6-5.知ったのは西ヶ谷
住職が手配してくれたタクシーで宇都宮駅に戻ってきた、俺と久遠。
そこから、きた道をたどるようにして東北新幹線で東京へと向かい、また東京駅の人ごみにもまれつつ駅舎内を歩いて移動した。
構内の店舗で夕食をとる予定だったらしいが……
あの混雑の中、長蛇の列に並びたくはないな。
久遠と軽く目をあわせ、以心伝心したかのように駅弁を買って食べることにした。
今は新大阪行きの新幹線の車内で、ようやく減少した人口密度に安堵しながら駅弁を食べ終えたところだ。
昼が長い八月であるが、午後八時にもなるとさすがに外は暗くなってきている。
非常に濃い藍色をした空と、そこに暗い影を作っている箱根の山々。
そこからポツポツと見える、点在した住宅の光。
車道と交差したのだろう、白いヘッドライトと赤いテールランプが連なっている様子が、左から右へと高速で流れていった。
そのうち住宅からもれ出ていた光は一気に少なくなり、突然外は真っ暗になる。
そうか、トンネルに入ったのか。
廊下側の席に座っているせいで、車窓の外からの景色がちょっと見づらかったため、急な変化に少しばかり驚いてしまった。
トンネル内での低い音も、車内ではあまり気にならない。
白いライトによって照らされている新幹線の中は、夜という時間の関係もあってか非常に静かだった。
車輪がレールのわずかな隙間を拾い、カタンとたてる音が鮮明に聞こえるくらいだ。
静かであるが、沈黙ではない。
だから緊張感なんかなく、むしろ俺はリラックスしている。
「……」
宇都宮から東京までの車内では、掃除の疲れからか寝てしまった。
そのためか、今は夕飯を食べた直後にもかかわらず眠気がこない。
ひまつぶしにと持ってきた携帯ゲームはあったが、どうも手に取る気は起きなかった。
代わりに浮かんできたのは、今日一日の出来事だ。
本当にいろいろあった。
そして、様々なことを知った。
久遠でも、恋をしたいと考えていること。
久遠の母親は、父親によって殺されてしまったこと。
あの刀は、とても特別なものであること。
いずれも、この旅行に参加しなければわからなかったことだ。
静岡から出発し、東京を経由して宇都宮へ。
そこのお寺でお墓参りをし、住職から話を聞く。
帰りはふたたび東京を経て、静岡へ――
どれが抜けても、今ここにいる俺はなかっただろう。
それほどの一日だったと思える。
そして……
その中でも一番だったのは――久遠の心情だった。
『私はクズ人間の娘。だから、私も生きる価値のない人間……』
『そう考えると、自分の存在価値がなくなっていくような気がするの……』
『私なんか……、早く……、死んでしまえばいいのに……!』
『そう思っているくせに……、死ぬのが……、怖いの……』
思い出すたびに胸が締めつけられるというか、無力感に苛まれる。
会うだけで怯えが隠せなくなり、
思い出すだけで壊れそうになり、
名前を呼ぶことにすら抵抗を感じる。
そんな父親の娘だという事実を受けとめた結果、生まれてきたのは自分への激しい憎悪。
早く死んでしまえばいい。
そう思っているのにもかかわらず、怖くて死へ歩みだすことができない。
そんな生と死の葛藤――
久遠はずっとこれに苦しんできたのだ。
普段は悲しい表情も苦しい顔も一切見せず、いつも冷めた顔で俺と会っている久遠。
どんな困難な状況でも投げ出すことなく、俺を助けることすらした久遠。
悩みなんて持っていない、強い人間だと思っていた。
だが真実は……
全くもって異なるものだった。
むしろ俺なんかよりもずっと大きな、複雑な悩みを抱えている。
突破口があるのかすら疑える、強大な苦悩を。
よく久遠は崩壊しないものだと思った。
自分の存在すら否定される悩み。
そんなものを俺が盛っていたら、すでに学校の屋上あたりから飛び下りていることだろう。
そうやって命を絶った、兄のように。
「……」
いや、本当に重要なのはそこでない。
本当に大事なのは……
それを俺は知ってしまった、ということだ。
久遠の背負っている悩みを、久遠の持っている心の悩みを、俺は見てしまった。
それは――もう戻れないということ
つまり、知ってしまった以上は無知に戻れない、ということだ。
俺は知らない。
そんなことは知らない。
知らないから、関係ない。
……そんな言い訳は、もう通じない。
この苦悩によって久遠が壊れかかったとき、俺はそれから目を背けることはできないのだ。
壊れていく、崩壊していくその姿を見届けるか――
あるいは、崩壊をとめるために自ら足を突っ込むしかない。
……「知る」ということは、つくづく悪いことだな。
そう思う。
両親でも、学校の教師でも、大人はみんな「無知は悪いこと」とよく言う。
知らないと何もできないけど、知っていれば何かできるから。
だがそれは、大人の都合にあわせた勝手な解釈なのだろう。
それか、知りませんでしたという言い訳を逃げ道としないための策か。
いずれにしろ、これは絶対に間違っている。
知ることは――罪だ。
知ることは――犯罪だ。
それを見なければ、聞かなければ、感じなければ、人は自由に動くことができる。
しかし知ってしまえば、途端に自由の大洋は鉄格子のついた牢獄と化す。
少し歩けば壁にあたる、とても狭い場所に――
「おかあ……さん……」
小さく、甘い声がした。
隣にいる久遠だ。
ここまでの疲れに耐え切れなかったのか、窓側の席で気をつかう必要がなくなったのか、久遠は窓際に身を委ねて目を閉じていた。
スー……スー……という細かい息が一定のリズムを刻んでいる。
白く綺麗な顔。
閉じられた二つの瞳。
すこし上側へとカールしているまつげ。
薄く紅潮している頬。
整っている鼻。
やわらかそうな唇。
スカイブルーのワンピースが上下し、露出した白い腕は組まれたままだ。
こうして見ると、やはり久遠は女の子だ。
飛び膝蹴りで男子をなぎ倒し、針で動きをとめる強い久遠。
涙を流し、自らの必要性に疑問を投げかけるような弱々しい久遠。
それらの姿を見ても、そこにいるのは久遠――
久遠 葵という、同い年の女の子だった。
「おか……あ……さん……」
また寝言が聞こえた。
きっと母親の夢でも見ているのだろう。
尊敬している、今は亡きお母さんの夢を。
そういえば、なぜ久遠は俺に話したのだろう。
父親のこと、
母親のこと、
そして自分の持つ悩みのこと。
隠しておくのは不可能と悟ったのだろうが、別に話さなくてもいい内容だってある。
なぜ俺に?
俺は久遠の幼馴染でもないし、何か血縁関係があるわけでもない。
特別親しい関係でもないし、恋人でもない。
当然、言えと誰かに命令されたわけでもないだろう。
そんなものに黙って従うような人間ではないから。
それでも、久遠は俺に話してきた。
苦しみながらも、壊れそうになりながらも。
それだけに、明確な答えが出せなかった。
春から同じ雑務部の部員として過ごしてきた経験上、久遠は自分のことをほとんど表に出さない性格だ。
特に、自らの悩みのようなことに関しては。
やっぱりわからない。
……ただ、推測はできる。
非常に小さい可能性であるが――久遠が俺を信頼しつつあるということだ。
久遠が誰かを信頼するというのは、あるのだろうか?
少数の例はあるだろう。
俺の兄、生徒会長、常善寺の住職……
だがいずれも、久遠と同等クラスの能力を持った人間。
かつ、信頼に足るだけの行動をしている人物たちだ。
そのどちらの条件も、俺は満たしていない。
成績だって悪いし、運動もできない。
他人を思いやれるような性格でもないし、気がきくわけでもない。
武器の知識があるわけでもなければ、ケースごとに適切な対処ができるわけでもないのだ。
ありえない。
だが千分の一、いや万分の一であっても……
そうであるならば、俺はとても嬉しい。
ろくに友達もいないような俺が、久遠という人物に信頼してもらえたのだ。
この人間は信頼できる。
自分のことであっても任せられる。
そう評価してもらえたことになるのだから。
「久遠、ごめんな……」
なぜか謝ってしまった。
久遠が起きていたら、なんで謝るのか問い詰められたことだろう。
俺にもなんで謝ってしまったのか、さっぱりわからない。
ただ謝らなければならない気がしたのだ。
それは久遠に謝罪するだけではない。
自分を戒め、二度と同じ過ちを犯さないために。
……その過ちが何を示すのかも、わからないんだけどな
全く、自分自身に意味がわからない。
きっと旅行で、俺も自覚なく疲れているのだろう。
『次は、三島ー。三島です……』
次の駅への到着が近いことを知らせるアナウンスが、上のスピーカーから流れてきた。
降りるであろう人が荷物をまとめ、キャリーケースの持ち手を握っているのが見える。
まだまだ先の長い俺たちを乗せ、新幹線は夜の三島駅へと滑り込んでいった――
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