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5-1.覚悟したのは津久井

 七月――

 いつもなら一日が始まる度に「また今日も学校かよ……」と嘆くのが日常であるが、この月に限っては例外だ。

 なぜなら夏休みが近いからである。

 眠い目をこすりながら通学路を歩き、教室に入れば絡みたくもないクラスメートと顔を合わせる。授業ではわかりもしない問題に当てられるという罰ゲームを体験し、昼食のために長い列に並ぶ。午後の睡魔すいまと格闘、あるいは学校周りを半永久的に走らされる。

 そんな拷問のような日が綺麗きれいさっぱりなくなるのだ。

 快眠を妨げる目覚し時計も、自分を嘲笑あざわらってくるだけの嫌味な人間も、教えられた記憶もない問題を解かされることも、昼食で先を争う必要も、動きたくないと悲鳴を上げる身体を無視することも――

 全てない。いない。ありえない。

 そんな夢のような日を、一ヵ月以上送ることができるのである。

 まさに毎日が楽園、桃源郷にいるみたいだ。

 大げさだなぁと思われるかもしれないが、少なくとも俺――西ヶ谷 一樹はそう考えているのである。

 うん、この説明は説得力がある。入試で小論文が出たら、ぜひこれを使うことにしよう。

 まあこんな感じで、全国の一般的な高校生は夏休みというボーナスステージを指折り待っているのだ。

 とまあここまで夏休みへの思いを延々と述べたが、残念ながら七月は始まったばかり。

 スマホを取り出してカレンダーを開いたが、今日は七月の二日。何度見ても七月二日である。

「暑いわね……」

 パイプ椅子の低い位置から目線を上げると、窓際に立ちながら白く無地のうちわをパタパタとあおぐ久遠の姿が目に入ってきた。

 汗が頭からダラダラと流れ出てくる。それでも蒸発熱の効果は全然感じられない。

 俺もうちわの一枚や二枚、持ってくればよかったな……

 ここは放課後の雑務部室。防犯の関係上、廊下側は締め切ってあるが、グラウンドの見える窓くらいは開けておかないとサウナ状態になってしまう。

 グラウンドが照り返す太陽の光で、室内は電灯などつけなくても十分に明るい。いつものように中央を分断するような長机と、それを挟み込むようにして配置されているパイプ椅子。

 見慣れた部室だが、長机の上には申し訳ない程度の大きさの扇風機が、これまた申し訳ない程度の風を押し出しながら短い首をブンブンと回していた。

 扇風機以外は大した変化もない、通常営業の雑務部室である。

 おっと、部屋の変化はないが人間の外見は多少変化しているようだ。

「グラウンドにいる人達って、暑くないのかしら?」

 そう問いかけてきた久遠は、上半身の真っ白なブラウスに藍色主体の大きなリボンをつけている。汗で湿っているのか、下着の線がうっすらと透けているようだ。腰から下はリボンと同じ藍色に、薄い紅色をした格子状の模様が入っているスカート。真面目な久遠らしく、スカートの丈はクラスにいるギャルみたいな女子よりもだいぶ長い。

 いわゆる夏服というやつだ。

 そして暑苦しそうにかき分けた黒髪には――蜜柑みかん色の短いヘアピンが光っていた。

 あれは先日、俺が久遠にプレゼントしたものだ。

 従妹の買いものに付き合わされた時、雑貨店でふと目に留まったヘアピン。

 本当に「ふと」だった。使命感のようなものを感じたわけではない、頼まれたわけでもない。

 何となく、久遠に贈り物をしたかったのだ。

 苦し紛れに理由を述べよと言われれば、最近の恩を返したいと心の底で思っていたのかもしれない。

 それよりも久遠の好みがわからず、どう思われるのか心配であったが……

 つけているところを見るあたり、どうやら気に入ってくれたらしい。

「あいつらは汗をかくのが生きがいだから。熱中している時には神経がマヒしているんだよ」

 白くて胸ポケットのあるワイシャツに女子のリボンと同じ柄をしたネクタイ、下はやはり藍色に格子状の模様が薄く紅色で入れられているズボン。

 男子である俺も、夏服に衣替えだ。

 まあ上着を脱いだだけなのだが、いっそのことネクタイもいらないのではないかと思う。

「そんなに熱中できることなのかしら……」

 明るいオレンジ色がまぶしいグラウンドを見下ろしながら、久遠はそうつぶやいた。

 まあそう思う気持ちは理解できるな。

 こんな静かにしていても暑苦しい中、汗でベタベタになって疲れようとする神経が俺には理解できない。

 パイプ椅子から立ち上がり、久遠こ横からグラウンドを見下ろした。

 黒いウェットスーツのような上半身に、ところどころが茶色く土で汚れている白色のズボンをはいてゴールドカラーのバットを振っている野球部。

 半そで短パンの練習用ユニフォームを着て、声を上げながらボールを蹴り飛ばすサッカー部。

 体操着姿でラケットを片手に、ハァハァ息を荒げながらコートを走り回るテニス部。

 どれを見てもやりたいとは思わない。

 こういう日、というか季節はクーラーのきいた涼しい部屋でのんびりしているのが最良の選択なのだ。

 南城高校へ入学する時、俺は絶対に運動部へは入らないと固く決意した。もはや部活動をやりたいとすら思わなかったが、大学進学時や就職時に所属部活を聞かれるこのご時世では入部せざるを得ないだろう。

 なぜなら疲れるから、これに尽きる。

 学校で長い長い授業を耐え抜くだけでもストレスマッハなのに、放課後に運動するというのは何事であろうか。

 軽いストレッチ程度ならまだしも、日本の運動部というのはだいたいガチ勢である。

 まずは先輩から上下関係を叩き込まれ、次は雑用と声出しをこれでもかというくらいやらされる。そうしてみっちり先輩どものガス抜きになった後、ようやく才能のある者だけが本来のスポーツをさせてもらえるのだ。

 楽しむ運動派ダメなのか! エンジョイ勢じゃ悪いのか!

 と、いうことで私は日本における運動部の内情改善を政府に求めるものである。

 ……だいぶ話が脱線した気がする。

 そういえば、彼らにとっても七月――夏という季節は特別ではないのだろうか。

 運動部の世代交代といえば、夏休み前後にある大きな大会が明確なポイントだろう。野球部なら甲子園大会、他の運動部ならインターハイといったところか。

 一年生の奴隷どれい……じゃなかった下積み時代を乗り越え、二年生の中盤で部活の主軸となって経験を積み、採血検査で抜き取られた血と、酷暑でダラダラ流した汗と、思い切って告白した相手に思い切り振られて流した涙。

 その全てを八つ当たりのようにぶつける、高校生活最後の大会だ。

 おっと、俺の主観的な意見が少々入ってしまったようだな。

 とにかく、辛く厳しい練習や口うるさい顧問にここまで耐えてきた彼らだ。

 最後の大会くらいは実力を出し切って、気持ちよく終わりたい。

 そう考えれば、いつもよりちょっときついくらいの練習の方がやりがいがあるのだろう。

 俺は絶対にやりたくないけど。人間、楽してナンボよ。

「ところで、連絡はまだこないのか?」

「そろそろくるとは思うけど……」

 そんな言葉を交わした直後、

 ブルブルブル……ブルブルブル……

 丈の長い久遠のスカート。そのポケットから細かいバイブレーションが聞こえてきた。

 左手をスカートの折り目の間にある口へと入れ、携帯電話を取り出す久遠。

「はい、久遠です。……はい、……そうですか、すぐに行きます」

 短かい言葉で会話を終えると、ピッと通話を切りながら俺の方に視線を移してきた。

「たった今、会議が終わったそうよ。職員室にいらっしゃるって」

 この部屋――雑務部室は、久遠が放課後に職員室から鍵を持ってきて開けている。

 その時に佐々木先生から「薬品倉庫の片付けを手伝って欲しい」と頼まれたそうだ。

 しかし佐々木先生と向かおうとした矢先、緊急の職員会議が入ってしまった。

 薬品倉庫はその性質上、生徒単独では出入りができない。

 倉庫の鍵を持っているのも佐々木先生だったので、職員会議が終わるまで佐々木先生を待っていたのである。

 でも薬品倉庫の片付けって、生徒を連れ出していいものなのか? 硫化ナトリウムとか触りたくないのですけど。

 そうは言っても部活だから仕方ない。雑務部員としての立派な仕事だ。

 自分だけ断るわけにもいかないと廊下へのドアをスライドさせた。

「ん? どうした?」

 振り返ると、いつもなら真っ先に出て行くはずの久遠が窓際で固まっていた。

 通話を切ったばかりの携帯電話を見つめている。

「ねえ西ヶ谷?」

 そしておもむろに顔を上げてきた。

 前髪のすぐ下にある両目は引き込まれるように黒く、表情は明るくも暗くもない。文字通り無表情だ。

 久遠は感情を表に出さないので、こういった時に何を考えているのかわからない。同時に何を伝えたいのかもわからないのだ。

 佐々木先生との会話で何かあった?

 いや、聞いている限りそんなことはないはずだ。

 もしかして、俺が先に行こうとしたのがまずかった?

 待て待て、俺はいつも通りのタイミングとペースと歩幅でドアに辿りついた。俺は悪くない。

 体温を下げようとする汗の中に、背筋を凍らせるような冷や汗が混じった。

 全身が小刻みに震えだし、部屋には緊張感が走り始める。

 わずかな沈黙。

 耐えられず、ごくりと唾を飲み込んだ。

「……私、西ヶ谷の携帯番号を教えてもらっていないのだけど」

 はぁ……

 今までの緊張感は何だったのか。

 全身に七月の暑さが戻り、冷や汗が全て蒸発していった。

 同時に俺の魂もあきれて蒸発していきそうだ。

「だからどうしたんだよ……」

「連絡できないと不便だから教えてくれないかしら?」

 たしかに会ってから三ヶ月ほど経っているが、電話番号とアドレスを交換していない。

 お互い避けていたとかそういうことではなく、単純にタイミングがなかっただけだ。

 俺は不便に感じたことはないけどな。夜や休日まで話し込むこともないし、情報交換には登校日は毎日会っているおかげで困っていないし。

 もちろん、久遠の番号を教えてもらったからといって迷惑なわけでもない。

 ……今の雰囲気から切り出してくるとは、思ってもいなかったが。

 窓を軽く閉めた後、ドア横にいる俺の方へ寄ってくる久遠。

 ふわっと甘酸っぱい汗の香りがした。

「どっちから教える? 私から?」

 アドレス交換時の合言葉を久遠が発する。

「俺からでいいよ」

 部室のドアが閉まらないよう寄りかかって固定しつつ、ズボンの右ポケットからスマホを取り出した。

 パスワードを入れてロックを解除し、本体設定のプロフィールから自分の番号やアドレスを呼び出して赤外線通信を選択する。

 こういう時、日本製のスマホでよかったと思う。

 アメリカ生まれの例のやつは、いちいちアドレスとか打たなくちゃならないからね。

 送信の準備をして待っていると、なぜか久遠は自分の携帯電話――ガラケーのテンキー上に親指を置いて固まっていた。

「何してるんだ?」

「何って、番号入力しないと……」

「いや赤外線でよくないか?」

 赤外線? そう言ってきょとんとする久遠。

 目を見ると丸く、緊張感のない抜けた目になっている。

 あ、赤外線知らないのか……

 赤外線通信で受信するに設定して、と言ったところでおそらく伝わらないと考えた俺は、ちょいちょいと指で携帯電話を貸すようにジェスチャーする。

 やっぱり知らないみたいだ。久遠らしくない素直な動作で携帯電話を渡してきた。

「赤外線通信といって、いちいち打ち込まなくても番号とかアドレスを交換してくれる機能があるんだよ」

 そう説明しながら、俺自身も久しぶりとなるガラケーを感触を確かめつつ動かした。

 初期設定のままなのか、入道雲をバックに海辺が映っている待ち受け画面から「通信」を開き、中にあった「赤外線通信」を選択する。

 そのまま「受信する」にカーソルを合わせて決定ボタンを押すと、「通信中です」というメッセージが出てきた。

「携帯の上の方に黒い部分があるだろ? それと俺のスマホの銀色の部分を向かい合わせて」

「こう?」

 カチャッと久遠のガラケーが俺のスマホにあたる音。

 駅の改札でよく見かける、ICカードをカードリーダーに押し付けるつけるおっさんかよ。少しくらい離れても通信してくれるって。

 女子高生なのにガラケーが全然扱えないっていうのも珍しいな。

 しばらくして、ブルブルと久遠のガラケーが二回ほど震えた。

 俺のスマホにも「通信が完了しました」のメッセージ。どうやら俺の番号とアドレスは送れたらしい。

「へえ、誕生日に名前のふりがなまで……。最近の電子機器は進歩してるわね」

「女子高生とは思えない言葉だな」

 俺の皮肉たっぷりの台詞を鮮やかにスルーし、ポチポチとテンキーをいじる久遠。

「今度は私が送る番ね」

 凄いな、今の短時間で赤外線通信のやり方を覚えたのか。

 まあ学習能力の高そうな久遠からしたら、反復など朝飯前のことなのだろう。メッセージや項目で内容がある程度わかるし。

 むしろ今までわからなかったのが不思議なくらいだ。

 俺は赤外線を受信に切り替え、通信部分を久遠の持つガラケーへと向けた。

 ピコンという音と共に、「久遠 葵 を電話帳に登録しました」というメッセージが表示される。

 女子のアドレスが俺の電話帳に入るのは、これで三回目。番号なら二回目だ。

 ……母親のもカウントして。

 そりゃ同性相手にすら話しかけることができない俺が、女子に「メルアド教えて」なんて言えるわけがない。

 ましてメールのやりとりなど、宝くじの一等が当たるよりも難しいだろう。

 そもそも生活において、メールという機能を使うかどうかからスタートするし……

 だから久遠から番号とアドレスをもらったのは、今さらながら新鮮で、そして恥ずかしくも思った。

 どんなメールのやりとりをするのだろう。

 順当に部活の業務連絡が、片言でくるのだろうか?

 それとも学校での出来事みたいな、普通の女子高生らしい会話をしてくるのだろうか?

 久遠が絵文字や顔文字を使うなんて想像すらできないが……

 まさかね

「どうしたの? 行くわよ」

 電話帳を開いているスマホから顔を上げると、久遠が口を結んでこちらを向いていた。身体はすでに廊下へと出ている。

 そうだった、佐々木先生のいる職員室へと行くんだっけ。

 スマホの電源ボタンを押して画面を消すと、部室のドアから背中を離した。

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