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7-1.とまったのは久遠

 夏休みに誘われてでかけた、栃木県宇都宮市への旅行。

 行った先にあったのは、久遠の母親が眠る墓地。

 そこで見せた、久遠の奥底にある大きな悩み。

 そして、涙を流した久遠に俺がかけた言葉……

 うわあああああっ!

 今になって思い出すと、俺が死にたいくらい恥ずかしくなってくる。

 なんだよ「だから? 俺は久遠 葵を一人の人間として見てゆく」って!

 どこのナルシストだよ!

 あの出来事は、自分が老人になっても薄れることはないだろう。

 西ヶ谷黒歴史遺産として、我が記憶に登録されているだろう。

 将来の俺からバカにされ続けるだろう。

 何年後になるのか見当もつかないが、誰でもいい、早くタイムマシンを発明してくれ。

 俺は真っ先に飛び乗り、何よりも優先して久遠の目の前にいる自分をとめるから。

 はぁ……。

 久遠の過去、悩みを知ったまではいいだろう。

 知ることは罪だという自己主張はさておき、久遠としては少しではあるが楽になったはずだ。

 心の内をようやく打ち明けられたのだから。

 だが――

 その代償として、俺の悩みを作り出してしまったみたいだ。

 いや代償というよりも、完全なる自業自得なのだけど。

 あー神様仏様、返事をしてださい。

 なんなら悪魔でも死神でもいいです。

 この忌々(いまいま)しい俺の記憶を、どなたか綺麗きれいさっぱり消し去ってはくれないでしょうか?

 もうこれを引きずって生きていきたくないのです。

 それまで「ナルシストとか、ただの自己中なやつじゃん」とバカにしていた時代が俺にもありました。

 申し訳ありません、訂正します。

 ナルシストは病気です。

 自己陶酔じことうすいという、立派な病気でしょう。

 そう言ってもらわないと、俺は自分が嫌になりそうです。

 女の子がちょっと涙を流しただけで、それをなぐさめる俺カッコいい! とか勘違いする自分が――

 はぁ……

 久遠にどう思われているか、非常に心配だ。

 感情を出してくれないから全くわからない。

 うわ、西ヶ谷キモッ……と思われているかもしれない。

 そんな言葉は求めてないんだけど……とあきれられているかもしれない。

 なんで西ヶ谷にそんなこと言われなくちゃならないの? と軽蔑けいべつされているかもしれない。

 ……前向きなパターンが存在しないのですが。

 直接聞けるようなことでもないし、困ったな。

 聞きたいわけでもないけど。

 まあ、そのうち俺をどう思っているかは、行動を見ていればわかるだろう。

 ここまで他人からの評価が気になるのも、久しぶりだな――


 夏休みが終わった。

 学生にとって、オアシスと言われる時間が。

 快眠を妨げる目覚し時計のけたたましい音が聞こえる日常。

 自分を嘲笑あざわらってくるだけの嫌味な人間と過ごさねばならない日常。

 教えられた記憶もない問題を解かされる日常。

 昼食で先を争う必要がある日常。

 動きたくないと悲鳴を上げる身体を無視しつつグラウンドを走らなければならない日常。

 それらが……帰ってきた。

 もうダメだ。

 もうおしまいだ。

 俺の学校生活における、楽しみの半分以上は無へと消え去ってしまった。

 さらば夏休み……

 俺はいつまでもお前を待っているからな……

「はぁ……」

 力尽きたようなため息が漏れた。

 出すつもりはなかったのだが、それほど俺の心が弱っている証拠であろう。

 俺の心を弱らせているのは、目の前に広がっている問題集。

 正確には――夏休みの宿題であるはずの問題集だ。

 夏休みが終了し、南城高校の九月がやってきた。

 最初の登校日から三日目、学校は少しずつ日常へと戻りつつある。

 席替えが行われ、授業が始まり、久しぶりとなる教師の声を聞き……

『それでは、ワークを提出してください』

 この一言に、俺は背筋が凍りついた。

 素直に言うとするならば――ほとんどやっていない。

 ほら、夏休みって遊び倒しちゃうことあるじゃん?

 最終日に「あー! 宿題のこと忘れてた!」ってなるじゃん?

 それが俺の場合、夏休みが終わった最初の授業で気づいたってわけ。

 他人ひとより気づくのが遅かっただけだ。そう、それだけ。

 あははは……

 もちろん、そんな言い訳が高校教師に通じるはずがない。

 罰として宿題を増量の上、来週までという超短期の締め切りを設定されてしまったのだ。

 ということで、ここ雑務部室で泣く泣く問題集を片付けているというわけである。

 ちなみに国語総合、数学Ⅱ、物理、日本史に英語と、見るだけで悪寒おかんがするほど種類が存在する。

 これ、誰がやったとしても終わるはずないだろ……

 そう心の中を愚痴ぐちでいっぱいにしつつ、俺はとまっていた右手をふたたび動かし始めた。

 まだ九月の頭なので、部室内はじっとしても汗が流れてくるくらい暑苦しい。

 外には雲が散らばっているが、どれも太陽の強い日差しを妨げてはくれないし、風も生暖かくて弱々しいものしか吹いてこなかった。

 すぐ左横で首を振っている小型の扇風機も、ブーンという音ばかりで効果がないし……

 まあいつも通りと言えば、いつも通りの雑務部室だ。

 そろそろ変わってもいい「いつも通り」だけど。

 俺の正面には、制服姿の久遠がパイプ椅子に座っている。

 一応、俺の見張り役らしい。

 が、本人は逃げることもないだろうと思っているのか、視線を落としてひざに置かれた手元を見つめている。

 ここからは見えないが、本でも読んでいるのだろう。

 それまで読書などしなかった久遠だが、最近はよく本を読んでいる。

 ブックカバーがかかっているので、何を読んでいるのかはわからないが。

 本来は頭がいい久遠のことだから、読書をするのは自然の成り行きかもしれない。

 優秀な人はいつも本を読んでいる、という俺の偏見だけどね。

 もしかしたら、問題集をやっている俺に配慮してくれているのか……

 いや、その線はないだろうな。

 ペラッ――

 外から入り込んでくる、大きなセミの鳴き声。

 それに打ち消されてしまいそうなほど小さく、俺が問題集のページをめくる音と、久遠が本のページをめくる音が重なった。

 これでやっと、国語総合の一ページが終わった……

 全体からすれば、進行度は一パーセントといったところだろう。

 この百倍という途方もない時間、ずっと問題集をやっていなければならないのだ。

 これだから勉強というのは嫌いなんだよな。

 やりたくもないことを強制されるのだから。

 人間は興味のあるものにこそ、時間を割いていくものなのだ。

 だからこういった、俺に向かないことはやらなくてもいいようにしよう。

 もっと適正のあるものをやっていくべきだな。

 例えば……

 例えば…………

 例えば………………

「夏休みは……ありがとう」

 ふと、そんな声が聞こえたような気がした。

 いや、気がしたのではない。

 ちゃんと、久遠が言葉を発したのだ。

 思いもよらぬ台詞せりふに、反射的に顔を上げる。

 久遠もまた、本から視線を上げて俺の方を見ていた。

「今まで誰にも言ったことのないことを伝えたから、どう思われるかわからなかったけど」

 無機質な目で、久遠は声を続けた。

 形式的な意味合いで礼を言っているからか、その目からは何も感じ取れない。

 それとも、必死に感情を殺しているのだろうか。

「私が欲しかったのは、相手が本当に思ったこと」

 じっと俺を見つめ続けている久遠。

「それは大変だったね。辛かっただろうね。……そんな同情するだけの言葉を、私は欲しくない」

 あれはどこで聞いた、あるいは知ったことだったかな。

 女子が話しかけてくるとき、その本質は男子と違うところにある。

 そんな話が浮かんだ。

 なんでも、男子の場合は問題を提示し、その解決策を求める。

 しかし女子の場合はそうではなく、どちらかといえば問題が起こったことに対する同情を求めているらしいのだ。

 だから男子が女子から「自転車が壊れちゃったんだけど」と言われ、「自転車屋に持っていけば?」と言うと嫌われる。

 正しい答えは「そうか、大変だね」からの慰めなのだと。

 これを聞いたとき、性別が違うのだから当然と言えば当然だろうと思った。

 しかし――

 久遠は違う。

 そんな安っぽい、テンプレートなっている同情の言葉など、何ら求めてはいない。

「でも西ヶ谷は、私の欲しい言葉をくれた。自分の考えを――久遠 葵として生きていけばいいという、西ヶ谷としての解決策を」

 久遠が欲しがっているのは――聞いた者の率直な意見。

 もっと言えば、解決策だ。

 どう思っているの?

 どうすればいい?

 それは、本気で悩んでいることだから。

 同情を誘うために、少し我慢さえすればいくらでも解かれていく問題ではない。

 解決策、それそのものが存在するかどうかさえあやしいことを葛藤かっとうしているからだ。

 私は、いらない人間なの?

 死ななければならないの?

 ここまでに見つけられなかった突破口を、一緒に探してくれる人間にようやく出会えたと思っているのだろう。

 その人物とのやりとりに、中身のない同情や社交的な辞令は全く必要ない。

 全てを受けとめ、思っていることを伝えて欲しい。

 そう考えているのだ。

「……どういたしまして」

 適当な返し方が見つけられず、短くまとめてしまった。

 まとまってすらいないけど。

 これで久遠の気持ちが少しでも晴れるのなら、それでいい。

 悩みの負担をもっとも軽減できる方法は、他人に打ち明けることだ。

 それができる人間は、打ち明ける方も受けとめる方も少ないだろう。

 今回は、その少ない人間の一人になれたのかな。

「でも、珍しく格好のいいことを言っていたわね。あのときの西ヶ谷は」

 意地悪な一言に、俺は体中が熱くほてるのがわかった。

 鏡があったら、映る俺の顔は赤く染まっているだろう。

 ちなみに、穴があったら頭から飛び込んでいるレベルだ。

「く、久遠だって泣いていたじゃないか!」

 苦し紛れの反撃を送りつけた。

 普段、表情すら変えない久遠。

 その久遠が、涙をポロポロと流して泣いたのだ。

 しかも俺の目の前で、俺に寄りかかりながら。

 久遠にとっては屈辱的じゃないのか?

 何しろ、いつも下に見ている俺にすがるような形になっていたのだから。

「あら、私が泣いたら変かしら?」

 さらりとかわされた。

 ダメだ。

 久遠相手に口論で勝とうなど、やはり無謀なことだったらしい。

 最初の議題への持ち込み方といい、自らの意見の提示方法といい、反論への対処といい……

 まるで専門の教育でも受けたのかと思えるほど、その手段は徹底していた。

 内閣相手にしても勝てるんじゃないの? これ。

「それよりも、早く宿題を終わらせなさいよ」

「ちぇ……」

 うん、口論の終わらせ方まできっちりしているな。

 これ以上の反論は無駄でしかないと、俺の弱い頭でも判断がついた。

 渋々、机の上にある国語総合の問題集へと視線を落とす。

 相変わらず、俺には理解しがたい日本語が並んでいるな。

 やはり人間、興味のあることだけをやっていくのが一番だよ。

 やる気アップにもつながるし、効率もいい。

 国土交通省は大学入試の方法変更を検討するべきだな。

 ……あれ、学校関連は厚生労働省だっけ?

 吹奏楽部の演奏が流れてきた。

 それを気休め程度のBGMにしつつ、俺は問題文を黙読し始め……

 コンコン。

 ……ようとしたとき、何かを叩くような硬い音が連続した。

 ノックの音だ。

 誰かが部室へと訪ねてきたらしい。

 心あたりがなく、パッと顔を上げる。

 と、ちょうど正面にいる久遠と目があった。

「どうしたの? そんなに私を見たくないのかしら」

「いやそうじゃなくてだな……」

 そういうところは鈍感なんだよな、久遠のやつ。

 こっちは健全な男子高校生だぞ?

 意図せずに女の子と目があったりなんかしたら、反射的に顔を背けてしまうのはお約束なんだから。

 ……健全というより、未熟というか慣れていないせいだけど。

 コンコンッ。

 硬いノックの音が、ふたたび響いた。

 気持ち強くなったようだ。

「誰かを呼んだ?」

「いや、来客を招いた覚えはないな」

 右手を横に振って、招いた者はいないことを伝えた。

 毎回のこととなっているが、ここ雑務部に用事がある人物はごく限られている。

 依頼をしにくるもの、顧問の佐々木先生、あとは「雑務」を頼みにくる教師くらいだろうか。

 しかもこの部室、一年生フロアーである四階の隅っこという、他学年にとっては気軽にこれない場所にある。

 俺にも久遠にも友人がいないこともあってか、部室にくる生徒などなしに等しいのだ。

 当然、先輩後輩だっていない。

 だからこうしてドアがノックされると、ちょっとした違和感を覚える。

 俺だけだろうけど。

 ただ、部室に誰かがきて事件が始まる、というのがこれまでのパターンなんだよな……

「どうぞ」

 久遠が強めの声を上げた。

 わずかな沈黙の後、入り口のスライドドアがスーッと引かれる。

 ちょうどよい速さで、音もなく丁寧ていねいな開け方だ。

「こ、こんにちはー……」

 ヒョコッ、というよりじぃー……と姿を現したのは――

 頭髪は深い栗色のショートヘア。

 顔が丸っこくて、ちょっと小さめ。

 大きな瞳が二つ、端正は鼻、みずみずしいという表現がぴったりの唇。

 半分ほど見えている身体は華奢きゃしゃなのに、着こなされた制服からは胸のふくらみが明確にわかる。

 おまけに清純、純真無垢だ。

 アニメとか漫画に出てくる美少女とは、彼女のような感じだろう。

 いるだけで注目を集めるというか、注目を集めるためにいるようなアイドル的存在。

 しかし、当の本人は妙にもじもじしている。

 可愛い……

 おっと、不覚にも見惚みとれてしまうところだった。

「神崎先輩、どうされましたか?」

 そう、神崎先輩。

 このもじもじしている彼女は三年生の神崎先輩――南城高校の生徒会長だ。

 俺たちより一つ上の先輩で、学校中から注目を集める人気者。

 容姿も完璧だが、少しおっちょこちょいな性格がさらなる人気を集めているらしい。

 誰が言ったかは忘れたが、「神崎たんファンクラブ」とかいうのも極秘のうちに創設されたとか。

 もはや生徒会長というより、学校のアイドルと化している。

 ちなみに俺と久遠は、サッカー部の一件でお世話になっている。

 連中のネガティブキャンペーンに対抗してもらったわけだが、あんなに効果があるとは思わなかった。

 たった数日で、学校中の意見を変えちまうんだからなぁ……

「あ、ちょっと雑務部に用があってきたの」

 用?

 神崎先輩が俺たちに用事とは……

「お話があるのでしたら、お座りになってはいかがですか?」

「そうだな。ここ、どうぞ」

 俺はスッと立ち上がり、自分の座っていたパイプ椅子を空けた。

 机の上にある問題集をさりげなく閉じ、素早い動作で鞄の中へと放り込む。

 普段なら「俺が空けるのかよ……」と、久遠へ愚痴ぐちりながら渋々パイプ椅子を空けているところだ。

 だが今日の訪問者は、あろうことか生徒会長ときている。

 ここはレディーファーストを心がけねば、男が廃るでしょう!

 片づけが終わったところで、左手をパイプ椅子に向け、神崎先輩に座るようすすめた。

「それじゃあ……座らせてもらうわね」

 ニコッという笑顔。

 うわあああああ!

 なんなの!?

 なんなんだよ!?

 今の天使みたいな笑顔は!?

 全身に電気が走ったみたいだ。

 たかがパイプ椅子を譲っただけなのに、ここまでうれしかったことは今までにない。

 もうこれで十枚でも二十枚でも作文が書けそうだ。

 なんなら小論文でもいい。

 この気持ちを、この気持ちを文章に――

「ところで神崎先輩、なぜここへ?」

 久遠のすごく冷静な一言で、ハッと我に帰った。

 あ、俺は何をしていたんだろう。

 夢でも見ていたらしいな。

 さて、仕事仕事……

「実は――」

 両手を机の上であわせ、少し恥ずかしそうな表情で神崎先輩は切り出した。

 しかし、こう見ると恐ろしいな。

 この学校でも指折りの美少女二人が、こうして話しあおうとしているのだ。

 恋人のいない男子からすれば、その場に立てるだけでも夢のようなシチュエーションであろう。

「――体育祭の実行委員を手伝ってもらいたいの」

「体育祭の実行委員ですか?」

 いじめへの対処依頼とばかり思っていたのか、久遠が片方の眉だけをつり上げたへんてこな顔を見せる。

 しかし、神崎先輩の話はわからなくもない。

 南城高校では、九月の下旬あたりに体育祭が行われる。

 その企画から準備、実行までを生徒会と体育委員会が合同で行うのだ。

 中でも企画は曲者くせものらしい。

 スローガンの設定やタイムテーブルの作成はもちろんのこと、行う競技や出場人数、競技ごとの配点まで決めなければならないというものだ。

 これを最初に説明するものだから、毎年体育委員会は人数が少ないんだよな。

 だから生徒会が支援目的で実行委員会に参加しているのだろうけど。

「毎年、実行委員のボランティアを募っているんだけど、今年は全然集まらなくて……」

 そういえば、うちのクラスの掲示板にも体育祭ボランティア募集のお知らせが貼ってあったな。

 誰も応募しないだろうけど。

 なにしろ、体育祭までの残り一週間には深夜まで残業――とも言われている実行委員会だ。

 校内ボランティアでは履歴書に書いても効果は薄いだろうし、そもそも体育祭を楽しみにしている者は少ないのではないだろうか。

 だって疲れるし、暑いし、面倒くさいし……

 もうクラスごとに強制徴集した方がいいのではないかと思う。

「つまり、その補充として私たち雑務部にきて欲しいと」

「お願いっ! そんな大変な仕事を任せるつもりはないから!」

 ぱんっと手のひらをあわせ、久遠に向かってお辞儀する神崎先輩。

 深い栗色の髪がさらりと広がる。

 ブーンという扇風機の音が、しばらくの時間、部屋を満たしていた。

「……わかりました」

「へ?」

 久遠のかわいた声が、短く聞こえた。

「雑務部は体育祭の実行委員会に参加します」

 ぱあっと明るくなる神崎先輩。

 対照的にどんよりと暗くなる俺。

 マジかよ……

 ボランティアという、人の善意をうまくついた巧妙な無報酬労働にだけは引っかかるまいと、ここまで努力をしてきたのだ。

 まさかこんな形で、己の信念に屈する日がやってくるとは。

 俺のひたすら楽をしたいという執念が、目の前にいる二人に敗れ去った瞬間だった――

「本当!? ありがとう!」

「雑務部本来の仕事として、です。あまりお力になれないとは思いますが」

「そんなことないよ! 久遠さんと西ヶ谷くんがいれば、百人力だから!」

 その百人の内わけは、久遠が九十九人で俺は一人なわけですね。

 いやいや、久遠が九十九人と半分で、俺は半人力か。

 どちらにしろ、俺が足を引っ張ることなど目に見えているだろうな。

 そんな一人で勝手に悲観論を展開している俺など気にせず、久遠と神崎先輩は今後の予定をあれこれ話しあっていた。

「実行委員会には、いつから合流すればいいのでしょうか?」

「もうすぐ顔あわせを兼ねた全体会合があるから、そこにしましょう。日時はまた伝えにくるから」

「具体的に、どんな内容になりますか?」

「そうね……、基本的には事務作業かな。それにも手が回らなくなるくらい、忙しくなると思うから」

「そうですか。持ちものはありますか?」

「筆記用具くらいかな。……あ、やる気! やる気だけはちゃんと持ってきてね!」

 あのすいません、それ一番忘れそうなものなんですけど。

 忘れるどころか、もはや持っていないかもしれないです。

 どこかにやる気、売ってませんかね?

 というか、その元気を欲しい。

 しかし、事務作業にも手が回らないほどなのか。

 たしか神崎先輩は、去年も生徒会の役員だったはずだ。

 前回開催された体育祭の実行委員会の状況を知っているから、情報源ソースとしての信頼性は、残念ながら非常に高い。

 山積みされた書類を前に、延々とボールペンを動かす自分の姿が浮かんできた。

 うわぁ……やりたくないな。

 雑務部長である久遠が撤回しない限り、もう後戻りはできないけど。

『お呼び出しします。神崎生徒会長、生徒会室までお戻りください』

 廊下から聞こえた校内放送。

 部室にスピーカーがないため、少々くぐもった声に聞こえた。

「あっ、役員会議の途中だったっけ!」

 ガタッという音をたて、勢いよくパイプ椅子から飛び上がる神崎先輩。

 そのまま、

「それじゃあ、またくるからね!」

 とニコリとした笑顔を残して去っていった。

 タン……という、スライドドアが閉まる音が小さく響く。

 ああ、まだ神崎先輩の明るい雰囲気が残っているみたいだ。

 ムードメーカーとは、ああいう人物を指すんだろうな。

 いるだけでなごむというか、空気が緩むというか、そんな感じ。

 恵まれない男どもが、こぞって生徒会役員になりたがるのもわかる気がする。

 楽しくもない学校生活に、心のオアシスを作ることができるのだ。

 その上、神崎先輩に「がんばってね♪」とか「ありがとう!」とか言われるようなことがあれば……

 いや、さらに発展し、生徒会室で二人きりに……

 はっ!

 いかんいかん、あまりの妄想……いや想像力のたくましさに、思わずよだれが出てきてしまった。

「うわ……」

 その様子に気づいたのか、パイプ椅子の上で若干引いている久遠。

「西ヶ谷って、たまに壊れるわね……」

「いつも壊れているから、気にするな」

 そうね、それもそうね。

 そんな返事が返ってくるものかと思っていた。

 が、本気で引いていたのか、言葉の一つすら返ってこない。

 はいはい、どうせ俺は恵まれない男の一人ですよ。

 女子に声かけられただけで、変な勘違いを起こすような男子ですよ。

 せめてピュアと言ってくれ、あるいは健全と。

 神崎先輩と、俺の妄想が過ぎ去った部室は、ふたたびいつもの静かな雰囲気に戻った。

 小型の扇風機の駆動音。

 遠く聞こえてくるセミの鳴き声。

 グラウンドで叫んでいる、運動部員の叫び声。

 吹奏楽部の演奏――

「神崎先輩って、ここへくるときにはいつもあんな感じよね……」

 ボソッと、窓から空を見ていた久遠がこぼした。

「あんな感じ?」

「もじもじしているというのかしら。落ち着きがないじゃない」

 たしかに、そう言われればそうだ。

 性格が少しおっちょこちょいとはいえ、それはプライベートでのこと。

 普段の神崎先輩は、気品のある淑女しゅくじょそのものだ。

 緊張するであろう全校集会での演説、校内放送での呼びかけ。

 そういった大人数に発表するような場面でも、落ち着いて、かつ堂々と言葉を重ねられるだけの精神力を持っている。

 そういった経験も豊富なのだろう。

 そんな神崎先輩が、こんな部員もろくにいない雑務部の部室に入るときだけは、妙に恥ずかしがっているというか……

 思えば、サッカー部の一件できてもらったときもそうだったな。

 申し訳なさそうに姿を見せてきて……

 何か理由があるのだろうか。

「もしかして、俺の兄が神崎先輩を助けたことと関係あるのか?」

 神崎先輩と雑務部の関連を考えたとき、パッと浮かんできたのがそれだった。

 詳しくは知らないが、兄がまだ生きていた頃に神崎先輩を助けたことがあるらしい。

 それを教えてもらったときは、神崎先輩でもいじめられることがあるのかと、そっちに驚いていたが……

「ありそうだけど……」

 久遠はそのときから、この雑務部の部員だった。

 しかし俺の兄が単独で神崎先輩を助けたため、どういう状況だったのか全然わからないみたいだ。

 当人である兄はもういないし……

 まさか神崎先輩に直接聞くわけにもいかない。

 今のところは、神崎先輩なりの理由があると考えるしかないだろう。

 人間、何かしらの秘密はあるものだから。

「とにかく、体育祭の実行委員会に参加することになったから」

 久遠が俺の方に向かって振り向き、表情のない目でそう言ってきた。

 目の前で聞いていたのだから知っていて当然なのだが、神崎先輩の行動に対する原因を追究する意味はないと判断したのだろう。

 話を締めくくるかのような言い方だった。

「雑務部最大の雑務になりそうだな……」

「一応「雑務部」だから。それと――」

 ちょんちょん、と久遠は俺の足下を指差した。

 一瞬、意味がわからなかった。

 パイプ椅子を軽く引き、机の下をのぞくと、

「あ」

 使い込まれて黒色がくすみかけている、俺の通学用の鞄……

 ……からはみ出している、国語総合をはじめとした、数冊の問題集たちが見えた。

 まるで「おう、ようやく思い出してくれたか!」と喜んでいるようにすら感じられる。

 俺は微塵みじんもうれしくないけどな。

 むしろロケットの弾頭あたりに突っ込み、ブラックホールで存在ごと消し去りたいくらいだ。

「それ、やりきっておきなさいよ」

「わ、わかってるわ!」

 ちくしょう!

 そう心の中で舌打ちしつつ、俺は渋々問題集を机の上へと広げた。

 うわぁ……

 問題文を見ただけで、吐き気がしてくるよ。

 これ何かの病気だな。

 そうだ、病気病気。

 宿題を見ると体調不良を起こすから、「慢性宿題症候群」とでも名づけよう。

 世の中には、水たまりを踏んだら体調不良を起こす人間だっているのだ。

 こんなストレスのかたまりみたいなやつを見ていて、平然といられるほうがおかしい。

 愚痴ぐちっても問題集の解答欄は一つも埋まってくれないので、大人しくシャープペンの芯を出しながら、長々とした問題文と向き合う。

 カチッという音と共に出てくる、HBの黒い炭素芯。

 久遠はそれを見届けながら、閉じていた本をふたたび開いていた。

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