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巻二之二

その日の夜は、(らん)は宿の中でじっとしていた。もっともみんな鬼を恐れて、どの遊女も休業したが。

日が落ち、夕暮れも引いて空が黒くなってきた頃、しかし、蘭の元を訪れるものがあった。

宿の部屋の中にまで、昨日と同じ男が、ぬっと現れたのだ。

思わず蘭は悲鳴を上げた。

「ん? お嬢さん、どうかしたのか? 昨日はあんなに優しかったのに、今日は顔を見ただけで悲鳴を上げるなんて」

蘭は恐ろしくて声も出なかった。部屋の壁によりかかって、体をぶるぶると震わせている。

「お嬢さん、今夜もお相手願えないだろうか? おれは君のことが気に入ったんだ。君は本当にいい女だよ」

男は静かな微笑みを浮かべて、じりじりと蘭へ近付いた。

「もちろん昨日と同じように、たっぷりお金は弾むよ。さあ、お嬢さん」

男の手がすっと伸びて、蘭を掴もうとする。

「いやーーっ!!」

蘭は悲鳴を上げたが、しかしやはり前の日と同じように、そこでぷつりと意識を失ってしまったのだ。


そして次に蘭が目を覚ました時、前の日とは違って、空は真っ暗だった。

しかし蘭の視界は明るい。見ると周囲には真っ赤な炎がばちばちと猛っていたのだ。

蘭は地面の上に突っ伏していた。体がズキズキと痛かった。

何よりも音が騒がしかった。バキバキと家や道具が壊れる音、人の悲鳴、子供が泣き叫ぶ声。

そしてすぐに、それは空を震わすように轟いた。まるで地獄の底から這い上がってきたような、低く、恐ろしいと言うにも余る、大きな、咆哮だった。

見ると10尺もあるような、真っ黒な体の鬼が、天に向かって大口を開けて吠えていたのだ。

突っ伏したままそれを見上げて、蘭はただただ愕然とした。鬼の咆哮は、蘭の骨の髄までをびりびりと震わせていた。

鬼は大きな両手に大鎌のような爪を持っていた。それをブンブンと振り回し、周りの建物を壊している。そして鬼の体の周りには、ぼうっと金色に光っている火の玉が、いくつも漂っていた。

鬼の燃えるような目玉が、ぎろりと蘭の方を向いた。恐ろしくて、蘭は息さえ詰まらせる。

地鳴りみたいな唸り声を上げながら、鬼はその恐ろしい手を蘭の方へ伸ばしてきた。

蘭はぎゅっと目を瞑ったが、鬼に触れられる感触は来なかった。鬼はただ、また空気を震わせるような大きな咆哮を上げた。

恐る恐る目を開けると、鬼は蘭の方へ手を伸ばすのをやめて、また腕をブンブンと振り回していた。しかし、それは何かを破壊するということはなく、ただ空気を掻くようだった。

何か、様子が変だった。鬼の周りに漂っていた金色の火の玉が、次第にお互いに繋がり、鬼の体を捕らえているような、そんな感じなのだ。

鬼の咆哮は、苦しみの吠え声だった。

やがて火の玉は一筋の火の縄になって、ぎちと鬼を縛り付けてしまった。鬼はやや藻掻いたが、やがて膝から地面に倒れこんだ。ずしんと地面が揺れる。

「もう挽回は無理だよ。観念するといい」

木が燃えていく音の向こうから、凛とした青年の声が、そう通った。

鬼はまた吠えたが、もはや体を動かすことはできない。

倒れた鬼の向こうから、1人の人間が歩いてくるのが、蘭にも分かった。

いや、人間なのだろうか。蘭はそう疑った。見たことのないような人間だった。なにせ、その髪と、そして眼が、金色に輝いていたのだから。

金色の青年は、金色の炎に縛られて倒れた鬼を、冷めた目で見下ろしていた。

やがてふいと斜め後ろの方を向いた。

林揺(りんよう)

そこにはもう1人、人間がいた。こちらはさして変わった風には見えない、黒衣の僧侶だ。

僧侶は青年程落ち着いた様子ではないらしい。剃髪頭にじっとりと汗を浮かべながら、こわごわ、鬼に視線を向けている。

「とどめは君に任せる。……今度は上手く焼けよ」

金色の青年が僧侶に言った。僧侶は頭を掻きながら曖昧に頷いた。

「努力はしてみるよ……」

そう答えて、僧侶はずいと青年の前、鬼の近くへと歩み寄る。

そしてすっと口を細めたかと思うと、突然、鬼の体から、爆ぜるように、ズドンと炎が湧いた。眩しさと熱で、蘭は思わず目を瞑った。

鬼のけたたましい断末魔が空を震わした。蘭はただ、その場に突っ伏していた。

そして熱のためか痛みのためか、やがて蘭の意識はまた落ちていった。


次に蘭が起きると、宿の部屋の床で寝ていた。

あの炎と鬼の出来事は夢だったのではないかとすぐに疑ったが、体を起こそうとすると全身にずきりと痛みが走ったので、どうも夢ではなかったらしい。

痛む体を擦りながらも起き上がる。今日は、袖に銀は入っていなかった。

宿の主人のところに顔を出した。

「ねえ、昨日、何があったの……?」

蘭がそう声を掛けると、主人は心配そうな表情を浮かべた。

「ああ、お蘭、昨晩は災難だったな」

「何が起こったのか、よく分からないの。鬼が出たの?」

「ああ、昨日の夜も鬼が出て、そこの織物屋が襲われた。今回は人死には出なかったが、店が丸焼けだよ。あんたは焼けた後の織物屋の所に倒れてたんだ。たぶん鬼に襲われたんだが、幸い命は取られなかったんだろうな。動転して記憶も分かんなくなってるのさ」

「そう……」

蘭はぼんやりと答えた。

「ほんと、恐ろしいことだよ……。これから毎晩こんな日が続くのか……?」

主人は苦々しくため息をついた。

しかし、蘭は首を横に振る。

「ううん……、たぶん、もう鬼は出ないわ」

「あ?」

主人は驚いた顔で聞き返す。

「鬼はもう出ないわ。……だって、お坊さんが焼いたもの」

蘭は言った。どこかぼんやりとしていて、その顔は笑みさえ浮かべていた。

「な、なんだって?」

「わたし、見たもの。髪の毛が金色の男の人が出てきて、火の玉が鬼を縛って、それからお坊さんが来て……、鬼を燃やしちゃったの」

主人は黙って、訝しげに蘭を見つめていた。

やがて蘭はそんな主人を置いて、ふらりと宿の外へ出ていった。

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