぎていくまで、本人が持たないだろう。
俺もそうだった、剣道部の一件の時にそう思っていたんだ。
どんな嫌がらせをされても耐えてやる。いかなる暴力を受けようとも屈しない。
乗り越えられると思っていた。
だけど……現実はそんなに甘くはなかった。
気づいた時には精神的にボロボロになり、久遠にまで迷惑をかけてしまったんだ。
人間は予想以上に脆い。しかも脆いことに気がつかない。耐えることができると思ってしまう。
現在進行形でいじめに遭っている、津久井のような人間は特に――
「放っておけば、あなたはボロボロになってしまう」
久遠が厳しい目つきで言った。
やっぱり久遠もわかっているのだ。
これからエスカレートしていくであろういじめに、津久井が耐え切れないことを。
「私たちはあなたを全力で助ける。外部に漏らしたりもしないし、受けた依頼は最後までやり抜く」
静かだが力のこもった言葉。
「だから……私たちを頼って」
ハートの七のカードが置かれる。
「全部でなくてもいいよ。少しでも、頼ってはくれないか?」
俺はそれへ、同じくハートの十を重ねた。
いじめの巣ともなっている学校。
その場所で唯一いじめに対抗していける、雑務部。
圧倒的な力でねじ伏せ、立場や言い訳といった盾を壊していく。
頼む、これ以上はことを大きくしたくない。
今なら影響は最小限に抑えられる、決断してくれ――
「でも……部活ができなくなる可能性はあるんだよね……?」
一番のポイントを津久井はついてきた。
これがいじめだと言えない、本当の理由なのだろう。
いじめだと認識されれば、部活に影響が出るから。
大会に出られなくなるくらいなら、自分がいじめを我慢する。
さあ、久遠はどう答えるのだろう。
津久井から「いじめを受けている」と言わせることのできるチャンスだ。
言葉を濁すのか。
やんわりとオブラートに包むのか。
それとも……
「ええ。十分にあるわ」
やっぱり久遠だった。
うそ偽りのない、ストレートな回答。
真っ直ぐで、誠実で、それゆえに柔軟性のない答え方。
ここでうやむやにするのは、双方にとってプラスにならない。
そう考えたのだろう。
しかし残念ながら、それは津久井の望んでいた回答ではなかったらしい。
わずかな期待を裏切られたのか、久遠の方を向いていた顔をふたたび下へ向けると、
「では……昨日のことはケンカだったということにして」
あきらめるような言葉と共に、最後の一枚であるダイヤの四を捨てた。
信じ続けて持っていた、かすかな期待を放り出すように。
バサッ……
ダイヤの四は、そんな軽い音をたてて落ちた。
カードを出すプレイヤーのいなくなった、濃い茶色の木目調の上に一瞬で。
その音は決して大きな音ではない。注目するような音でもない。
しかし、俺の心の奥底まで響いてきたかのようだった。
久遠は間違いを犯したのだろうか。
いじめという非日常的な行為に苦しんでいる人間に、現実を伝えるのはやはり残酷なのだろうか。
例えうそであっても、「そんなことない」「俺たちがそうさせない」と言うべきだったのだろうか。
なんということだ。
俺は呪った、この冷たい空間を作り出してしまった自分を。
久遠が現実を伝えるという間違いを犯したのなら、俺はその状況を設定したというさらに大きな間違いを犯したことになるのだ。
部室へ連れてくれば、後は久遠が何とかしてくれる。
……無責任だったな。
津久井はギッとパイプ椅子を後ろに引いて立ち上がった。
そして振り返ることなく、出口へと歩いていく。
俺も久遠も、その背中をとめることはなかった。
……とめることができなかった、と言うのが正しいだろう。
パタンというスライドドアの閉じる音だけが耳に残った。
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