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7-7.とまったのは久遠

 ということで、時間を詰めていく作業をスタートさせたのであるが……

「かぁー……!」

 思わず悲鳴を上げてしまった。

 神崎先輩が持ち前の統率力で生徒たちを束ね、あの高いモチベーションの中でやらせた競技時間の決定だ。

 厳しいチェック体制もあり、削れるような時間はほとんど残っていなかった。

 徒競走、騎馬戦、組体操……

 一年生から三年生、個人競技から団体競技。

 果ては開会式と閉会式にまで範囲を広げ、時間も五分単位から一分単位での見直しに変えたのであるが……

 どんなにがんばっても、せいぜい十分とれるかどうかのラインだ。

 これ以上切り詰めると、体育祭の進行そのものに支障をきたす恐れすらあった。

 そうだよな……

 いくら神崎先輩といえども、こういう事態は考慮できないだろう。

 問題が発生しなかったとき、その分の時間が不要になるわけだから。

「やっぱり厳しいわね……」

 別の作業を終えたらしく、神崎先輩が声をかけながら近づいてきた。

「これ、体育祭そのものの時間を延ばすことはできないんですか?」

 もっとも単純であり、もっとも無理のない方法だ。

 開催時間を長めにとれば、そっくりそのまま延ばした時間を長縄跳びの時間として使うことができる。

 しかも他の競技時間を変更することなく、昼休みなど生徒の休憩時間も確保した上でだ。

「そうしてあげたいのはヤマヤマなんだけどね」

 はぁー……とため息をつかれてしまった。

 体育祭は、カリキュラム上の授業計上として扱われている。

 これは年間の時間がきっちりと決まっており、変更はできない。

 体育祭の時間を延ばしてしまうと、その分通常授業の時限数が削られることになる。

 時限数が削られると、授業時間――単位数が不足し、進級条件、あるいは卒業条件を満たすことができなくなってしまう。

 たかが三十分くらい……と思うが、学校ではこの三十分が大きい。

 授業変更の申請、長期休暇の開始日時の変更申請、消化単位数の変更申請……

 生徒という立場では、どうしようもない手続きが待っている。

 そういう説明をされた。

 学校も組織である以上、いろんなしがらみがあるのだろうな。

 本一冊を買うのにだって、書類を書かなくてはならないみたいだし。

 その書類を書くのに、何十文字という理由と何個もの判子が必要なのだろうし。

 受けつけてくれる時期だって、決まっているのかもしれないし。

 他に手段はないものか。

 プログラム上は不可能なタイムテーブルにしておき、当日に予定変更とか言って別のスケジュールで進めるとかは?

 いや、それはまずい。

 早い段階でプログラムとの誤差が出てきたら大問題だし、後々運営が責められてしまうだろう。

 別の競技と差し替えるとかは?

 これもダメだ。

 学年競技は学年ごとに実施競技数の差が出ないように組んであるから、下手に変えれば特定の学年だけ競技数が少ない、といった状況が発生してしまう。

 完全に手詰まりか……

 簡単に修正できると思っていたんだけどな。

 まさかないだろうと思っていた体育祭の開催不可能という言葉が、妙に現実味を帯びて俺の頭の中をぐるぐる回り始めていた。

「そういえば、久遠さんは?」

「当日に使用する器具を確認してくる、と言ってどこかへ行きましたが」

 使用器具には、体育祭だけでしか使わないものも存在する。

 そんなものを、容量が限られているグラウンド近くの倉庫へとしまっておくわけにはいかない。

 そうかと言って、当日にいちいち遠い場所から持ってくるのもバカらしい。

 そこで開催日の三日前までに、倉庫の中身を体育祭で使う器具のみにしておくのだ。

 まあそれでも使用器具はけっこうな数があるから、ちゃんと確認しなければいけないのだけど。

「そうなの……」

 ちょっと声の大きさを下げた神崎先輩。

「実はね、昨日久遠さんが「もし長縄跳びが実施不可能になったら、私が全校生徒の前で謝罪します」って言ってきたの」

「全校生徒の前で!? なんでわざわざそんなことを……」

「ほら、長縄跳びの実施は各クラスに通達して、練習しておいてって言っちゃったでしょう? あれが無駄になるから、それについて謝るんじゃないかな」

 長縄跳びは、数十人が一度に飛ぶ大規模な縄跳びだ。

 上手な人、下手な人、どちらでもない人。

 技術的なランクが異なる人間が一緒に飛ぶゆえに、いかに息をあわせられるかが成功の鍵となる。

 これに限らず、全体競技は協力性が試される競技が実施されるので、どこのクラスでも体育祭前の二週間ほどは全員で練習をするのだ。

 俺のクラスでも、数回ほど長縄跳びの練習をやっていたし。

 そうして練習してきた競技が実施されないとわかったときのショックは……大きいのだろうな。

 しかしだからといって、全校生徒の前で謝るというのは……

 スーッという、スライドドアが開く音。

『おっ! がんばっているな』

 同時に聞こえてきた、中年の男性の声。

 ぬっと姿を現したのは……南城高校うちの校長先生だった。

 短い、というよりはまだ残っている、髪の毛。

 その下ではニカッと笑う目と口があり、服装は青と白のストライプの入っているネクタイを締めたスーツ姿。

 特徴的だと思う教師は? と聞かれたら、俺はこの校長を答えるだろう。

 演説は手短に終わらせてしまうわ、教師の推薦すいせん図書に「若者の文化だから」とか言ってラノベを選ぶわ、授業中の教室に突撃訪問してくるわ……

 まあ悪い人じゃないから、強面で何されるかわからない体育教官よりはいいけど。

「調子はどうだ?」

「はい、去年より進行が早くて助かっています」

 神崎先輩が笑顔を返す。

 タイムテーブルの問題に触れるつもりはないようだ。

 社会へ出ると、こういうことがよくあるのだろうな。

 実際には重大な問題が発生していたとしても、その責任を負うことや後処理をしなければならないのを嫌い、報告をしないことが。

 そのため、末端で起こった問題ほど上層部には伝えられず、気づいたときには会社が傾くほど悪化しているのだ。

 もっとも、神崎先輩はそんなつもりで言ったわけではない。

 様子を見にきた校長に失礼がないよう、社交辞令しゃこうじれいとして「問題はありません」と間接的に伝えたのだろうな。

 しかし……

 本当にそれでいいのか。

 体育祭の開催時間だとか、単位数の変更だとか、生徒ではどうにもならないことが問題の解決を妨げている。

 でも教師、特に校長だったら?

 学校のトップである校長なら、それができるのではないだろうか。

 大人の事情で融通ゆうずうがきかないのであれば、その大人に動いてもらえば……

「校長先生! お願いがあります!」

 その考えに至ったとき、俺の口からは強い声が出ていた。

 おそらく久遠がここにいたら、そうするだろうと思って。

 流されまいという意思の伝わるような声を発し、鋭くした視線を相手に向け、両手は真っ直ぐ腰の横に。

 足は軽く開いておき、棒が入っていると意識して背筋を伸ばす。

 意外な人間から呼ばれたと思ったのか、

「ん? 何だね?」

 不思議そうな顔をして、校長はくるっと俺の方を向いてきた。

 正対する相手は生徒ではない。

 年齢も立場も経験も違う、はるか上の大人だ。

 その場のノリなんかでは、間違いなく了承などしてくれない。

 だから……しっかり伝えるのだ。

 現状を正確に報告し、そうした上で対応策を提案し、返事をもらう。

 一瞬、躊躇ためらいが生まれたが、自分の感情を押し殺しながら言葉を出すことにだけ専念した。

「今、実施する競技の時間配分を間違えてしまい、考案した競技ができない可能性が出ています。体育祭を成功させるために、開催時間を延ばしてもらえないでしょうか?」

 もっと適切な言い方があっただろう。

 俺が即席で考えた程度では、これが限界だとわかっていた。

 それでも、伝えなければならない。

 壁を乗り越えるために、いかなる手段も使っていかなければならないのだ。

 恥ずかしいとかいう感情や、怒られたくないからという余計なプライドは捨てて。

「……すいません、私からもお願いします」

 低くなった、ゆっくりとした声で、神崎先輩が口を開いた。

 雑務部が応援にきてくれたこと。

 いつも悩む全体競技を、久遠がすぐに決めてくれたこと。

 忙しいゆえに、作業中にやり忘れがあったこと。

 でもミスから逃げずに、何とか修正しようとがんばってくれていること。

 神崎先輩は、必死な声でそれを伝えた。

「勝手なお願いだということも、また適切な手段ではないことも承知しています」

 しかし……

 神崎先輩が、校長に向かって顔を上げた。

「本来であれば実行委員ですらない彼らが、今や体育祭をつくってくれたんです。体育祭の開催時間を延長し、その努力が無駄とならないよう……お願いいたします」

 深々と、頭を下げた神崎先輩。

 つられるようにして、俺もこれでもかと思うくらい頭を下げた。

「……」

 校長は、黙って聞いていた。

 腕を組み、ときどきうなづき、真剣な目つきで。

 いつからだろうか。

 会議室には静寂せいじゃくが下りていた。

 そこにいた生徒たちが、動きをとめ、こちらをじっと見つけている。

 ある者はプリントを持ったまま固まり、またある者はペンを握ったまま視線を外さない。

 みんなが校長の判断を待っていた。

 生徒たちもバカではない。

 神崎先輩や久遠、そして俺の会話から、何が起こっているのかを、何が問題となっているのかを知っているのだろう。

 長縄跳びの時間がなくなっているらしいぞ。

 でも目玉競技なんでしょう?

 どうするんだろうね。

 そして今、目の前でその進退が問われる状況ができあがっているのだ。

 全体競技である長縄跳びが実施されるか。

 ひいては、自分たちが準備してきた体育祭が成功するかどうか。

 興味をもつのは、当然のことだ。

「……そうか」

 目をつぶり、そして開く。

 ゆっくりとしたまばたきの後、校長は組んでいた腕を解いた。

 そして見つめていた俺を、神崎先輩を、見つめていた生徒を順番に見ていく。

 やがて口元に笑みを浮かべると、

「今年くらい、いいだろ」

 わあっ!

 誰かから、思わず歓声が上がった。

 それにつられるようにして、別のところからも歓声が上がる。

 選挙にでも勝ったような、そんな騒ぎだ。

 静寂せいじゃくは一瞬にして壊れ、会議室はさっきよりもにぎわい始めた気がする。

「どのくらい延ばすかね?」

「三十分、いただけますか?」

 そうか、わかった。

 校長はうなづくと、恥ずかしそうに頭をかきながら退室していった。

 生徒ではどうにもならないことが、校長によってどうにかされたのだ。

 ふぅ……

 全身の力が抜け、思わず倒れそうになる。

 緊張した。

 何しろ、相手が校長だもんな。

 先輩や担任に頼みごとをするのとは、わけが違うのだから。

「これで、一件落着ね」

 神崎先輩がうれしそうな顔を見せていた。

 やっぱり慣れている人っていいよな……

 あんな緊張する場面の後でも、こうやって自然に笑顔が作れるんだから。

 俺は顔の神経まで疲れてしまったようです。

「さて、久遠さんにもこれを伝えないと……」

 そんな何気なく放たれた一言が、俺には大きく聞こえた。

 そうだ、久遠を戻さなきゃ。

「神崎先輩! 使用器具の確認って、どこでやっているんですか!?」

「体育館の北にある倉庫だと思うけど……どうかしたの?」

 神崎先輩の声が終わるよりも先に、俺は会議室のドアを開け放していた。

 バーン! という派手な音がこだまする。

「久遠に伝えてきますっ!」

 それだけを叫んだ。

 体育祭の開催時間が延長されることを、久遠はまだ知らない。

 そして久遠は、何も動きがなければ全校生徒に謝りにいく覚悟だ。

 問題の原因は、責任は自分にある。

 そう考えて。

 俺はそれをとめなければならない。

 久遠が悪くないことを、解決の道筋が見えたことを、謝る必要はないのだから。

 だが久遠は……納得してくれるだろうか。

 本来やってはいけない、体育祭の開催時間の延長。

 そんな校長に責任が移るようなことを、久遠は望まないだろう。

 最後まで責任は自分で被り、自分の手で始末する。

 だけど久遠、それは俺が嫌だ。

 あの女のせいで、体育祭が失敗になった。

 あの女のせいで、練習が無駄になった。

 そう後ろ指を差されながら去っていく久遠を、俺は見たくなんかない。

 だから……

 力ずくでも、とめに行かなければ――


 体育館にある器具倉庫には、二階のフロアーから入るのが南城高校ここでの常識となっていた。

 なぜならグラウンド側の入り口には、まず間違いなく南京錠がかかっている。

 外部からの盗難防止のためだ。

 もう一つ、内側から入れる場所があるのだが、一階からは武道場のある関係で入ることができない。

 結局のところ、二階奥にある小さな扉から内部の階段を下りて入るしかないのだ。

 面倒ではあるが、二年生にもなるとだいたいの生徒が知っているため、そこまで不便に思ったことはない。

 体育委員でもない限り、そもそも入ることもないし。

 そこへ向かうべく、俺は靴をはき替えた上で体育館の二階フロアーへと足を踏み入れた。

 上部にある大きな窓からは、オレンジ色の光が柱となって降り注いでいる。

 それが何本もある上、体育館の運動部が活動していないため、フロアーに人の姿がない。

 まるで異世界のようにも感じられた。

 戦争か災害で、人がいなくなった世界……

 会議室はもちろん、グラウンドからの音も聞こえづらいため、余計にそう思える。

 ギッ……

 握った右手から音が漏れる。

 そこにあるのは――刀。

 夏休みに栃木の住職に見てもらった、謎の刀だ。

 今や重量竹刀に代わり、俺のメインウェポンとなりつつあるが……

 まさか今日、使うことになるとはな。

 自分の意思を貫き通す久遠のことだ。

 口論にも恐ろしく強いから、俺が幼稚な説得を重ねたところで、簡単に論破されてしまうだろう。

 しかし、とめなければならない。

 全校生徒相手謝罪するなんて。

 だから少々強引であるが、刀を使って脅すことにした。

 この刀を抜くとどうなるか知っている久遠が、無謀な勝負を挑むようには思えない。

 もしかしたら俺の意思を感じとってあきらめてくれるかもしれない。

 そんな希望的観測を抱きながら。

「あっ……」

 思わず声が漏れた。

 フロアーのもっとも奥。

 一枚板になっている、黄色っぽいような茶色っぽいようなフロアーの壁。

 そこに――久遠が立っていた。

「西ヶ谷……」

 ゆっくりと、足どりを確かめるように近寄ってきた。

 俺もあわせるようにして歩み寄る。

 フロアーの中央付近、一メートルほどの間隔で向きあった。

 交錯する視線。

 背筋を伸ばし、口を閉じ、両足をそろえて直立する。

 剣道の試合直前みたいな状況だ。

「全校生徒に、謝罪するというのは……本当なのか?」

 出てきた言葉を確かめるかのように、一つ一つ丁寧ていねいに声を重ねる。

「本当よ。それが、何かしら」

 キーンという冷たい声が放たれてきた。

 氷柱つららのような鋭い言葉が、俺を突き抜ける。

 久遠が口論するときに使う、攻めの口調だ。

 息苦しい。

 次の言葉を出すのが、こんなに辛いとは。

 おそらく、俺がどういう目的でここへきたのかを察知したのだろう。

 そして、それに従うつもりはない、と。

「俺はそうして欲しくない。やめてくれ」

「やめない。……そう言ったら?」

 すぐに返ってきた、試すような口調。

 それに答えるべく、俺は右手を刀のつかに手をかけた。

「それでも、やめてもらう。どうしてもと言うならば、俺は力ずくでも久遠をとめる」

 カチッという音。

 わざわざ見なくてもわかる。

 白鞘しらさやから刀身とうしんが抜けた――やいばが姿を現したときの音だ。

 退く意思がないことを見せつけ、ひとまずは謝罪という行動をあきらめてもらう。

 その後、校長と会話したことを説明し、問題は解決したことを伝える。

 これが俺の作戦だった。

 相手が普通の生徒であれば、これは成功していただろう。

 だが、今回の相手は「普通の生徒」ではない。

 ゆえに……作戦としては失敗に終わってしまった。

「力ずくでも……というのね」

 久遠はそれだけ言うと、スカートを上げた。

 ふくろはぎからひざ、そして太もも。

 下着が見えてしまうのではないかと思うくらいスカートを上げ、白い美脚があらわになっていく。

 そして、そこから抜き出したのは――

 黒いベルトで巻きつけられていた、ナイフだった。

 あれには見覚えがあるぞ。

 半年前に部室で――久遠から見えてもらったやつだ。

 雑務部は圧倒的な抑止力によって、その役割を担っていると説明された、あのときのナイフ。

 九センチほどのやいばが、差し込んでくる光でキラリと光った。

 抑止力としてではなく、実際の戦力として使用されるのか……

「それなら私も、力ずくで突破させてもらうわ」

 その視線はいつになく鋭く、そして真剣だった。

 獲物を狩る目、というのが正確だろうか。

 一気に緊張感が最高まで到達する。

 まだ秋というには早すぎるくらいの気温だというのに、冷たく張り詰めた空気がフロアーを満たしていた。

 やるしかないのか。

 やるか……やられるか。

 シャカン!

 俺は刀を抜いた。

 途端に感覚が鈍くなり、視界が若干ぼやけ始める。

 手が、足が、頭が……

 全身が熱い。

 身体が言うことをきかない。

 ああ、あの状態になってしまったんだな。

 自分が自分でなくなる状態に。

 しかし、こうでもしなければ、久遠とやりあうことはできないだろう。

 依頼のとき、近くで見てきた、本気の久遠とやりあうには。

 考えてもいなかったシチュエーションで、予想してもいなかった戦いが始まろうとしていた

「……」

「……」

 お互いに武器を向けあい、無言のまま対峙たいじした。

 綺麗きれいだ。

 こうして正面から真剣に見ると、久遠が美少女であることを改めて感じさせられる。

 すらっとした白い足。

 やわらかに広がるスカートの裾。

 遠慮気味に出ている胸。

 ほどよい厚みをした、濃いピンク色のくちびる

 鋭い視線を送ってくる目。

 顔を覆う、しなやかで黒く長い髪――

 ふわっ……

 と、その黒髪が揺れる。

 横になびいたというか、流れたというか。

 それを知ったとき、すでに久遠の身体は俺の目の前にあった。

 キィン!

 金属が激しくぶつかる音。

 視線を俺へ刺したまま、久遠が突撃してきたのだ。

 あまりの速攻に対応できず、左足から身体を後退させる。

 しかしそれにあわせるように、久遠のナイフがさらに喰い込んできた。

 ギギギ……

 感覚が鈍くても伝わってくる、押しの強さ。

 見た目の華奢きゃしゃな女子高生とは思えない力だ。

 右足のかかとを立てて踏ん張り、ようやくとめられた。

 すると今度は、黄色っぽい光がすぐ前を過ぎていく。

 の光?

 いや、違う。

 これはの光……を反射した、ナイフの軌跡。

 瞬間的に振り上げられる、真っ直ぐな光の軌道。

 考えるよりも早く、俺の身体は刀を横に倒した。

 それを額の上あたりで構える。

 キン!

 甲高い金属音。

 ジンと伝わってくる、一瞬の衝撃。

 跳躍している久遠の身体が、空中に描かれているのが見えた。

 負けている。

 押されている。

 一方的な勝負を展開されている。

 それだけを本能的に感じ取った。

 久遠の動きは、感嘆するほどの見事なものだった。

 刀の長さを殺すように、ナイフの短さを生かすように、間合いを限界まで詰めてくる。

 そして連続的に攻撃を繰り出し、反撃のいとまを与えないのだ。

 右から、左から。

 そうかと思えば上からの振り上げ攻撃、下からの突き上げ。

 狙いを定めさせないよう、細かな動きで狙ってくる。

 その距離レンジに慣れない俺は、ひじを折って刀を近づけ、軌跡だけが見えるナイフから自分を防ぐのに必死になっていた。

 俺は今、あの状態になっている。

 刀を抜くことで、自分を第三者として見つめられるような状態。

 自らの意思を否定するのと引き換えに、圧倒的な攻撃力を有する状態だ。

 しかし――

 ギギッ……!

 俺の持つ刀の上を、久遠のナイフが走った。

 遊ばれてすらいる。

 本気でかかってくる久遠に、苦戦どころかもてあそばれてすらいるのだ。

 どうにもできない。

 久遠がいつから雑務部にいるのか、俺は知らない。

 もっと言えば、正確無比せいかくむひに針を差し込む技術や、こうしてナイフを自由に扱う技術を、いつから身につけていたのかも知らない。

 ただ一つ言えることは――

 それだけ技術の蓄積が、あるということ。

 俺の考えていたよりも、はるかに場数を踏んでいるということだ。

 このままでは、負ける。

 やられる。

 そうなれば……

「……」

 負けたくない。

 絶対に、負けたくない。

 相手が誰であろうと、これは負けたくない。

 久遠には、「体育祭を失敗させた犯人」と後ろ指を指されて欲しくない。

 そんな状態になって、どこかへ行って欲しくない。

 せめて……満足した状態で送り出したい。

 ここにいてよかった。

 最後くらい、そう言って欲しいのだ。

 そのために――この勝負、負けるわけにはいかない。

 キイン!

 一際鋭い音が、体育館中にこだました。

 タッと後ろへジャンプしていく久遠。

 一、二メートルほどだろうか、久しぶりの間合いが開いた。

「はっ……はっ……」

「はぁっ……はぁっ……」

 息づかいが聞こえる。

 どのくらいかわからないが、あの緊張感の中でずっと戦っていたのだ。

 体力の消耗は、お互いにすさまじいものだろう。

 しばらくの間、息を整える時間が生まれていた。

「……」

「……」

 どうすればいい?

 自分よりも上位の実力を持つ相手に勝つには、どうすればいい?

 正面から戦っても、勝ち目などない。

 考えるんだ。

 相手が嫌がること、想定していないこと。

 久遠のしている予想を、盛大に裏切ってやるんだ。

 ここまでの動きを見る限り、久遠は近距離で細かな動きを繰り返している。

 刀の武器である、交戦距離の長さを殺すために。

 そして俺は、それに対して防戦一方だ。

 ……まてよ?

 もしかしたら、それを裏切ればいいのではないだろうか?

 ナイフを振れば刀で防ぐ――そんな久遠の予想を。

 刀で……防がないという方法。

「……」

 失敗すれば、あのナイフが俺の身体を貫くのか。

 痛いだろうな。

 いや、下手すれば死ぬかもしれない。

 雑務部員の同士討ちがあろうものなら、体育祭どころではなくなるだろう。

 教育委員会がくるか、警察が介入するか……

 久遠は殺人犯になってしまうのか。

 あれほど嫌っていた、父親と同じ立場に――

 ……やるか。

 久遠に殺されるのならば、それはそれでいい。

 俺は久遠を殺人鬼だとは、欠片ほども思っていないのだから。

 それに――まだ死ぬとは決まってない。

 負けると決まったわけではないのだ。

 久遠に勝つには、それくらいのリスクが必要なんだろうな。

 奥歯を噛みしめ、決心した。

 真っ直ぐ、目の前にいる久遠をにらみつける。

 目を見開き、にらみ返してくる久遠。

 さっきまで鈍くなっていた神経が、今度は恐ろしいほど敏感になっている。

 刀を握っている右手、その重量感。

 左手に感じる、張り詰めた空気。

 硬い体育館の床。

 どんな情報も、いかなることも、全てが脳に入ってくるようだ。

 これが、最後の景色になるのか。

 ゆっくりと目を閉じた。

 タッという、床が蹴られる音。

 久遠が仕掛けてきたのだろう。

 俺が目を切る、その一瞬を狙って。

 自分は捕捉されない、どこからでもアプローチができると。

 だが、それは間違いだ。

 わかる。

 半年間のつきあいと、ここまでの動きで、俺には久遠がどういう動きをしてくるのかが手にとるようにわかる。

 あの状態である恩恵もあるのだろうな。

 まずは横向きにしたナイフで、そのまま押し込んでくる。

 ガキッ……!

 そして俺の身体が後退するのを待ち、瞬間的に力を抜く。

 刀が垂直になり、対応が遅れることを確信して……

 ナイフを上から――振り下ろしてくる。

 目を開けた。

 跳躍している久遠。

 ナイフのやいばを向け、完全に俺を捕捉ほそくしていた。

 俺の身体はそれを想定し、刀を若干横へ傾けてある。

 そのまま真横にすれば、先ほどと同様に額のあたりで受けとめられるからだ。

 久遠の体重を受けとめ、その衝撃から身を守るために。

 だが……

「えっ……!?」

 小さく漏れてきた声。

 驚きを隠せないといった、女の子の声だった。

 目を丸くし、口を少しだけ開ける久遠。

 振り下ろされてくるナイフ。

 それを俺は……受けとめなかった。

 右横、腰のあたりに刀を持ってくる。

 ちょうど、野球で右打者がバットを振っている途中みたいな感じだ。

 そのまま襲ってくる、黄色い光の軌跡。

 もう避けられない。

 どこを切られるだろうか。

 額?

 ほほ

 首筋?

 肩か、胸か……

 右の方に回している、左のひじあたりかも知れない。

 それでも……俺は動かなかった。

 さあーっ!

 黄色い軌道が目の前を横切っていった。

 ひじに感じる、冷たく鋭い感触。

 驚きの顔を隠さぬまま、久遠が俺のひじを切り裂いていく。

 裏切った。

 久遠の予想を、見事に裏切った。

 そして生まれたのは……明らかなすき

 俺が勝つための、唯一無二ゆいいつむにの時間だ。

「く……!」

 右手に思いっきり力をこめた。

 右から左へ、振り切られていく刀。

 長く黄色い軌跡が、久遠の腰に左から襲い掛かった。

 めり込んでいく光。

「くうっ……!」

 短い悲鳴を上げ、左側へ吹っ飛ばされていく久遠。

 俺が全力をもって振り出した刀が、華奢きゃしゃな身体を真横から襲ったからだ。

 くの字に折れ曲がった久遠の身体。

 床から離れる左足、そして右足。

 左手からナイフが放り出されるのが見えた。

 目は片方を閉じ、眉間みけんにはシワが入り、口元は丸く開いて……

 やられた!

 そう聞こえてきそうな、久遠の表情だった。

 痛いっ!

 突然、俺のひじを鋭い痛みが走り抜ける。

 さっき切られたところか。

 神経が傷をとらえ、それが脳へ届いたのだろう。

 瞬間的な激痛に耐え切れず、左手が刀から離れていく。

 奇襲を成功させた分、その代償は大きかった。

 いや、これくらいの代償で済んだのならば、むしろ幸運だったと言うべきだろう。

 場合によっては、そのまま切り殺されていてもおかしくはないのだから。

 ヒュッ!

 うん?

 耳元に風の音が聞こえた。

 どこかで聞いたことがある。

 鋭く、小さく、高い風切り音。

 何かが空気中を飛んでいくような……

 銃弾?

 違う、そんなものが飛んでくるはずがない。

 もっと細く、もっと長い……

 あっ!

 俺は反射的に右の手首に視線を送った。

 白いシャツと、肌色の地肌。

 その間に刺さっていたのは――銀色の針。

 久遠の投げた針だ。

 吹っ飛ばされながらも、最後の抵抗として投げたのだろう。

 感覚を失った右手から、刀が床へと落下していく。

 さすが……としか言いようがない。

 あの状況下で、俺の手首を狙い打つほどの精度を誇るとは。

 バランスをとれなくなった身体が、右へと傾いていく。

 やっぱり……俺は久遠に勝てなかったんだな……

 自分の実力を痛感しつつ、俺は床に倒れこんだ。

 ドサリという、身体が落ちる音――

「はっ……はぁはぁ……」

 苦しい。

 大量に消費し、足りない酸素を補おうと、全身から呼吸の要求がきている。

 そんなこと言われても、肺活量には限度があるんだからな。

 俺の身体も、少しは我慢がまんというものを覚えてもらいたいものだ。

「はー……はー……はー……」

 すぐ上、頭の方からは、久遠の荒い息づかいが聞こえた。

 久遠も息が上がっているのだろう。

 あんな激しい動きをし続けていたのだから、当然のことだな。

 俺たちは、しばらく荒い呼吸を繰り返していた。

 失ったものをとり返すかのように。

 新しいものを欲しているかのように。

 左の手首がズキズキと痛む。

 切り傷は痛いな。

 しかもナイフみたいな武器で切られたから、深さもあるのだろう。

 あとに残らないといいけど。

「ふ……ふふ……」

 なぜか笑いがこみ上げてきた。

「な、何が……おかしいのよ……」

 自分が笑われたと思ったのか、怒ったように反応してくる久遠。

 でも声は冷たくない。

 いつもの、普段会話をするときのような久遠の声だった。

「いや……ちゃんと語れたかなって思って……」

「語れた?」

 体育館の天井を見つめながら、そう口にした。

 緑色の太いはりが何本も通っている天井は、いかにも強そうだ。

 高い高い天井に、ずっと見ていると吸い込まれそうになる。

「言葉で言い表せないこととか、説明できないこととか、たくさんあるだろ? こうやって真剣にぶつかりあうと、何となくでも伝わるもんなのかなって」

 思想、構想、考え方……

 心の中にあるものは、なかなか言葉にできないものだ。

 一生懸命に説明しても、相手は全然わかってくれない。

 お互いに相反するような強い意志があれば、なおさらのこと。

 しかし――

 拳で語りあうとは、よく言ったものだ。

 言葉以外の手段を使うと、思っている以上に相手のことがわかったりする。

 意思の強さ、理由、考えていること……

 久遠は俺に、気をつかってくれたのだろう。

 かつてあった、雑務部の廃部危機。

 そのときに俺は、久遠に迷惑をかけまいと考えるあまり、自分を追い込んでしまった。

 それを繰り返したくない。

 そう考え、責任を自らが負うことによって、俺がふたたび追い込まれないようにしたのだろう。

 俺が久遠を助けたいと思っていたように、久遠も俺を助けたいと思って。

「そうね。会話以外の方法で、語れたというべきかしら」

 冷たい性格のように感じられるが、久遠はとても他人思いだ。

 友達と呼べる存在がいなかったから気づかれなかっただけだろう。

 逆に言えば、久遠とそういう関係になったことで、気づくことができたんだな。

「……聞いてくれ、久遠」

「何かしら?」

 頃あいだと思い、少し唐突になりながらも切り出すことにした。

 わざわざ刀を持ち出してまで、ここへきた理由。

 勝ち目がないであろう久遠とやりあってまで、伝えるべきことだ。

 勝負へ夢中になったあまり、忘れてしまいそうになっていたが。

「長縄跳びの時間は、確保したよ。校長に言って、体育祭の開催時間そのものを延ばしてもらえることになったんだ」

 久遠としては、この方法は納得しないかもしれない。

 それでも、これ以上追い込んでしまうよりはマシだと考えたのだ。

 俺のことなんか、もう考えなくてもいい。

 そろそろ、知って欲しいな。

 久遠が追い込まれると、それで悲しくなる人がいるんだということを。

 俺もそうだし、神崎先輩だって……

 実行委員会の生徒たちも、久遠のことを見てきたんだ。

 そのがんばりだって知っているのだから、何も感じないはずがない。

 だから……

「そう……」

 久遠はそれだけを口にした。

 賛成するわけでもなく、かといって否定するわけでもなく。

 受けとめた、というべきだろうな。

 この柔軟性を持ちあわせているのも、久遠のいいところだと思っているよ。

 ギィ……

 体育館の床がきしむ音がした。

 久遠が手をつき、起き上がったらしい。

 しかし去っていくわけでもなく、四つんばいになりながら俺の方へと近づいてきた。

「久遠?」

「動かないで」

 左手でポケットからハンカチをとり出す。

 そして俺の右腕をとると、手首あたりにあてながら、もう片方の手で銀色の針を抜いた。

 スッと血液が回るような感じ。

 同時に、右手の感覚が手首から指の先端へと戻っていくような気がした。

 まだしびれが残っているが、何かをつかむ程度なら問題ないだろう。

「保健室へ行きましょう」

 そのまま左のひじにハンカチをあて、ギュッと握りこんだ。

 圧迫して止血するためだろうか。

 戦うのに必死で傷の状況を見ていないが、出血もしているのだろう。

「器具の確認をしていたら、鋭利な場所で切ってしまいましたっていうのよ?」

「そんなこと、わかってるよ」

 二人で保険医への言い訳を考えつつ、体育館のフロアーを後にした。

 全体競技――長縄跳びを考えた。

 タイムテーブルを組んだ。

 しかし変更がなされていなかった。

 校長に頼み、時間を延長してもらった。

 久遠を脅し、この方法を受け入れてもらおうとした。

 でも久遠は怯えなかった。

 勝負した。

 やっぱり負けた。

 だが――意思は伝わった。

 結果論になってしまうけど、俺の作戦は辛くも「成功」したのかもしれない

 久遠が全校生徒の前で謝罪するという暴挙ぼうきょをやめてくれただけでも、十分な収穫なのだから。

 後ろを振り返ると、フロアーにはオレンジ色の光の柱が何本も見えた。

 きたときよりも長く、色濃くなって――

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