巻二之一
蘭は、胸元の襟を片手できゅっと握りながら立って、暮れていく空をぼうっと見上げていた。
細く、薄暗い道に人の行き来はまばだらった。
1人の男が蘭に声をかけた。
「お嬢さん、ちょっといいだろうか」
蘭ははっとして男に視線を向けた。
そして美しい笑顔を浮かべて小首を傾げる。
「こんばんは。わたしを買ってくださる?」
「買う? あんたを買って、どうするんだ? 煮て食えばいいのかい?」
「どうやって食うかはあなたのお好きになさって。お相手するわ」
男は首を傾げた。
「……変な女だな。喜んで食われるっていうのかい」
「そういう稼業の女ですもの。もしかしてあなたは遊女というものをご存知ないの?」
「生憎、世間のことには疎くてね」
「食うと言ってもご飯のようにムシャムシャと食べるのではないわよ。一晩、あなたのような素敵な殿方のお相手を」
男はまた首を傾げた。
「よく分からないが、一晩の間、おれと一緒にいてくれるのだな?」
「ええ、お代さえしっかりいただけるのなら」
「それなら買った。一晩、おれに付き合ってもらおうか」
男はにやりと笑った。
蘭もにっこりと笑って、男の腕に自分の腕を絡めた。
男は蘭を連れて歩き出した。どこへ行くとも言わず、ただふらりと。
不思議なことに、その後どこへ連れて行かれたのかを、蘭は記憶することがなかった。
ふと、目が覚めると、蘭は道の脇の木陰に蹲っていたのだ。
いつの間にか夜を通り過ぎ、日が高く登っていた。男もいなくなっていた。
蘭は慌てて体を起こした。その時、袖の中でじゃらりと音が鳴った。
驚いて袂を探ってみると、中からざらざらと銀が零れてきたではないか。
蘭は目を白黒させたが、やがて銀を袖の中へ戻し、ふらふらと立ち上がって歩き出した。
歩いていると、街の中がいやに静かだと言うことに気付いた。
商人が歩いている姿はあるけど、みんな早足で、しかも何かに怯えているかみたいに顔色は青ざめていて、表情は強張っていた。
1人知った商人と出会った。その商人も何かに怯えているようで、びくびくとした足取りで歩いていた。
蘭のすぐ近くに来るまで気付かなかったらしく、蘭の顔をみてギョッとしたような顔をした。
「なんだ、お蘭じゃねえか。遊女が立ち歩くような時間じゃねえぞ、何やってんだ。ただでさえこんな時だってのに……」
「こんな時って……、何かあったの?」
蘭が聞くと、商人はまたギョッとした。
「何かっておめえ、なんにも知らないのか? 昨晩どこにいたんだ」
「どこって、えっと、ちょっと離れた所で仕事してたわ」
「昨日の夜、鬼が出たんだよ」
商人は声を小さくして言った。
「お、鬼?」
「ああ。両替屋の家族が全滅だ。骨までしゃぶられて全員食われちまった。……昨日の夜、鬼の暴れる音が恐ろしくて、俺達はみんな家の中に入ってガタガタ震えてたんだ。昼間も鬼が出るんじゃねえかと怯えて、今も誰も外に出たがらねえ」
「そんな恐ろしいことが……」
蘭はそう呟き、袂のところを抱えるように手で押さえた。
「ん? おめえ袖に何入れてんだ?」
商人はその袂が膨らんでいるのに気付いたらしい。
「え。えっと、これは、そのう……」
突然そう聞かれて、蘭はつい口ごもってしまった。
「なんだ、まずいものでも入っているのか」
商人はそう言って、蘭の腕をぐいと引いた。
途端に袖から銀がばらばらと地面に落ちる。それを見て商人は更にギョッとした。
「な、なんだこりゃあ! お前、どっからこんなもんを! まさか盗みを働いたんじゃあ……」
「ち、違うわ! これはお客様にもらったのよ」
「いくらお前が美人だからってそんなに弾む客がいるか! 正直に言えっ、お蘭!」
商人に詰め寄られ、蘭はしゅんと俯いた。
「実は昨日ね……」
そしてありのままのことを商人に話した。商人は信じられない、というような顔をしたが、しかしやがて考え込み始めた。
「……襲われた両替商の店から、銀がごっそりとなくなってたそうだ」
「ぎ、銀が?」
「お前がどさくさに紛れてかっぱらったのでなければ……」
「そんなことしないわ。盗んだぐらいなら今のうのうと出歩いてるはずがないでしょ」
「それなら、昨日のお前の客だったというその男は、人に化けた鬼だったんじゃねえか?」
「え!?」
思わず蘭は口を押さえて体を強張らせた。
「なぜかは分からんが、その鬼はお前を食わずに眠らせた。それで両替商を襲って銀を奪い、お前の袂の中に入れたんじゃないか? 人外のしわざと考えれば、お前が記憶もなく眠りこけたことの説明だってつくだろう」
商人の話を聞いて、蘭の顔色はさっと青ざめていった。
「悪いことは言わねえ、その銀は捨てて、お前はしばらく身を隠せ。鬼なんかに好かれちゃ、お前もそのうち食われるぞ」
商人は蘭の鼻先にびしりと指を突きつけて言った。蘭は震えるようにして頷いた。