7-16 見送りの朝
それから日が昇り、厨房でマザー・トードが朝食の準備をてきぱきと進めている頃、静かにここを離れるパールを俺は駐車場で見送ろうとしていた。自分を見送るために時間を取らせてはいけない――。師匠の心遣いは最後まで抜かりなかった。
エリーの待つ紫色のテカテカした車を前に、パールは顔色ひとつ変えず出発の準備を進めていた。同じく徹夜した俺は相当おねむで、瞼が鉛のように重い。早いとこ仮眠して、仕事前には栄養ドリンクを飲まなきゃな。
パールの荷物はスーツケースが一個だけで、今は空になったリュックサック二つをそれに詰め込んでいる。酒のつまみがぱんぱんに入っていたリュックサックはもぬけの殻だった。貴重な嗜好品は、たった一晩の宴で無に帰されたのだ。まぁ、つまみ達もそれが本望だろう。もう少し柿ピーを食っときゃよかったと、俺はあくびをしながら少し後悔した。
それが終わって身軽になったパールは、振り返って俺の顔を窺った。
「今日の昼からまた仕事なんだろう? 寝なくていいのか? 私からルゥに一言断っておこうか?」
「いいから。何で見送る側の俺が心配されなきゃなんねぇんだよ。あんたは自分の事だけ心配してろ」
相変わらず過保護というか厚かましいというか、パールの俺に対する気遣いは親バカのそれと同じものだった。ウザいと切り捨てるのはあれだが、ほとほとうんざりしている。投げやりな言葉をよこした弟子に、パールは肩を竦めて微笑した。
そして彼女が踵を返そうとしたその時、近くの出入口から少年の声が届いた。
「パールさ~ん! 待ってくださいッス~!」
「ん?」
少年は手を振ってこちらに駆け寄ってくる。しみったれた雰囲気で見送るよりはいいかもしれない。陽光と同じ色をした髪を揺らす少年を見て俺はそう思った。
「も~! 朝早くに発つんなら先に言っておいてくださいッス」
「ジョウ。それにみんなも」
息を弾ませているジョウの後ろに、ゆっくりと歩く三人の人影があった。ウルフとロウファ、それにズィーゼ。それぞれがペアになって星の降る夜を過ごした、あの連中だった。
彼らの表情は眠たそうだが、同時に穏やかだった。ズィーゼは何か違う意味で血色が良いように見えたが、それは置いておこう。
ウルフがいつもと変わらぬ口調でパールに話しかける。
「君の事なら気を利かせて、ブランチの時間を過ぎたあたりに出ると思ったんだがね。そうすれば、午前中から働く連中の仕事をキャンセルできたのに」
「それはできんよ、ウルフ。仕事は仕事だ。早いとこ課せられた任務を終わらせて、とびきり美味い酒を飲もうじゃないか」
「フッ、それもそうだな……」
パールとウルフの距離感は絶妙だった。俺はなまじ彼女と近い間柄だから変なお節介を焼かれるのだが、それは近いようで遠い微妙な距離感だった。だから俺はウルフに少し妬いていたのかもしれない。
「パールさん」
「ロウファ」
今度は黒髪のオペレーター、ロウファが歩み寄った。サイドテールに元気がないのを見る限り、また意中のウルフを落とす事は叶わなかったようだ。声色も小鳥のさえずりのように弱々しかった。
「あの……。今回私、パールさんと一緒にお酒飲めなかったんです……」
「ああ、それはすまない……。ロウファの他にも、私と乾杯していない人がいるかもしれんな。私とした事が申し訳ない」
「いいんです。それよりも、今度帰ってきたときに改めてお話しましょう」
「約束するよ。今度はめいっぱい飲み明かそうじゃないか。それと――」
パールはわざとらしくウルフの方を窺いながら、ロウファに耳打ちをする。
「良い報告を、期待しているよ」
「ぜ、善処します……」
「……ん?」
それでも、朴念仁のウルフには伝わらなかったようだが。
パールは次に、もう一組のペアの方に目を向けた。
「ジョウとズィーゼも元気でな」
「おかげ様で昨晩は楽しめたわよ。ねぇジョウ?」
「はいッス。もう僕はズィーゼ様以外考えられないッス」
特徴的なジョウの語尾こそいつもと同じ調子だったが、声の抑揚はどこかに置いてきたようになくなっていた。瞳孔が身動きひとつしないのも相まって、ジョウは愛想のないロボットのようだった。おそらくズィーゼの奴の仕業だろう。
「ふ、二人とも幸せなら何よりだよ。ジョウ、がんばるんだぞ」
「はいッス。もう僕はズィーゼ様以外考えられないッス」
「おいおい、大丈夫かよ……」
同じ言葉を発するジョウを見て、俺だけじゃなく他のみんなも恐怖を覚えた事だろう。
ただ一人だけ、悠長に首を傾げるキツイ感じの美人だけはなんとも思っていないようだ。
「おかしいわねぇ。調教の仕方を間違えたかしら?」
パールの見送るための時間なのに、変な空気になってしまった事は申し訳ない。俺は彼女と目を合わせ、口惜しいが出発を促した。パールがひとつ咳払いをして、話を切り出した時だった。
「さてと、そろそろ私も――」
「待ちなされ」
しゃがれた声が、どこからか俺達の耳に届く。声の主は建物の角から姿を現す。まったく、そんな登場の仕方がいまどきかっこいいとでも思っているのだろうか、あのジジイは。
「サコン」
しゃがれた声にハンチング帽、そしてデブった腹といえば、それだけ声の主は一目瞭然だった。サコンは意味ありげに後ろで手を回して、こちらに歩み寄ってくる。また何か、くだらないプレゼントでも押しつけるつもりだろうか。パールが迷惑がらなければよいが。
「わざわざ見送りに来てくれたのか?」
「お出迎えができませんでしたのでね。せめてお見送りするのが男の仕事、それができない野郎はド三流よ」
「で、一流のあんたはパールの発つ時間を予測して見送りに来たと。随分とマメなことで」
「レンさんよぉ、間違ってもらっちゃあ困る。俺という人間は超一流なのさ」
何が超一流だ。見た目から出直してこいってんだ。パールとサコンは美女と野獣というたとえにぴったりだ。まぁ、痩せたところで美女より身長が低かったら見栄えしないだろうな。そう俺は心の中で思う存分皮肉った。
後ろに隠していたものを勿体ぶるようにして自らの前で抱え、それを持ってサコンはにやりと口角を上げた。
「サコン、それは?」
「俺もロウファ同様、貴方と飲みそびれちまったクチでね。こいつぁ何か良い日に飲もうと思っていた代物なんですが、いつになってもその日が来やしないんでね。これを貴方に差し上げようと思いまして」
丁寧に包装されているのは形的におそらくワインボトルのようで、サコンはどうやら酒をプレゼントしたらしい。俺の師匠は大の酒好きだから、アルコールが入っているものをプレゼントすれば何でも喜ぶのだが、パールの反応はいつもより大きいものだった。
「貴腐ワインじゃないか! こんな貴重なもの、もらうわけには――」
「いいからいいから、どうか受け取ってくだされ。大枚はたいて買ったはいいが、俺には手に余る代物だったんでね……」
「私だってこんな高価なお酒、手に余らすというのに……。まったく、このご時世に金の無駄遣いとはいただけないな」
「貴方様がしかと受け取って下されば、無駄にならずに済むんですがねぇ」
「フフフ。わかったよ、ありがたく頂戴しておく。でも次に帰ってくるときまでに取っておくよ。素敵な人と飲むために、ね」
「パ、パールさん。それはもしや……?」
サコンのヒゲ面が酒が回ったかのように紅く染まる。正直、キモい。それとは対照的に、上等な酒を貰った師匠は不敵な、そして美しい笑みを浮かべていた。
「幸運を祈る、サコン。日頃の行いに気をつけること」
「へへぇ、了解しましたぜ」
サコンはデレデレした様子で頭を下げた。パールの奴、リップサービスにも程があるんじゃないか? ……リップサービスだよな?
俺以外の全員がパールに別れの言葉を言うもんだから、トリはお前だと言わんばかりにこちらを見てきやがる。俺は浅い溜息をひとつついた。こういうのは苦手なんだけどな。
「ったく、今生の別れでもないってのに、どいつもこいつも見送りの言葉が大袈裟過ぎやしないか?」
「そういうお前は、もっと師匠に気を使ってもいいと思うがな」
「ぬかせ。こちとら仕事の事で頭がいっぱいなんだ。今度は早く帰ってこいよ。そうしないと、俺が過労でぶっ倒れちまうからな」
自虐も込めて、俺はパールにそう言い放った。互いに笑みがこぼれる。
「『指向性電波弓』の部品が出来次第、またこちらに戻るよ。といっても、一カ月後か二カ月後か、それともそれ以上かかるかもしれないが……。レン、それまでの間、皆を頼んだぞ」
「何を頼まれても、俺にできるのは地雷撤去だけさ。それだけは約束する」
「相変わらず捻くれた、しかし心強い言葉だ」
そう言って、パールは俺の肩に手を添えた。帰ってきた時と同じように。
「またな、レン」
「ああ。パールも元気で」
あの時「おかえり」とは言えなかったから、今こうして「いってらっしゃい」の代わりの言葉が言えて、俺は本当に安堵した。一瞬のような永遠のような、ふっと見上げた夜空に流れ星を見つけたような感覚を覚える。できればずっとこのまま、淡い時間に溺れていたかった。
けれども、肩に触れていたパールの細い指が徐々に離れていく。なぜだろう、こうやって師匠と別れる日は今日だけではないのに、切なさが胸を締めつける。眩しすぎる朝日でも、ましてや冷たすぎる空気のせいでもないのに、ただ切なかった。
かける言葉が短すぎてまた息を吸い込んだけれど、思い留まった。いや、単純に俺が臆病だから、口を噤んでしまったのだ。
「それじゃあ、エリーをこれ以上待たせるといけないし、私は行くとするよ」
パールはそう言って踵を返し、車の方へと歩いていった。後ろは振り返らなかった。潔く華麗に栗色の柔らかい髪を揺らして、見守る俺達から離れていった。やがて車のエンジンがかかり、砂煙を巻いて乾いた大地を走り出す。またいつもの寂れた、師匠のいない日々が到来したのだ。
ハンチング帽のつばを下げて、サコンは独り言のように呟く。
「あの人は本当に流れ星のようなお方だよ。輝きと共に現れて、まばたきする頃にはもう過ぎ去っている」
「そうだな。本当に――不思議な人だよ、俺の師匠は」
大地からはもう、陽炎が浮かび始めて景色を歪ませている。それなのに、俺は地平線へと走りゆく一台の車の行方を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
澄みきった水色の空にひとつ、流れ星が降ったような気がした。
第7話、終了です。いかがでしたでしょうか。
書ききるのに長い時間を費やしてしまい、大いに反省しております。
第8話こそはサクサク書ける予定です。3カ月くらいで終わるといいな……。
それではまた、お会いしましょう。