8-2 feel so good
事の発端は二週間ほど前の夕方、仕事を終えて駐車場から離れようとした時の事だった。
S・Sの建物群の奥の何もない更地で、俺は奇妙な光景を目にしたのだ。赤茶色の煉瓦が円状に積み上げられて、その出来た空洞で火を焚いている男がいた。屈強な背中と、使い古された道着の格好を見れば、それがすぐに仲間のケイスケだとわかった。ケイスケは竹を使って火の中に空気を送り込み、火の強さを調節していた。
それだけで充分に異質な光景なのだが、俺の目に飛び込んでくる情報はそれ以外にも、頭の中で処理しきれないほどに多くあった。積み上げられた煉瓦の上に、新品同様の緑色のドラム缶が置かれているのだ。ドラム缶の中には湯水が張ってあるのだろう、湯気が立ちこめており、さらにその光景の不気味さを増幅させている。しかもその一式が二セットあるときたもんだ。これを異質と呼ばずして何と呼ぶ。
ケイスケが吹き竹で空気を送り込む謎の物体、そのドラム缶の中で水炊きされる一人の男がいた。タオルを頭に巻いてダラダラと汗を流しているのはサコン、俺の上司で、今日は仕事を早く切り上げているはずだった。ドラム缶の縁に腕を乗せて、その状況を甘んじて受け入れていた。メタボの中年を生贄に、一体何の儀式をしようってんだ?
俺は別段気にはならなかった。いやむしろ、本来の俺ならばなるべく距離を置いていたはずだ。あんな不審者共の近くにいたら、こっちまで怪しまれちまう。俺がその謎の儀式が行われている場所に向かうのはちゃんとわけがあって、生贄と化しているサコンに、仕事が終わったら俺がいる場所に来いと事前に言われていたからだ。
しかし、こんな異様な事になってるのなら足を運ぶのも憚られる。俺は軽い舌打ちの後、眉間に皺を寄せて、彼らとは一切関係のない部外者であるかのように振舞うことにしたのだ。
「何だ? このけったいな物体は」
「これは五右衛門風呂という、我が国で古くから伝わる入浴器具でございます」
「風呂ォ? これがか? ドラム缶にお湯を張っただけじゃねぇか」
竈の近くにいたケイスケも、サコンと同じくらい額に汗を浮かばせていた。おおかた予想はついていたが、こいつらがなぜ外で風呂を造り、そしてなぜ俺を呼んだのかは疑問でならなかった。たとえ慈善だとしても、ありがた迷惑この上ないし。
疑問はそれだけじゃなかった。ドラム缶も煉瓦もまだ新しいもので、おそらく隣国のギズモからこちらに取り寄せたのだろうが、それには決して安くない金額がかかっているはずだ。普段の入浴ならシャワーで間に合うはずなのに。……まぁ、一〇分間だけという時間制限をマザー・トードに命じられているから、あまりリラックスできる感じじゃないのだが。
それにしたって、何から何まで取り寄せて風呂を造るとは考えられない。俺が怪訝な目をするのは当然だったが、そうとは知らずケイスケは良い顔をして低温の声を響かせる。
「まあまあそう言わず、レン殿も入ってみてくだされ。丁度いい湯加減ですぞ」
「ケイスケの言う通りよ。たまには肩まで浸かる入浴も悪かねぇ」
「サコン、そりゃ何だ?」
汗だくのサコンの傍の湯面には上品な盆が浮かんでおり、その上に白い陶器があった。どうやら熱湯の他にも、ジジイの肌を紅くさせる要因があるみたいだ。
「これは『ユキミザケ』という代物よ。日本じゃ伝統的な酒の嗜み方らしいぜ。外で湯に浸かりながら一杯ひっかけるのが、こうも美味いもんだとは知らんかった。ケイスケよぉ、お前さんとこの先人様は、なかなかオツなものを開発するじゃねぇか」
「アル中だったんじゃねぇの、そいつ」
上機嫌なサコンに、俺はすかさず皮肉を言ってやった。ケイスケは苦笑いを浮かべていた。別に彼のとこの先人様を馬鹿にするつもりはなかったのだが、うっかり口が滑っちまった。
場が変な空気に飲まれる前に、俺は頭を掻いて二人に状況の説明を促す。
「ったくよぉ。呼び出しくらって何事かと思って来てみれば、いきなり風呂入れだの、わけわからん事言いやがって。一体何が目的だ?」
「御託を並べるのは後にするこった。お前さんも入りな。仕事疲れにゃ、この風呂は効果てきめんよ」
「……ここで丸裸になれと?」
俺は思いっきり怪訝な表情を浮かべた。
「パンツ履いて風呂に入る輩がどこにいる? 下にタオル巻いときゃいいだろうが」
「レン殿。実際に入浴は健康に良いものですぞ。血行をほぐし、筋肉が凝り固まった箇所によく効きまする。特に身体を酷使するレン殿には効果的かと」
効能を聞いているわけじゃないんだ、ケイスケ。俺はただ、人前で素っ裸になるような物好きではないと暗に言っているんだ。――と説明したところで、酒の回った老いぼれと無骨な恵体アジアンを説得するのは難しいだろう。
そんな事でカロリーを消費したって、同時にストレスも溜まるだけだ。別に風呂に罪はないからいいかと、俺は渋々口を開いた。
「……わかったよ。あんまこっち見んじゃねーぞ」
「女々しいやつめ」
何だか最近、場に流される事が多くなった気がする。
作業着やブーツ、諸々を取っ払い、腰にタオルを巻いて入浴の準備を整える。湯気はほのかに柑橘類の果実の香りがする。よく見ると、お湯は橙色に染まっていた。入浴剤まで用意しているとはな。だけど今は、白く濁るタイプのやつがよかった。
煉瓦でできた段をのぼり、足を上げて爪先に軽くお湯をつける。正真正銘のお湯だ。しかしこの格好、真正面から見ると俺の大事なところが露になっている事だろう。誰にも目撃されてはいないだろうが、俺はひと思いにお湯の中に身を投げ入れた。
「ッッッかぁ~~~~~~~ッ!! いい湯じゃねぇか、くそったれ!」
全身にじわりと広がる熱湯の律動、すなわち快感。湯を手で掬って顔をゴシゴシ洗うと、得も言われぬ解放感に満たされる。身体を洗い流すだけの入浴とは断然違い、風呂はサイコーに気持ちよかった。咄嗟に出た罵倒は日頃の鬱憤だと思うから、許してほしい。
「湯加減はいかがですか?」
「もうちょっと熱くてもいいが、すぐにのぼせちまうからな。このままでいい」
「どうだい、レンさんよぉ? 外で入る風呂ってのも悪かないだろ?」
ユキミザケとやらを嗜むサコンは、風呂に良がる俺を見て満足げだった。
「ぬかせ。何が悲しくて外でストリップきめちまわなきゃいけねーんだ。金輪際ごめんだね」
俺の口は相変わらず減らず口を叩いたが、胸中はまんざらでもないってのはここだけの話だ。ケイスケが風呂の効能について話していたが、癒し効果は間違いなくあるだろう。全身の毛穴という毛穴から、溜まっていた悪いもの全部を吐きだす勢いだ。自分で気づかない間に、疲労を蓄積させていたという事か。それに気づいただけでも儲けものだ。
「それで? こんなけったいな風呂セットをわざわざ輸送してまで、大枚はたいて用意したのはわけがあるんだろ? そろそろ説明してもらいたいんだがな」
「そう急かすなよ。ひとつはただの余興さ。俺も自分が物好きなのを自負しているが、ドラム缶と水なんかにドル札ばら撒くほどの酔狂じゃねぇ。これでもサンタナに無理言って格安で運んでもらったんだ。後でお前さんにもカンパしてもらうからな」
「はぁ!? ふざけんなよ、誰がてめぇの余興なんかに!」
このジジイはどこまでがめついのか。俺は拒絶するように声を荒げた。
対してサコンは、おちょこを手に持ちつつ涼しい顔をしてやがった。
「最後まで話を聞かんか、馬鹿者が。この物好きな性分を俺も利用された、と言ったらどうする?」
「……話が見えない。もっと簡潔に説明しろ」
「そうさな。レン、お前さんを脱がせる必要があったのさ」
本能が危機感を煽る。そう、貞操の危機。火を調節していたケイスケもピタリと手を止めて、呆然とした表情で俺たちを交互に見遣る。ドラム缶の中にいるから身動きが取れないが、それでも俺はできるだけ端っこにへばりついた。もちろん、問題発言をしたジジイとは逆の方に。
「な!? ヘンタイか!? そうじゃなかったらホモ野郎か!?」
「まぁ、そういう反応をするのも無理ないわな。俺も最初この話を聞いた時、話し手の正気を疑った。だが、何か他に方法があるかと聞かれたら、な。悔しいがこいつがベストなやり方だって、嫌でもわからされたよ」
俺を脱がすベストなやり方ってなんだ!?
と、俺が勘違いしないで済んだのは、思いの外サコンが真面目な面持ちをしていたからだ。思い耽ったように、夕闇へと移り変わろうとするサヘランの空を眺めるサコンの眼差しは、どこか悲しげだった。
相槌を打たない俺に対し、サコンはおもむろに口を開く。
「今朝方、俺宛に届いた書類の包みに、奇妙な茶封筒が一通同封していた。俺はシングルだからな、使用した器具の部品の費用だとか、どういう種類の地雷をどれだけ撤去したかだとか、いちいち報告せにゃならんわけよ。その諸々の書類が入った包みに、ひっそりと忍ばせてあったんだ、こいつがな」
どこからか、サコンはおちょこの替わりに茶封筒を手に持っていた。
シングルというのは、女性オペレーターと長期の金銭契約を交わしていない者のことを指す。金さえ積めば誰とでも契約できるというわけではない。品行方正、容姿そこそこ、仕事もこなす、くらいの三拍子を揃えてやっと、女性オペレーターを迎えられる。俺とウルフ、そしてジョウが奇しくもそのハードルを越えて、それなりの女性と長期の契約を交わしている。つまり、パートナーがいるというのは一つの指標であり、シングルはあまり良い称号とは言えないのだ。
しかし、地雷掃除人の八割方は、そのシングルという悲しき称号を持つ者たちで構成されている。女性オペレーターにとっても、パートナーとして組む男性は一種のステータスであり、選択に妥協はできない。だからサコンを含む中年の掃除人たちは、『容姿そこそこ』の基準を満たしていないと判断されて、シングルの称号を背負って地雷原に向かっているのだ。地雷撤去の実力は各国の傭兵の中でも屈指だというのに。
それはともかく、今どきに手紙なんてアナログな連絡手段も珍しい。こんな辺境の地にいたとしても、液晶無線機なりメールなり、電子的なやりとりはできるってのに。だから俺も、この奇妙な会合にはそれなりの意図があると、そう感じ取れたのかもしれない。
「ところでレンさんよぉ、ここ最近の俺たちの進行具合は、お前さんも知っての通りだろう?」
「……あぁ。まるでガキの道草だ。いつにも増して自警団に邪魔されて、進行もクソもあったもんじゃねぇ」
「あのウルフ殿でさえも、先行調査からの一時撤退を余儀なくされるほどの警戒態勢……。ここに来て以来、初めての事ですな」
ケイスケの低い声も相まって、場に重苦しい雰囲気が漂う。
俺の師匠、パールの活躍もあって、俺たちは順調に『必死地帯』を攻略していくものと思われたが、現実はそう上手くはいかなかった。
先日、単独で先行調査に向かっていたウルフが帰還した。早い帰りだった。彼は難しい顔をして、進路を変えるべきだと言った。俺たちが向かおうとしていた次のポイントで、サヘランの自警団が武装して待ち構えている、との事だった。元スぺツナズのウルフでさえ対抗できないほどの、大掛かりな態勢。地雷撤去能力は指折りでも、俺たちの戦闘能力は低い。腰に銃を携えているのが数人だけという状況で、そのポイントに向かうのは無謀でしかなかった。
それでやむなく進路を変えることになったのだが、そこでも普段とは異なる状況に追いやられた。進路を変えた先の道の側にある岩陰やちょっとした草むらに、まるで先読みしているかのように自警団が待ち伏せしていたのだ。ウルフが念を押して、そちらにも先行調査に向かってくれていたのが幸いだった。
だが、自警団のそういった抵抗は、俺たちの足を止めるのには充分な働きだった。『必死地帯』を歩くのとは違う、銃口を突きつけられる恐怖。向けられた敵意は簡単に人の命を奪い去る。敵ではないのに、命を奪い合いなどしていないのに。それに腹立たしさを感じたが、同時に俺たちは、滞ってしまった状況を受け入れるしかなかったのだ。