6-3.知ったのは西ヶ谷
新富士駅を発車した直後、久遠は座席へと戻ってきた。
顔色もよくなっていたし、歩み方も落ち着いていたようだ。
ちょっとした会話も交わせたから、体調は回復したのだろう。
しかし、していた話の続き――
父親の話が再開されることはなかった。
俺はそれでいいと思っている。
話したくないことなら、別に話さなくてもいい。
とりわけ、話そうとして身体が拒否反応を覚えるようでは、そこまでして話を聞こうとは思わないからだ。
久遠を傷つけてまで、俺が知る内容ではない。
いや、どんな重要なことであろうと、久遠が傷つくのを見ていられない。
新幹線は十一時十七分に、東海道新幹線の上り方面終着駅である東京へとついた。
東京にくるのは、これが四度目になるだろうか。
回数こそ多いが、そのほとんどは親の用事によるものだから、実際に東京を歩いて回ったわけではない。
まともに観光したのは、小学六年生のときに行った修学旅行くらいだろうか。
まあ、今回も栃木に行くための通過点に過ぎないのだけど。
ラッシュ時のような人ごみの中を、久遠の後ろについて歩き、駅内の店舗で昼の弁当を買った。
そしてそのまま別のホームへと連れて行かれ、栃木行きの東北新幹線に……
「……きて。ほら、起きてって」
左右へと、軽く揺さぶられる身体。
いつもの朝、アラームによって強制的に起こされるのとは違う感覚だった。
もっとやさしく、そして丁寧だ。
「そろそろ起きないと、置いていくわよ?」
「う……」
大きくなった揺すり方へ返事をするように、声にならない声を出す。
両目をゆっくりと開けた。
入ってきたのは、散開させられてほどよい明るさとなっている、やわらかな光。
目が慣れていくにつれ、その後ろにたっぷりの白と少々の黒を混ぜたような絶妙な色の天井が見える。
ちょっと左には、肌色をした木目調の板がすーっと後方へ流れていた。
棚の下板か……
そしてそれらを背景にして、俺を見つめてくる美少女。
久遠の顔が、すぐ近くにあった。
『次は宇都宮、宇都宮です……』
「すぐに到着するわ。下りる準備して」
ああそうか……
お昼の弁当を食べてすぐ、眠気が襲ってきたんだっけ。
日頃の過ごし方のせいなのか、どうも昼には弱い。
夏休みに入ってから、この時間帯まで寝続けていたのもあるだろう。
生活リズムって大事だな。
俺は両腕を高く上げ、大きく伸びをした。
足下に置いてあったリュックサックの中身を確認し、ジーっとチャックを閉める。
車窓にかけていた竹刀ケースを退けると、どんどん高度を上げていくヘリコプターの姿が見えた。
その下に伸びている、長い滑走路。
景色は流れ、今度は住宅街が広がり始めた。
ここが栃木県の県庁所在地である、宇都宮市。
地方都市はみんなそうなのか、どうも静岡に似ている気がする。
広がる田園風景から住宅街、そして都市部に入り込んでいく景色からはそう感じた。
どこも最初は畑であり、そのうち駅ができ、周囲にオフィスビルや商業施設が並び、それらを取り囲むようにして住宅街が配置されるのだ。
似ていたとしても、不思議ではないか。
東京都だって、大きく見ればそんな感じだし。
三分もたたないうちに、新幹線は宇都宮駅のホームへと滑りこんでいった。
席をたつと、俺たち同様ここで降車する人々の列に加わり、ここまでお世話になった新幹線へと別れを告げる。
流れに乗りつつホームから改札、そして駅舎を出た。
「ここが宇都宮か……」
浴びせられた太陽の光を手で遮りつつ、そんな言葉がこぼれてきた
広がるバスのロータリー。
そこに下りている、三本の歩道橋。
視線を上げれば、右の方に大型の商業施設らしき白い建物。
左側は繁華街なのか、大小さまざまな看板が掲げられている。
それらを見下ろす空は、静岡同様、突き抜けるように蒼かった。
「ここからはどうやって行くんだ? その……お寺に」
「常善寺にはタクシーで行くわ。バスだと、停留所から歩かないといけないから」
そう言って、麦わら帽子を左手に持ちつつ、隣にあるタクシー乗り場へと歩いていく。
一般用ロータリーと兼用しているタクシー乗り場には、三台のタクシーが列をなしてとまっていた。
白色と、黒色と、緑色。
ただ、日本全国どこへ行ってもタクシーの車種は同じらしい。
前方が四角くて、ドアが左右二つずつあって、後ろが突き出てるやつ。
最近はハイブリッドとかいう車も増えたらしいけど。
これを見ると、タクシー業界のおかげで車の販売業者はボロ儲けなんじゃないかと思う。
だってタクシーってかなりの数いるんだぜ? あれが全て同じ車とか、儲かっていないと考えられる方がおかしい。
一台百万円と考えて……
「常善寺までお願いします」
俺が答えの出ない計算をしている間に、久遠は一番前でドアを開けていた、白色のタクシーへと歩いていく。
そして、車内へと乗り込みながら運転手へ行き先を告げた。
俺が乗ったのを確かめ、タクシーはロータリーから動き始めた。
高架というか盛り上がった位置から、宇都宮市を臨んでいた新幹線。
それとは別に、今度は道路という低い位置から市内を見上げることになる。
ホテルだろうか、ベージュ色で背の高い建物。
全国チェーンのレンタカー屋が一階にある、茶色のビルディング。
積み上げたように同じ形のベランダが続いている、高層マンション。
それらを視界に入れつつ、俺は不安を感じ始めていた。
隣で正面をじっと見つめている久遠は、まだ伝えたいことがたくさんあるだろう。
そして、俺はそれを知りたい。
でも話したりすれば……
新幹線での出来事を考えれば、それを話すことは久遠にとって苦痛であることは明白だ。
にも関わらず、何一つしてあげられない自分。
それでも、話そうとするであろう久遠。
苦しみながら言葉をしぼり出す久遠の姿を、俺は見届けてやれるだろうか?
「……」
自信がない。
他人の苦しむ姿を、俺は見たくない。
まして、それが関わりのある久遠であればなおさらだ。
一体、どうすればいいのだろうか。
どうすべきなのか。
大きくなっていく不安をよそに、タクシーは市内を走っていく――
十分ほど走った後、タクシーは目的地へと着いた。
キイッというブレーキの音と共に、ハザードをあげて停車すタクシー。
リュックサックと竹刀ケースを持ち、開かれたドアから足を踏み出した。
その瞬間、顔を襲ってくる夏の熱気。
暑い……
宇都宮駅から薄々気づいてはいたのだが、北へ行けば涼しいという俺独自の理論はあっけなく覆されたらしい。
頭はジリジリと太陽に焦がされているような感覚を覚えるし、わきの下からは汗がにじみ始めている。
灼熱のアスファルトが、コンロ上で熱せられているフライパンにすら見えてきた。
団扇か扇子でも、持ってくればよかったな……
そう後悔しながら、白色の車体から出てくる久遠を待った。
「ここがじょう……えっと……」
「常善寺よ」
訂正を受けながら、俺は入り口に設けられた門を見上げた。
二本の太い木の柱に、天守閣の最上階にあるような四角い造り、その上にあるのは大きな黒色の瓦で覆われた、高さが五メートル以上はある屋根。
赤い地に金の文字で「常善寺」と右から書かれている。
視線を落としていくと、その門の向こうにある本堂が見えた。
こちらも黒い瓦で覆われた、横に広い屋根が白壁を支えている。
正月以外でお寺へきたのは……
ああ、兄の関係で行ったっけな。
別に仏教徒というわけではないが、兄の葬式とかは近くの寺院でやってもらった。
キリスト教やイスラム教を信仰している人でない限り、たいていの日本人は仏教で死者を弔うだろう。
そういう意味では、お寺というのは意外と身近な存在なのかもしれない。
……今さら気づいた感がすごいけど。
右肩にバッグをかけ、門をくぐっていく久遠の後を追った。
スカイブルーのワンピース。
薄い黄色の麦わら帽子。
それを身につけ、自分の前を歩いていく美少女。
それはとても幻想的に見えた。
どこか懐かしくも感じる。
昔、記憶の薄れている場所で会ったことがあるのだろうか?
いや、そんなはずはない。
俺と久遠寺が初めて会ったのは、高校生二年生の春。
疑いようのない事実だ。
しかし――
「西ヶ谷?」
「え? ああ……」
「どうしたの? ぼけーっとしちゃって」
振り返った久遠は、不思議そうな顔をしていた。
やっぱり、初めて見た情景には見えない。
久しぶりの遠出で、もう疲れかかっているのかな……
「悪いんだけど、そこにある桶に水を入れてきてくれるかしら」
久遠は細く白い手で、本堂の土台部分に置かれている木の桶を指した。
真新しい肌色の桶、少し古めの茶色っぽい桶が同じ数ずつ並んでいる。
神社の手水場にあるような、木製の柄杓も放り込まれていた。
たしかこれは……お墓の掃除に使う、水汲み用の桶だったかな。
「一つでいいか?」
「ええ」
真新しい方の木桶をとり、柄杓を突っ込んだまま近くに見えた水道へと向かった。
傷が走っているが、綺麗に磨かれた銀色の蛇口。
ひねると、キュッという音と共に澄んだ水が勢いよく出てくる。
その清水が桶を満たしていく音を聞きつつ、墓石の並ぶ方へとゆっくり歩いていく久遠を見つめた。
観音像が彫られている、灰色っぽい大きな石碑。
短くて低いスロープを上り、その前で左へと消えていった。
そこにあるのか。
――久遠の母親のお墓が。
亡くなって長くたっていない兄の墓石はまだできていない。
だから、明確な目的というか意志を持って墓石を見るのは、これが初めてだ。
どんな気持ちなのだろうか。
亡くしたことを悔やむ、悲しみだろうか?
自分を残して逝ったことを怒る、憤りだろうか?
いや、いずれも違うだろう。
わざわざ栃木まで、お墓参りにくるくらいだ。
こんな姿になってはしまったが、こうしてふたたび会えるといううれしさだろう。
決して顔には出さないと思うけど。
今くらい、素直になってもいいのにな。
八割ほど溜まった木桶を持ち上げ、チャプチャプと水が動く重さを感じつつ観音像の彫られた石碑へと歩いた。
スロープで左に曲がり、石段を一つ上がって視線を上げる。
久遠は三つ目の墓石の前にいた。
少しうつむいている。
「久遠」
名前を呼び、桶を軽く上げて見せる。
「あ、ありがとう」
歩み寄った先にある、明るい灰色の墓石。
立方体の上に、平べったい直方体。
その段差の中間にある四角い隙間に、線香を置くための金網。
両脇には、黄色い菊の花が供えられた銀色の筒。
上には直立した高さのある石に「久遠家之墓」の彫り文字。
特徴といえばこれだけ。
他の墓石に花の彫刻や、立派な線香立てがあるのとは雲泥の差に思える。
まるで仕方なく墓石を設けたかのようだ。
「上の方から、そのお水をかけてくれる?」
「ああ、はいよ」
邪魔になる竹刀ケースを横にし、静かに置いた。
そして桶から柄杓で水をすくい、てっぺんからさあっとかける。
二、三回ほどかけたところで、久遠が持っていた布でふき始めた。
灰色の表面。
彫られた文字の中。
線香入れの中。
花を供えるための銀色の筒と、それを入れておく縦穴。
下の立方体。
後ろにたてかけてある、数本の木簡。
久遠は夢中でふいていた。
そこには自分しかいないかのように。
あるいは、母親の身体をふいているようにも見えた。
やさしく、隅々(すみずみ)まで、丁寧に。
俺もできることを探してはやっていった。
供えられている花への水やり。
使い終わった布の水しぼり。
木簡の整理……
勝手がわからないから、久遠にとっては邪魔だったかもしれないだろう。
それでも、動かずにはいられなかった。
どうしてだろうか。
学校でたまにある大掃除や清掃ボランティア。
主な生活スペースである自宅すら、掃除をするのは嫌だ。
でも今は、自ら動いている。
お金が出るわけでもない。
成績が上がるわけでもない。
履歴書に一文字だって書かれるはずがないのに、俺は動いていた。
そして久遠も、それをとめたりはしてこなかった。
二人とも他のことなど微塵も考えず、一心に――
「……ふぅ」
俺が木桶を返し、墓石の前へ戻ってきたころ、麦わら帽子を脱いだ久遠は右手の甲で汗をぬぐっていた。
どうやら掃除は終わったみたいだ。
「あとは……」
端に寄せておいたバッグをまさぐり、何かを取り出した。
細い紫色の棒――線香が数本と、簡易式のライター。
ライターを右手に、線香を左手に持ち替える。
そして、慣れた手つきでライターの火を線香につけた。
流れるような線香の煙が、独特の匂いと共に俺に巻きついてくる。
「はい」
「え?」
差し出された二本の線香。
最初は意味がわからなかったのと、後は俺があげていいのかという二重の意味で驚いた。
「せっかくきてくれたのだから、あげてくれないかしら……?」
ちょっぴり不安そうな顔をした久遠。
困らせたくなかったので、ここは素直に手を伸ばした。
すでに先端が灰になっている線香を、身を屈めて金網の上へと静かに置く。
わずかにこぼれ落ちる灰。
それに続くかのように、久遠が三本の線香を重ねた。
細く、しかしはっきりとした煙が視界を覆い始める。
「……」
「……」
無意識のうちに、無言で両手をあわせた。
いつも神社やお寺に行き、神か仏に祈るのとは違う。
何も考えず、いや考えられず、じっと刻が過ぎるのを待った。
それまで気にも留めていなかった、うるさいほどのセミの鳴き声。
車道を通っていく車。
カラカラと音をたてる自転車。
小さなものから大きなものまで、いろんなことが聞こえてきた。
ここは静かだ……
何も聞こえず緊張する静寂ではなく、心を弛緩させられる静けさ。
さぁーっと風が吹いてきた。
ザワザワという木の葉がこすれあう音。
入ったときに幹だけが見えた、入り口の大木だろう。
「……」
そのざわめきが過ぎ去るのと同時に、久遠が顔を上げた。
俺もおそるおそる顔を上げ、両手を下ろす。
「……さっきの話、まだ途中だったわね」
「さっきの話?」
「新幹線の中で話そうとした、その続きのことよ」
今度は俺の心がざわめき始めた。
突然立ち上がり、口を押さえる久遠。
そのまま後方へと走り去っていく――
新幹線で見た光景が、そっくりそのままフラッシュバックしてきた。
……言わせてはいけない。
身体を傷つけてまで、伝えてもらう必要はないのだから。
「久遠、その話は……」
「いいえ、言わせて」
顔を向けてきた久遠。
その目は鋭いというよりも、強い意志が現れているかのようだった。
「私のことを気づかってくれて、ありがとう。……でも心配は無用よ」
一つ、久遠は深呼吸をした。
二回……三回……
回数を重ねていくその様子は、俺に覚悟を見せつけているかのようだ。
首筋に汗が流れるのと同時に、その口が開かれた。
「あの男――私の父は、とても乱暴な人間だったわ」
ゆっくりはっきりとした口調。
言葉を積み重ねるように、感覚を確かめるかのように。
教師の読む教科書の音読よりも丁寧な、非常に聞き取りやすい声だ。
「毎日のように母に、私に、暴力を振るってきたの」
家庭内暴力、ってやつか。
ストレスが原因でよく起きるみたいなことは聞いていたが、まさか久遠がそんな環境下で育っていたなんて……
「そして……私が小学生のころだったかしら」
空を見上げる久遠。
照りつける太陽と、高さを競っているかのような入道雲。
蒼くどこまでも続いているそこに、何かを求めるかのような視線を送っている。
ここから先が、久遠の過去。
暗い暗い、闇の記憶の領域だ。
俺はそれに踏み入れようとしている。
はたして、受けとめきれるのか――
やや長めの沈黙の後、上を向いた小さな唇が動いた。
「母は、父の手によって殺されたわ」
「え……」
ザワザワと聞こえてくるものがあった。
それは入り口にあった背の高い木が、生い茂らせている木の葉をこすりあわせる音ではない。
俺の心の中が揺らいでいる音だ
予想外の――
いや、その末端にもなかった。
久遠の母親は病気などで亡くなったわけではなく、殺されていたのだ。
それも夫、久遠にとっての父親によって。
「母は殺されたのよ。私を……かばって……」
言い直すかのように、久遠は言葉を重ねた。
「母はやさしくて、ときに厳しくて、でも最後は笑ってくれて……。料理が得意で、他のことはちょっと不器用。……私が尊敬できる、最高の母親だったわ」
信じられない。
久遠が他人を、ここまで評価するとは。
やさしくて。
厳しくて。
笑ってくれて。
料理が得意。
ちょっと不器用。
そんな久遠の母親は、それほど敬意の持てる人物だったのだろう。
「そんな母を殺したあいつを、私は絶対に許さない」
声がわずかに低くなる。
「あんな、生きている価値もないクズ人間に……」
そこまで言って、久遠はうつむいた。
それまで見上げていた空を放棄し、硬い石床へとその視線が落ちていく。
顔が影で見えなくなってしまった。
「私は……とても怖いの……」
か細くなった久遠の声からは、そんな言葉がこぼれてきた。
「なぜ?」
怖い――
その単語は、どこから出てきたのだろう。
一体、何を意味して怖いというのだろう。
「父親から、また何かされそうだからか?」
「……いいえ」
何年というときを経て、ふたたび暴力をふるわれることを怖がっている――わけではない。
よく考えれば、それもそうだ。
久遠は反撃を恐れたりしない。
なぜなら、それを返り討ちにする力を持っているから。
さらに、その力を躊躇なく行使できる屈強な精神力。
迎撃できる準備さえ整っていれば、暴力を恐れることはない
では……?
「……いくらあいつを恨もうと、私はあいつの子」
その答えを示すかのように、短い沈黙を久遠自らが破った。
「生きている価値もない、クズ人間の娘。……これは事実、否定できないわ」
クズ人間の娘、か。
久遠が「あいつ」と呼ぶほどに軽蔑する、あの中年男性の娘。
人間によらず、性を持つ生物はオスメスの血を受け継いで誕生するのだ。
必然的に、その子供は父親と母親の血を半分ずつ受け継ぐことになる。
久遠も当然そうだ。
人の子として生まれている以上、両親の血が流れている。
心から尊敬できる、最高の母親。
その血と同時に、生きている価値のない、クズ人間の父親の血も受け継いでいると言いたいのだろう。
「そう考えると、自分の存在価値がなくなっていくような気がするの……」
また久遠の声が小さくなった。
細くなったという表現が正しいか。
蛇口を閉めていき、出てくる水が細くなっていくような……そんな感じ。
「私はクズ人間の娘。だから、私も生きる価値のない人間……」
ふりしぼるような、
「それなのに……それなのに……」
その声は、
「それなのに……なんで……私は生きているの……?」
震え始めていた。
ぽつん。
そんな音がした。
音――いや、感覚?
雨粒が落ちるような。
でも空は――晴れている。
風も強くない。
太陽が照りつけ、鮮やかな蒼穹が広がっている。
「久遠……」
「私は……、私なんか……」
久遠は――泣いていた。
涙を頬に伝わせ、ツーと筋を作りながら顎に粒を作る。
そして耐え切れなくなった粒から、ポタリと雫が生まれた。
一つ、二つ、三つ……
下にある、白っぽい石へ落ちたあとが増えていく。
我慢が解かれたように、溜まっていたものが溢れていくように。
その雫は、とどまることを知らなかった。
「私なんか……、早く……、死んでしまえばいいのに……!」
さっきまでとは違う、勢いのある声。
勢いはあれど、そこに元気も冷静さもなかった。
黒い髪。
スカイブルーのワンピースでつつまれた肩。
白い腕。
握り締めている手。
控えめな靴をはいている足。
それらが寒さに耐えしのぐときのように、細かく震えている。
「毎日毎日……、自分の価値を疑ってまで……、生きていたくない……!」
「……」
「いつか……、死なないと……、いけない……。そう思いながら……死刑囚のように、……生きたくなんか……、ない……!」
トッ……
軽いショックが胸のあたりにきた。
暑い中でも感じられる体温。
暑さではなく、温もりだ。
長い黒髪が、俺の視界に広がっていた。
久遠が、寄りかかってきたのだ。
震えが細かい振動となって伝わってくる。
涙が生暖かく感じられたが、そんなことはどうでもよかった。
急に心臓がドキドキしだす。
線香の煙を押し退けて俺を満たす、甘い女の子の香り。
小さな拳が二つ……
「そう思っているくせに……、死ぬのが……、怖いの……」
そこで、久遠の言葉は切れた。
あとは小刻みな震えと、押し殺すような泣き声だけが、久遠の身体を介して伝わってくる。
「……」
目の前にいるのは……本当に久遠なのか?
そう疑うことすらした。
久遠がこんなに後ろ向きな言葉を並べたのは初めてだ。
常に前しか見ていないポジティブな人間、というわけではないが、今までとは明らかに違う。
部分部分では慎重であり、不可能は不可能と決めつけていたが、最終的には問題と直に向きあってきたのだ。
それが、今日はどうだろうか。
自分はクズ人間である父親の娘。
それゆえに、自分も生きる価値を持たないクズ人間。
だから、私は死ななくてはいけない。
自らの生存を、人生を全否定しているように言葉が並べているのだ。
どうして、そこまでして自分を否定するのか?
どうして、そんなに自分のことが嫌いなのか?
どうして、それで自分を殺そうとするのか?
わからない。
そして――久遠は葛藤している。
生きる価値のない自分は、死ななければいけない。
でも自分自身が、それを嫌がっている。
死は怖い……
そう、自らに訴え続けていた。
おそらく、社会的な責任感と生物的な生存本能が戦っているのだろう。
死ぬべきだという使命と、生きたいという欲求。
あの久遠が泣いている。
その事実からは、想像を絶するほど追い込まれているであろうことが考えられた。
久遠ですら耐えられない、この葛藤――
やはり俺は、苦しむ久遠に対して何もしてやれないのだろうか。
ただただ、目の前で泣いているのを見ているしかないのだろうか。
それならば、俺はこの場にいらない。
話を聞くだけなら、誰にだってできる。
それこそ案山子にだってできるのだ。
じゃあ、俺がやるべきことは?
ここにからこそ、わざわざ久遠に呼ばれた俺だからこそ、できることは?
永遠にも感じられる時間がすぎていった。
久遠の泣き声は収まったようだ。
それを確かめ、俺は久遠の両肩に手を置く。
そしてゆっくり、自分から引き離した。
「あっ……!?」
紅く染まった頬。
二本の涙のあと。
充血している目は、ちょっと驚いたような印象を受けた。
俺はその目じっとを見つめる。
両手は久遠の両肩に置いたままだ。
「それなら、生きればいい」
はっきりと、そう伝えた。
「え……」
「久遠の持っている過去はわかった。それが暗いものだということもわかったし、父親をクズ人間だと考えていることもわかった。根拠も十分納得のいくものだった」
淡々(たんたん)と言葉を並べる。
少しでも途切れたら、俺が崩れてしまいそうだった。
でも崩れるわけにはいかない。
壊れかかった久遠を助けるために、今は耐えてみせる。
「それで、久遠が自分は生きる価値のない人間だと評価していることもわかった」
久遠は大きな瞳を向け、じっくりと聞いていた。
反応を示さず、しかし無視しているような様子もない。
俺が何を言っているのか、それだけに神経と理解を集中させているようだ。
予想通りの展開。
「……だから?」
口調を鋭くし、そう言ってやった。
「そんなことで生きることを放棄するのか? いじめられている人間に自殺するなと言っておきながら、自分は人生を捨てるのか?」
「だって……私は……」
「だって? 俺の目の前にいるのは誰?」
ぐっと唇を噛む久遠。
言葉が出なくなったらしい。
「もう一度聞く。……俺の目の前にいるのは誰? 君の名前はなんていう?」
視線を久遠の瞳に集中させ、そう告げた。
久遠も負けじと鋭い視線を返してくる。
そう、その視線だよ。
俺は弱々しい久遠なんか見たくない。
格上相手にも口論だけで勝てるような、その視線を送ってこいよ。
「……久遠、葵」
明瞭に自分の名前を発してきた。
「そうだ。俺の目の前にいるのは、久遠 葵。……他の誰でもない」
南城静岡高校、理数科二年生の女子、雑務部長を務める、久遠 葵だ。
長い黒髪。
丸い瞳。
小さめの口。
慎ましい胸。
白く美しい手。
スラリと伸びた足。
それが、他の誰でもない、久遠 葵という女の子。
「だから、それで生きればいい」
「それで生きる……?」
「そう。一人の人間として、久遠 葵として生きればいいんだ」
久遠の視線が変わった。
少しずつやわらいでいく。
「父親が殺人を犯していようと、久遠がどんな血を受け継いでいようと、俺はそんなことで久遠への評価を改めたりしない」
その人の過去に何があったのか。
親がどんな人物なのか。
どのような血が流れているのか。
そんなことを……俺は考えない。
関係ない。
それは世襲制の特殊組織だけが使っていればいいのだ。
「俺は久遠が血統的に生きる価値がないなんて、微塵も思わない。久遠 葵という一人の人間として見てゆく」
そこにいるのは、一人の人間なのだ。
うれしいことがあれば笑い、
憤りを感じれば怒り、
悲しいと思えば泣く。
そんな人間を、流れている血だけで判断したくはない。
父親が殺人を犯していようと、久遠がそれをするようには思えない。
父親が暴力的な人物であっても、久遠は静かで常識的な人間だ。
父親が身勝手であっても、久遠は周りに気を使える。
そうだ――
血を受け継いでいるだけであり、人間としての中身はまるで違うものなのだ。
全くの別人と言っても過言ではない。
そんな人間が、死ぬ必要など存在しない。
生きているだけで、死ななければいけない。
そんなバカげた理論は、ここでおしまいだ。
両肩に置いていた手を離すと、久遠はゆっくりと顔を上げた。
「……西ヶ谷にそんなことを言われるとは、思ってもみなかったわ」
いつものように、無機質な目でされた返事。
でもその目は、俺を迷惑そうに思っているようには感じられなかった。
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