7-5.とまったのは久遠
久遠の様子がおかしいことは、日を追うごとに明確となっていった。
ボーッとしていたり、
手がとまっていた、
何を聞いたか忘れたり……
今のところ、実行委員会の仕事で大きなミスはしていないが、それを心配しなければならないほど悪化している。
聞いてみたら「せ、生理だから……」という返事。
俺は男だし、女性の生理がどんなものなのかを詳しくは知らない。
でも、あれは生理に感じられないんだよな。
ずっと考えごとをしているというか、意識ここにあらず、みたいな。
しかし、残念ながら実行委員会の仕事も大詰めを迎えつつある。
競技の具体的なルールが決まり、予算が支給され、必要な器具がリストアップされ……
おそらく、当日のタイムスケジュールも決定したのだろう。
いくら生徒会長たる神崎先輩、その優秀な補佐役と言っても、女子生徒一人に構っていられないのが実情だ。
俺も、久遠が処理しきれない分の書類を片づけるのに、ほぼ全力を費やしていた。
せいぜい、様子をちらちらと見るのが精一杯だな。
「西ヶ谷くん」
とんとんとやさしく肩を叩かれた。
ちょっと今は忙しいです。
そう答えようとして、「うん?」と思った。
俺を「西ヶ谷くん」と呼ぶ人……?
そんな人いたっけかと、考えながら後ろを振り向く。
「ちょっといいかな」
ああ、そういえば神崎先輩からは「西ヶ谷くん」と呼ばれていたな。
久遠に西ヶ谷、西ヶ谷と呼ばれ慣れているせいで、くんをつけて呼ばれることに新鮮味を覚える。
ニコッという笑顔に、少し口元が緩んでしまった。
はっ、いかんいかん。
「なんですか? 書類でしたら、もうちょっと待って欲しいですけど……」
ついにやけてしまいそうになるのを必死に抑え、書き込み途中の書類を見せる。
使用器具をまとめる書類だったが、俺の能力ではいまだに半分しかできあがっていない。
「あ、それじゃないから大丈夫」
ふたたび、俺の肩が軽く叩かれる。
神崎先輩は、そのまま会議室の出入り口へと歩いていき、スライドドアの前で振り返ってからクイクイッと手招きしてきた。
ついてこいってことか。
右手のボールペンを重し代わりに、プリントを押さえて椅子から立ち上がる。
「抜けちゃって大丈夫なんですか?」
久遠があの状態だ。
俺としては、企画部を仕切る人間が実質的にいなくなってしまうことが怖く感じた。
「ああ、彼に任せたから。たぶん大丈夫よ」
指し示された部屋の奥に見えたのは――富士村。
まあたしかに……企画部のリーダーではあるけれど。
見張り役がいないと、仕切り役どころかメンバーとしても危ういと思う。
だから「たぶん」なのだろうが。
「隣の指導室にしましょう。あそこは今、誰もいないから」
その言葉と同時に、スライドドアが静かに閉じられる。
俺は誘われるがまま、隣にある生徒指導室へ身を入れた。
ここは素行の悪い生徒が、指導役の教師によって説教されるときに使われる部屋だ。
雑務部で制裁を受けた者も、最初はここへ連れていかれるのだと久遠から聞いたことがある。
その生徒指導室――
会議室の一部を持ってきたような、真っ白な壁と明るいLEDの蛍光灯。
中央には長机が一つ。
それを挟むようにして、これまた会議室と同じ椅子が三つずつ並べられていた。
対面して話すための配置にしか見えない。
「そっちにかけてくれていいわ」
長机の左の方を指差し、ドアを閉める神崎先輩。
ちらりと見えたその顔は――真剣そのもの。
トン……という軽い音が響く。
それが消えたとき、ここが隔離された世界に感じられてきた。
あれだけにぎやかな会議室からの声も、遠くこもって聞こえる。
漂っているのは張り詰めた空気。
急に増してくる緊張感。
俺、これから怒られるのかな。
書類の処理が遅いとか、字が下手だとか、内容理解までに長いだとか、怒られそうなことはたくさんあるけれど……
神崎先輩が正面に座った。
じっと見つめてくるような視線が突き刺さってくる。
「西ヶ谷くん……」
「……はい」
ごくりとつばを飲み込んだ。
ここまで真剣な表情は見たことがない。
これは何か怒られるパターン確定ですね。
何をしたかわかりませんが、悪気があってやったことではございません。
どうか、お許しを――
「……久遠さんと、何かあったの?」
神崎先輩の口から、そんな言葉が発せられた。
「……え?」
考えてもいなかったことに、思わず聞き返してしまう。
背もたれに寄りかかり、お腹の前で両腕を組む神崎先輩。
椅子がギイッと軋んだ。
「昨日からよね、久遠さんが集中力を切らしているの。呼んでも反応が薄いし、手がとまっているときもあるし」
笑っていない顔で、俺の方を見つめている。
神崎先輩は気づいていたのか。
そうだよな、気づかないはずがない。
あれだけ人を束ねるのが上手いのだから。
いつもと違う人がいれば、間違いなく気づくだろう。
それが横にいる、久遠であるならばなおさらだ。
「本人は、生理だと言っていました。しかし……」
「しかし?」
首を少し傾けた神崎先輩。
言うべきか迷ったが、この人に隠しごとはできないだろう。
もしかしたら、と希望をこめながら、思い切って吐き出した。
「水曜日は、生徒会の会議で実行委員会は休みでしたよね」
「そうね。その日は、雑務部で集まっていたの?」
「ええ。部室で二人いるとき、久遠に電話がかかってきたんです」
余計なことを言っても仕方ない。
そう考え、できる限り見たまま聞いたままのことを伝えるように努力した。
「廊下で通話を終えて戻ってきたときから、動揺しているというか、考えごとをしているみたいで……」
「電話がきてから、なのね」
小さく、三回ほど頷く神崎先輩。
「久遠さんは、今の実行委員会にとってなくてはならない存在になっているの。だから彼女に何かあったのかと、とても気になったんだけど……」
言葉が切れる。
今や企画部の書類や決定事項、他部署への伝達事項は、ほぼ全てが久遠を介している状況ができあがっていた。
それほど信頼され、頼られているということだ。
その久遠が機能を低下させたら、どうなってしまうのだろうか。
神崎先輩のフォローにも限界があるから、企画部の仕事の能率が落ちるのは確実だ。
その上、富士村がいる。
まだ形式上のリーダーである彼は、もしかしなくても指揮を執りたがるだろう。
そうなれば混乱を招いてもおかしくない。
あと、俺へくる仕事が急増するだろうな。
現状ですらいっぱいいっぱいなのに、これ以上仕事が増えようものなら……
「わかったわ。教えてくれてありがとね」
神崎先輩の顔に、にこっと笑顔が戻った。
やっと緊張感から開放される。
普段、にこやかな人が真剣な表情をすると、ここまで雰囲気が変わるものなんだな。
まあ相手が神崎先輩だし、そういった印象みたいなものもあるんだろうけど。
「いいえ。でも何で、俺にそんなことを聞いたんです?」
立ち上がろうとしていた神崎先輩だったが、俺の問いかけに動きをとめた。
口元に少しの笑みを浮かべながら、目を細めてふたたび着席する。
あれ、何かまずいことを聞いちゃったかな。
でも笑ってはいるし……
「……久遠さんのこと、あなたが一番知っていると思ったから」
両手を自分の前で組み、改まった神崎先輩。
視線は俺のすぐ前くらいに落ちていた。
「久遠さんはね、あなたがいるときだけは、とってもよくしゃべるのよ」
「そうですか?」
「そうよ。他のときには「はい」とか「そうですね」、あとは必要なことしかしゃべらないのに」
最初に会ったときの久遠を思い出す。
『あなたはここがどういう場所か知らないの?』
『あなたをここに入れる必要はないわ』
『私だけで十分だからよ』
謎解きのように、断片的な言葉しかかけてくれなかったっけ。
それが、最近はどうだろうか。
自分から話しかけてくることこそ少ないが、問いかけをすれば会話が成り立つほどの返事がくる。
くだらないことも話すし、皮肉まで飛んでくる。
内容さえ気にしなければ、おとなしい女子高生と話しているくらいの感覚だ。
「西ヶ谷くんだけは友達だと思っているのかしらね。私がうらやましいくらいよ」
ふふっと笑う神崎先輩は、ちょっと自虐しているようにも感じられた。
それほどに、久遠と自然な会話ができるということは特別なことなのだろうか。
俺は友達と呼べるような人物はほとんどいないし、クラスでも浮いたというか、沈んでいるような存在だ。
だから久遠以外の生徒と、言葉をかわすことはまずない。
つまり比較対象がないので、特別なことだとは思っていないのだが……
うらやましいと思われるほどのこと、なのか。
『生徒会長! 入ってもいいですか!?』
ドンドンドン! と強くドアが叩かれた。
実行委員の生徒だろうか。
隣から小さく聞こえてくるのは……富士村の叫び声。
あーあ、何かやらかしたな。
どうやら「たぶん大丈夫」ではなかったらしい。
「今行くから! そこで待っていて!」
ドアに向かって叫び返すと、神崎先輩はにっこりとした笑顔を見せてきた。
「久遠さんが実行委員会にとって大事な存在と言ったけど、それを唯一支えられる西ヶ谷くんも、重要な存在なのよ」
「俺が……ですか?」
「ええ。私は生徒会役員という、優秀なバックがいるから活躍できる。同じように久遠さんも、あなたがいるから仕事ができるのよ」
久遠を助ける存在……
俺は本当に、久遠を助けているのだろうか。
いや、これから助けなければならない。
何に苦しんでいるのか。
何を考え込んでいるのか。
何をして欲しいのか。
これらを解き明かし、またいつもの久遠に戻ってくれるように、俺は行動しなければならない。
「ちょっと時間をかけてしまったようね」
さ、戻りましょう。
神崎先輩の開けてくれたスライドドアを、俺はくぐった。
久遠を助けないと……
そんなことを考えながら。
その日の活動は、午後八時まで続いた。
やるべきことは決まっているのであるが、量が多くてなかなか捗らないのだ。
富士村が暴走するせいで、処理に追われるし。
何が「大丈夫だ! このボクに任せとけ!」だよ。
もっとも仕事を任せられない人物だろうが。
しかし、ようやく昼夜の長さが等しくなったこの時期に、こんな遅く帰るのは久しぶりだ。
中学一年生のとき、剣道部が長引いたのが最後かな。
空が暗くなり、街中の街灯やイルミネーションが点灯し始めるこの時間。
ちょっと新鮮な感じもする。
ピンポーン。
高らかなチャイムの音。
『はい、次、とまります』
それに続く、男性運転手の声。
今立っているのは、駅から真っ直ぐ伸びた幹線道路を走っている、バスの車内だ。
スーツを着た人が多いのは、帰宅時間と重なったからだろう。
そんな仕事帰りのサラリーマン、学校帰りの俺を乗せ、両脇に立っている街灯の光を浴びながら、乗用車やトラックと競走するように走っていく。
普段、俺は自転車通学だ。
今日バスに乗って帰宅しているのは、別に愛車がパンクしたわけではない。
実は朝、天気予報で「夕立があるでしょう」と聞いた。
雨の中、自転車で帰るのは嫌だったし、レインコートを着るのも面倒くさい。
それで一日くらいはいいだろうと、バスで登校してきたというわけである。
まあ降った夕立は本当にパラパラとしたもので、また俺の帰り始めた時刻にはやんでいたけど。
しかし、ICカードにチャージしてある電子マネーだと、あまり無駄にした感じがしないな。
クレジットカードで破産する人の気持ちも、少しだけ分かる気がする。
『左よし、右よし、車内よし。はい、発車します。お気をつけください』
動き始めるバス。
車内の吊り輪がゆらゆらと前後に揺れる。
それにあわせたかのように、俺の腰あたりに何かがぶつかった。
鞄だ。
右隣の久遠が下げている、通学用の黒い鞄。
そう、俺の隣には――久遠がいるのだ。
神崎先輩から「久遠さんに何かあったの?」と相談されてから、自分でも心あたりがないかずっと考えていた。
だが心あたりはおろか、大まかな見当すらつかない。
でも直接聞いてみたところで、確実な返事は期待できないだろう。
しつこくするのも、久遠が本気で考え込んでいるのならば、ただの邪魔にしかならない。
俺は久遠を助けたいのであり、邪魔をしたいわけではないのだ。
迷ったあげく、下手に手を出すよりはそっと見守ろうと決めた。
確率として非常に低いが、久遠自身から言ってきてくれるかもしれないし。
ところがだ。
学校から出た直後、久遠から「一緒に帰らないか」と誘われたのである。
そんなことを言われたのは、会って以来初めてのことだ。
これは最近の態度の変化を聞くことのできるチャンスではないかと思い、感情を抑え込みながらいつもの口調で了承した。
それで静清ホームの近くまで、久遠と帰ることになったのだ。
が……
『ありがとうございました、お足元にお気をつけてお降りください』
学校から静岡駅までの道。
バスがくるまでの待ち時間。
そして静清ホーム近くのバス停までの移動時間。
これだけチャンスがあったというのに、久遠にできたのが世間話程度とは……
たった一言「最近様子がおかしいのは、生理のせいじゃないよね?」と言うだけなのに。
ヘタレの代表格みたいだ。
当の久遠はといえば、一応の反応を返してきていた。
うん。
そうね。
そう思うわ。
返事としては、素っ気ないものばかりだ。
会話が成り立つこともなければ、いつものように皮肉ってくることもない。
寂しいというか、もの足りないというか……
「はー……」
これでは、何も変わらない。
自分自身へため息をつきながら、バスのドアから降車した。
後ろから聞こえた、トンという久遠が降りる音を聞きながら、俺は交差点へと歩き出す。
横断歩道で、追いついてきた久遠と横に並んだ。
「……」
「……」
お互い、何も声を出さない。
言おう言おうと思ってはいるのであるが、なかなか勇気が出てこないのだ。
聞いてしまったら、しつこいと思われてしまうだろう。
聞いたところで、「生理だから」と押し切られてしまうだろう。
聞いたとしても、逃げられてしまうだろう。
後ろ向きな憶測が、頭の中に浮かんでは消えていく。
どうすればいいんだ……
たった一つの質問に、ここまで苦慮しなければならないとは。
目の前の車道を走っていく車たち。
仕事帰りであろう、一人だけが乗っている乗用車。
まだ荷物の集配中であろう、宅配便の配送用トラック。
スイミングスクールのロゴが入っている、水色主体の中型バス。
白っぽいヘッドライトの光が、スーッと滑らかに減速をしてとまった。
途切れ途切れだった横断歩道が、それに照らされてくっきりと見える。
ああ、信号が変わるのか。
交差点には一瞬、赤色の信号だけが存在した。
「西ヶ谷……」
その一瞬の沈黙をついて、たしかに聞こえた声。
半年以上聞き続けてきた、久遠の声だ。
いつもなら、空耳でも聞いたのかと流していたかもしれない。
「どうした?」
でも今日は、そんなことはしなかった。
久遠のわずかな変化も、敏感に捉えていた俺の神経が、脳を介して反応せよと伝えてきたのだ。
文字通り「反射的」だった。
クイッと顔を向けてみる。
久遠も、こちらを見ていた。
視線があう。
俺が久遠の瞳を見つめ、久遠が俺の瞳を見つめ……
「……いいえ。なんでも、ないわ」
さっと視線を前へ戻した久遠。
車両用と歩行者用、両方の信号が青色になる。
ブゥーンという、バイクからのエンジン音。
一瞬の沈黙は、終わってしまった。
横断歩道の白い帯へ、久遠が足を踏み出す。
「久遠!」
叫んでしまった。
それは、考えた末に行うべきと判断された行動だっただろうか。
それとも、脊髄反射のように脳が考える間もなく行われた行動だっただろうか。
わからない。
事実なのは、俺が叫んだこと……それだけだ。
ぱっと振り向く久遠。
左折待ちの乗用車のヘッドライトに照らされた顔。
そこに見えた目は、驚いたように見開いていた。
口も軽く開いている。
呼びとめられるとは思ってもいなかった――そんな風に。
「ごめん……」
先に謝りつつ、横断歩道の動きをとめている久遠の腕を引っ張った。
あっと小さく声を上げ、歩道側へと倒れてくる久遠。
それを左肩で支えつつ、信号の支柱あたりまで華奢な身体を持ってくる。
短い信号は、すでにチカチカと点滅しつつある。
だが、久遠は渡ろうとはしなかった。
ただただ、虚ろな目でそれを見つめている。
次のタイミングで渡ればいいと思っているのか。
それとも……
「……話してくれよ」
なぜ様子がおかしいのか。
なぜ生理なんてうそをついているのか。
なぜ話してくれないのか。
久遠には明日も会える。
明後日も、明々後日も。
実行委員会でも、雑務部の部室でも。
その気になれば、理数科の教室でも。
だけど……
二人で話せるのは、今しかないんだ。
誰にも邪魔されず、久遠に避けられることなく、話すことができるのは。
はっきりさせておきたい。
助けたいとか、いろいろな理由もあるけど、一番はこんな久遠を見ていられないからだ。
鋭い視線を向けてくることもなく、皮肉ってくることもない久遠を。
その理由をはっきりさせて、どうすればいいのかを考えたい。
だから、つい必死になってとめてしまった。
文句を言われてもいい。
罵倒されてもいい。
久遠が口に出しかけたのは、自分の様子が変化した原因を説明することだろ?
半年近くもつきあいがあれば、鈍感な俺にだってわかるんだから。
「……そこの土手に、行きましょう」
久遠はそう言って、左を指差した。
バス停の正面にある和菓子のお店。
その左、数メートルの場所に入り口があるこの土手は、近所の小学生にとって絶好の遊び場となっている。
広くはないが平坦な場所もあるし、何より河川敷に行くよりずっと近い。
俺も昔は、ここへきてよく遊んだものだ。
かくれんぼをしたり、虫とりをしたり、鉄砲ごっこなんかもやったっけ。
そんな土手も、夜になれば静かだな。
中学生、高校生になってくると、ここにこなくなっていくから、どこか懐かしくも感じる。
短く急に上っている入り口をこえ、すぐにある石の階段の途中へと久遠は座った。
俺もその隣へと腰を下ろす。
一メートルほどの間隔が開いていた。
無意識のうちに、自分がそうしたのだろう。
恋人というわけでもないし、くっつかなければいけないルールもない。
異性同士として、適切な距離を取ったつもりではあるけど。
「まずは……ごめんなさいね」
最初の一言は、謝罪から始まった。
「今日の途中、先輩に呼ばれたのも私が原因でしょう?」
「まあ……様子がおかしいけど、どうしたのかって聞かれた程度だけど」
「なんとか隠そうと思っていたけれど、さすがに気づくわよね」
隠そうと思ったけど。
その言葉に、俺の心が敏感に反応してしまう。
隠す必要があった、というのか。
俺に、いや誰にも言えないこととは……?
真っ先に浮かんできたのは、部室で久遠が席を外していたときに考えていたこと。
久遠が他の男子と友達づきあいを始めたのではないだろうか、ということだ。
実行委員会という、出会いと連絡先を交換できる条件。
編みものという、男子がもらったら喜ぶことは間違いないであろう条件。
そこに、俺に言えないことだという条件が加われば……
久遠が、男子とつきあい始めた――
それが現実味を帯びてきてしまう。
いや、そんなことはないはずだ。
期間が短すぎるし、いきなりプレゼントなんてありえない。
第一、久遠は他人と積極的に関わろうとしないのだから。
ないない。
ありえないありえない。
でも……
必死に否定する中で、もしそうだったら……という想像が頭から離れない。
事実だったときのショックをやわらげようと、俺の脳が活発に動いているからだろうか。
そんな機能なんかいらない。
どうせ、現実を突きつけられれば俺は……
「実は……」
久遠の口が開き始める。
やめろ。
やめてくれ。
ただの冗談でした! 驚いたでしょう? 私がボーっとするなんて。
そう言ってくれ。
現実を突きつけられるという恐怖が半分。
もう一方で、ようやくここまでこぎつけた。
しっかりと聞かなければならない、という使命感が半分。
視線を下ろしている久遠を、そんな心境で見つめた。
「……することになったの」
「えっ……?」
小さく出てきた言葉は、信じられないものだった。
思わず、聞き返してしまう。
今……なんて……?
「……私ね、転校することになったの」
転校――
小中学校では、数回ほどあった転出と転入。
だが義務教育でない、試験によって入学を決めている高校においては、少々珍しいことだ。
南城高校にきて一年半、一度も転校生を見たことがない。
ふぅ……
俺は何を心配していたのだろうか。
やっぱり久遠が恋人を作るはずがない。
一人でいることを好み、他人との交流を極力避ける。
実行委員会で連絡先を交換したとしても、プライベートなものは一切こないのだろうな。
よくよく思い出せば、編みものは自分のためだと言っていたし。
女子が全員、恋人のためにマフラーや帽子を編むと考えるのは偏見だ。
とりあえずよかった。
久遠がつきあい始めたことではなく、ただの転校で。
ただの……転校で……
「それ……冗談だよな?」
「いいえ。私は静清ホームを離れて、栃木に行くことになるわ」
ゆっくりと顔を上げ、時間をかけて視線をあわせてきた久遠。
よく……ない!
ただの転校!?
恋人ができたという予想よりも、さらに悪いじゃないか!
誰とつきあおうが部室で会うことはできるし、会話を交わすこともできる。
しかし転校してしまえば……その姿を遠巻きに見ることすらできない。
「なぜ転校なんかするんだ!? 親だっていないんだろ!?」
あっ……!
今のは失言だ。
久遠相手に、親のことを言うのはまずかった。
事情を知っておきながら、気にしているであろうことを、無意識ながら言ってしまうなんて……
「理由はそれよ」
訂正しようとしたとき、久遠が返してきた。
嫌そうな顔をせず、真っ直ぐに俺を見つめながら。
「……引きとり先が、見つかったの」
そして申し訳なさそうに、そう告げてきた。
引きとり先?
もしかして、夏休みに行ったお寺で話していた……
久遠の母親は、もういない。
父親なんかとは、生活どころか会いたくもないだろう。
だから静清ホームで過ごしてきた。
同時に、自分を養子として迎い入れてくれる家庭を探していたのだ。
あのときには、「数年前から一度もきていない」と言っていたけれど……
そうか。
改めて考えれば、部室にいるときかかってきた電話はそれだったのか。
引きとり先が見つかったという、栃木からの連絡――
「母のお姉さんから、子供が一人暮らしを始めたから、引きとれるって。でも資金援助みたいなことができるわけではないから、栃木にくることが条件だって……」
途中で耐え切れなくなったのか、うつむき始める久遠。
説明を聞くほどに、これが現実だというショックが大きくなっていく。
「いつ行くんだよ? 年末とか、三年生に進級する前とかだよな……?」
「いいえ、行くのは九月中。……おそらく、体育祭が終わった後、私は静岡にいないでしょう」
そんな……
もう、言葉が出てこなくなった。
小学校で転校していった、クラスメート。
中学校で分かれた、同級生の元剣道部員。
俺だって、何度となく人と別れてきた。
手紙、書くからね。
電話、するからね。
そんな形式ばった言葉を言いあいながら。
だが――今回はそんなレベルでは済ませられそうになかった。
ここで別れたら、一生会えなくなる気がして……
連絡もとれなくなる気がして……
いつの日か、忘れてしまう気がして……
引きとり先に行くことは、久遠自身が望んでいることだろう。
今みたいな一人ぼっちの生活から、家族団らんの味わえる普通の生活へ。
応援してあげたい。
でも……でも……
拳に自然と力が入った。
この場で怒鳴り散らしたい気分だ。
誰に?
久遠ではない。
見えない何かに、感じられない何かに。
行きどころのない不安定な感情が、俺の心中で暴れている。
同時に、なぜ自分がそんな気持ちになるのかが不思議でもあった。
そんなに久遠と別れるのが嫌なのだろうか。
つい半年ほど前までは、名前すら知らなかったじゃないか。
たかが女子高生一人の転校に、そこまで感情が生まれるのはどうしてなんだ。
ニッコリ笑い「そうか。今まで、ありがとう」と一言言えば済むだけの話なのに。
さっきまで「最近様子がおかしいのは、生理のせいじゃないよね?」と言えなかった、その反省が全く生かされていない。
だから俺はダメ人間なんだろうな。
「怒ってくれていいわ。軽蔑してくれても、罵倒してくれても構わない」
向かう先のない俺の心情を察したのか、久遠はそんな言葉を口にした。
「西ヶ谷に隠す必要なんてなかったのに、むしろ隠すことで、余計な心配をかけたというのに、……私はこんなにも平然としている」
じゃりっという、砂利が石と擦れる音。
久遠は足をいっぱいに伸ばし、階段から立ち上がっていた。
「でも怖かったの。話すことで西ヶ谷に甘えてしまいそうで、耐え切れなくなった何かが、私の中から溢れ出てきてしまいそうで」
こんな話だったけど、聞いてくれてありがとう。
少し、気が楽になったわ。
それじゃあ、また明日。
やや早口で言葉を並べ、久遠は静清ホームの方向へと歩いていった。
土手のすぐ隣にある民家の陰へ、その姿が消える。
また怒鳴れば、とめられたかもしれない。
だが向けられた言葉に、俺はそんな気を失っていた。
久遠は……迷っていたんだ。
話さなければ、自分を襲ってくる感情か何かの波に飲み込まれてしまう。
しかし話してしまえば、相手に自分の心境みたいな何かを押しつけることになる。
苦悩した結果、相手が――俺が望むのなら話してみようと決めたのだろう。
自分でもわからない何かが溢れてくる……そんなリスクを承知の上で。
少し急ぐように帰っていったのは、それが出てきそうになったからか。
すごいよな。
他人に素顔を見せようとしない。
でもそこには、普通はまず耐え切れないであろう悩みを抱えている。
自らでそれをねじ伏せつつ、けろっとした顔で学校生活を送っているのだ。
よく「様子がおかしい」で済んでいると思う。
俺だったら、言える人全てに相談を持ちかけるだろう。
負担になるだろうとか、心配させるだろうとか、そんなことは考えずに。
「……ちくしょう」
もっと頼ってくれよ。
いや、俺が頼りないのか。
俺は結局、何もできないのだ。
助けるどころか、久遠に気をつかわせてすらいる。
自分の感情を抑え切れていないし。
もう、どうしていいかすらわからなくなってきたな……
俺は土手を、久遠とは反対方向に歩き出した。
交差点に戻り、右折すれば広い歩道のある片側二車線の道路があるにもかかわらず。
なんか、今日だけはいつもと違う道で帰りたかった。
ご意見、ご感想をお待ちしております