8-10 保険
喫煙所内の空気がピンと張り詰めるのを感じる。このヒゲオヤジ、一体何を企んでやがる? 俺の心の声が通じたのか、鼻を拭き終わったケイスケが問うてくれた。
「サコン殿。貴方は何を仰っているのか?」
「聞こえなかった、というわけじゃないわな。れっきとした理由はちゃんとあるのよ、これがな」
「すまんが、サコン」煙草に火を点けるヒゲオヤジに向かって、ウルフが物申す。「俺には、どうしてもあんたが不埒な理由で女子寮に忍び込みたいとしか思えない」
「ハッ。お前さんも焼きが回っちまったかい? えぇ、ウルフさんよぉ」
ケイスケ同様、ウルフも俺の言いたい事を代弁してくれたわけだが、皮肉にもサコンは俺と言い争っている風にウルフを鼻で笑った。これじゃまるで、俺がそう言われてるようで無性に癪に障る。
くっさい煙のせいもあって俺が渋い表情でサコンを見遣っていると、
「できれば味方に手はかけたくないが」ウルフが一際静かな、そして穏やかではない切出しで口を開く。「あんたの口から建設的な理由を話してくれない以上、それを力尽くで奪うしかなくなる。そうなる前に、納得のいく説明をしてもらえないか」
ウルフも煙草の煙にあてられたのか、マスターキーを指で弄ぶサコンに苛立ちを隠せていなかった。そこらへんの無法者が使うような強い語気ではなく、諭すような口調なのが彼の本気度を表している。そうとうおかんむりだぞ、こりゃ。
「そうさな。俺もそう意地悪じゃあない」
サコンのほうは相も変わらず、いつもの感じで余裕を醸し出している。
「ところでウルフさんよぉ、お前さんの勘定では、この潜入任務が成功する確率はどのくらいだ?」
「……今までの、俺の任務達成率を参考にしてほしい。まず失敗する事はない」
「それは、お前さん一人でやった場合の確率だろう? 俺も潜入調査に入ったとすれば?」
「限りなく低くなるな。じっとしていてくれるなら、六割成功すると言っておこう」
「見下げられたもんだ」
そう頷きながらサコンは笑った。六割という数字に納得したのか、それとも不服なのかはわからずじまいだった。
「してサコン殿、貴方の真意はどちらに?」
「……保険だよ」
保険という言葉の意図を探る。足元がおぼつかないジジイが潜入についていったところで、ウルフの足枷にしかならないと思うが。俺達は黙って、煙草をふかす中年の男の言葉を促した。
「これが敵の土地に潜入する任務なら、俺はお前さんに任せていた。だが、今回はそうじゃねぇ。あの方を相手にするには、保険をかけるくらいで挑む必要性があると俺は思うんだがね。おっと、これは最大級の賛辞だぜ」
「ルゥ殿が、それほどまでに危惧すべき人物であると?」
サコンの奴、またルゥがスパイの体で話を進めてやがる。まるで俺の心の声を聞いたかのように、サコンは俺に視線をくれやがったのだ。
「ブラックボックスに手を突っ込むようなもんさ。ギャンブルならそんな一か八かも悪くねぇな。で、ウルフさんよぉ。お前さんはそんな賭け事をするとは思えんのだがね」
「言いたい事はわかった。ルゥを相手に、正攻法では足元をすくわれるかもしれない、という事だな?」
「お察しが良いようで」
もしもルゥがスパイである場合――俺は意地でもそうは思わんが――かなりの高確率で任務をやり遂げるウルフが、まさかの失敗をやらかす恐れがある。そうサコンは言っているらしい。占いだとか虫の知らせだとか、俺はそういうのをまるっきり信じないクチだが、言葉では言い表し難いこのもやもやとした感じ、それを払拭できないのもまた事実だった。
そして、気にかかる事がもう一つ。
「それはいいんだが、それとサコンがついて行く理由がどう関係しているのかがわからないな」
またもウルフが代弁してくれたが、俺にはどうしてもエロジジイがただ単純に女子寮に忍び込みたいとしか思えないのだ。餅は餅屋、地雷は地雷掃除人。サコンという人間も、適材適所という思考回路を持っているのは、長い付き合いだから俺は知っている。そのセオリーを自ら破っているのが気に食わないのだ。裏があるのか、それとも下心があるのか。
「言ったじゃねぇか。俺は保険なんだ」
サコンは不敵な笑みを浮かべるばかりだった。
「今一度確認するぜ。今回の任務は誰にも知られる事なく隠密に済まさなけれなならねぇ。だが、もしも万が一お前さんがルゥの罠にかかって捕まったとしよう。その時どう言い逃れる? 正直にスパイ疑惑の事を話すか? そうじゃねぇだろ」
指に挟んだ煙草には目もくれず、サコンは一呼吸の内に言葉を詰め込んだ。
煙の中に沈黙が混じる。万が一、それも起こりうる可能性の高い――おかしな事を言っているのはわかっている――ケースについて、サコンは話している。
ウルフが下心で女子寮に潜入するとは誰も思わない。ともすれば、真の潜入目的を邪推され、俺達の作戦がおじゃんになってしまう……。考えうる最悪のケースだ。
「そこで俺なわけよ」思いのほか、今日のサコンは饒舌だった。「俺という存在が、ウルフの密行を誤魔化す理由になる。エロジジイに唆されて、女子寮に忍び込むのを企てただけと言い張れる。そういう意味で俺は保険なのさ」
そう言った後、思い出したかのようにサコンは煙草を吸い込んだ。やや複雑な表情を浮かべていた。
物事は成功と失敗の二つで分類されるわけじゃない。失敗した場合の事後処理をしっかりしていれば、それは失敗ではないのだ。オスである事の最後の切り札、性欲を逆手に取って言い訳にすれば、俺達の真の目的をはぐらかす事ができる。
「成程、合点がいきました」
「一杯食わされたな。悔しいがサコンの言う通りだ」
「だろうて」
ケイスケとウルフもサコンの言葉を理解したようで、大きく頷いていた。
……ん、待てよ? 喫煙所の外にいた俺は、ある疑念を抱いていた。
もっともらしい言葉を並べられたが、結局あのエロジジイはマスターキーをだしに、女子寮に忍び込みたいだけじゃねーのか? 保険云々はただの口実であって、良いように俺達までもはぐらかされたかもしれん。
俺の杞憂であってほしいが、この話の流れをぶった切るような真似はしたくなかった。こんなヘンテコな作戦なんざさっさと終わらせて、早く本業に専念したい。その気持ちのほうが勝ったのだ。
腕時計に目をやり、ウルフが皆に告げる。
「そろそろおやつの時間が終わる。今日のところはこれくらいにしておこう」
「では、ウルフ殿とサコン殿は、潜入についての詳細を煮詰めて――」
「いや」ケイスケの言葉をウルフが鋭く遮る。「保険をかけるのなら、この際全力を尽くすとしよう」
「……と言いますと?」
怪訝な表情を浮かべ、ケイスケは隣にいる銀髪の男を見遣った。
「俺自身の性格を踏まえると、サコン一人に唆されたというだけでは理由不足だ」
なるほど確かに。そう頷いていると、ウルフは黄色の双眸を外にいる俺に向けて、指差した。
「……彼も連れていこう」
「レン殿も!?」
俺も自らを指差し、驚きの仕草を目いっぱいおこなう。
ウルフの暴走はまだ止まらなかった。
「しかし、これでもまだ弱い。この際だからもう一人、女子寮に行こうと唆す人物も引っ張り出したほうがいい」
「ウルフさんよぉ、そいつは一体誰だ?」
それまでの会話の声量よりも圧倒的に小さな、煙草の煙に紛れてしまいそうなほどのか細い声を、潜入のスペシャリストは発した。喫煙所の外にいた俺は、図らずしもウルフの唇を読む羽目になった。彼がわかりやすく口をひらいてくれたおかげで、その人物が誰なのかを悟る。
開いた口が塞がらないってのは、正にこの事だ。
「ウルフ殿、正気でありますか!?」
「本気で言ってるのかい? 今度はお前さんに、その理由を問いたいものだが」
珍しく黄色の双眸は、どこか遠くを眺めていた。
「強いて言うなら、オトコの勘ってやつさ」