8-5 落としどころ
「それを俺たちが調べに行くんだろう? それまで真実はわからないさ」
返答はごもっともだった。模範的ともいうべきか。だが、それは俺が求めているものではなかった。躊躇いの気持ちもあったが、俺はかぶりを振ってさらに踏み込んだ質問を投げかけた。
「……質問を変えるか。もしロウファが敵のスパイだったとしたら、お前はどうする?」
ロウファとはウルフとパートナー契約を交わす女性の事だ。少し抜けているところがあるが、上品な黒髪を揺らす可憐な娘だった。ウルフは気づいていないが、ロウファは彼の事を密かに想っていたりする。
「どうする、とは?」
「構わず牢屋にぶち込むか、それともロウファを庇うか」
考え込む素振りは束の間、ウルフはフッと息を漏らし、微笑みを浮かべた。それは、どこか物憂げな表情にも見えた。
「君らしい質問だな。どちらも情け深い、慈悲のある選択だ」
「どっちなんだ?」
「その二択なら前者になる。任務に私情を挟むべからず。そう俺は嫌というほど叩き込まれてきた」
「そうか……」
元軍人のウルフらしい、堅実で賢明な回答だった。私情に打ち勝つ術を彼は知っている。時の流れに身を任せて生きてきた俺からすれば、その迷いなき選択は羨ましくも思えた。
「だが、もし――」
俺が視線を戻すのと同時に、ウルフは唇を少し噛んで口を噤んだ。彼が次に声を発するたった二呼吸ほどの間に、俺はすごく気持ちの悪い緊張感を覚えていた。
「もしその場で射殺しなければならないか、それとも彼女を庇うかの選択ならば、大いに迷っていたと思う」
「…………」
言葉は失われた。沈黙の時間は排水溝に流されず、粘液のように留まり続けている。
ウルフの物憂げな表情のわけをやっと悟った。俺は心のどこかで、誰も悲しまない未来を望んでいた。人の生き死にから遠ざかろうとしていたのだ。裏切りを働いた人間には、それ相応の無慈悲な時間が待ち受けているというのに。昨日まで――一〇分前でもいい――仲間だと思っていた奴に、はたして俺は銃口を向ける事ができるのだろうか。頭の中がお花畑のこの俺が。
おもむろにルゥの顔を思い浮かべる。端正で魅惑的なあの顔に銃口を突きつけるだって? 非現実的すぎて到底想像できやしない。……ほら、またこうやって逃れようとする。これから起こりうる事に直面すらしていないのにこのザマだ。
室内の沈黙のほとんどは煩悶の時間に奪われた。下手をしたら一時間も二時間も考え込むかもしれないというところで、隣にいるウルフが口を開いてくれた。確かな口調だった。
「ただ、レン。君は今、大きな勘違いをしている」
「え?」
煩悶していた俺は聞き返すだけで精一杯だった。ウルフの黄色の眼は真っ直ぐに俺を捉えていた。
「物事は必ずしも二択で決まらないという事だ。お前は自分から選択肢を狭めようとしている。俺が言ったのは単なる極論であって、絶対にどちらかの結末を迎えるわけじゃない」
「選択肢を広げたところで、ハッピーエンドを迎えられるのかよ?」
「……忘れてた。お前はドがつくほどのネガティブ人間だったな」
「うっせ、バーカ」
張り詰めていた空気が和らいでいくのを感じた。途端に力がふっと抜け、身体が強張っていた事に今さら気づく。悔しいがウルフの言う事には一理あった。もしもの話が先行して、勝手に取り越し苦労をしてしまっていた。そもそも、まだルゥがスパイだと決まったわけではないというのにだ。同じ事でサコンとケイスケを咎めた手前、歯がゆさも覚える反面、そこに気づけてよかったと安堵する自分がいた。
互いに不思議な笑みを浮かべた後、和らいだ空気はそのままでウルフが話し出す。
「ならば丁度良い。お前も気持ちの落としどころを見つけておく事だ」
「気持ちの……何だそれ?」
「誰にも期待せずにいる事さ。他人の手助けは基本考えないで、もしあれば嬉しい誤算として考える。逆に、他人のする失態はある程度想定しておく……。事前にそう捉えておけば、むやみに落胆する事もなくなる」
「それも軍人時代に叩き込まれたのか?」
「いいや」ウルフは首を横に振った。「これは経験から得た教訓だ。その点においては、サコンやケイスケのほうが気持ちの落としどころをわかっている。彼らはルゥがスパイであろうとなかろうと、ある種の覚悟はできている。どちらに転んでも、その先に待ち受ける『必死地帯』を既に見据えている」
「あの腐れ野郎共が、そこまで考えているとでも?」
「少なくともお前よりはな、レン。できる事をやらなきゃ、前になんか進めやしない。お前もこんなもやもやした状態じゃ、地雷撤去もおぼつかないだろう?」
まるでウルフに心まで見透かされているようだった。
行動は迅速であればあるほどよい。これはパールの受け売りだが、数少ないこの世の真理だと思っている。うじうじしているような暇は、生憎俺たちに用意されていない。疲れが溜まろうが邪念に悶え苦しもうが、俺たちは地雷だらけの荒野を突き進まなきゃいけないのだ。
それならば、暴れまわる感情をいっその事落ち着かせてやればいい。抑え込もうとすると反発するから、斜に構えるように全部を悲観的に捉えればいい。そうすりゃいくらか冷静になれる。気持ちの落としどころとは、つまりそういう事だろう。
ウルフの教訓が、今の俺にあまりにもしっくりきすぎていて、笑い混じりの溜息が自然とこぼれる。同時に、パートナーに対するささやかな怒りの感情も芽生えた。
「はぁ。確かにな。ルゥのやつめ、これでもし本当にスパイだったら、まずはあいつのでかいケツを思いきり引っ叩いてやる」
「……命知らずだな」
もちろん、そんな事できやしないだろうけど。むしろ俺のケツがどうにかされそうだ。
ルゥに面と向かって、自らの潔白を証明しろとは言えない状況なのはつらい。だが、こうなったら俺も大人の対応を取るしかないだろう。ウルフの言う通り、どうせクロだろうと悲観的に思い込んで調査にあたらせてもらうぜ、ルゥさん。
そんな感じで内なる思いを燃やしていると、ウルフが俺に訊ねてきた。
「ところでレン、近々休養を取る予定は?」
「ん、明日はいつも通りだが、明後日の午前中なら休みを取っている。それがどうかしたか?」
「そうか。ならばその時間に早速探りを入れてみようと思う。君も手を貸してくれ」
「探りって……どこへだ?」
ウルフは腰を上げ、タオル一枚腰に巻いた状態で不敵に笑った。
「決まってるだろ? 女子寮さ」