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地雷掃除人  作者: 東京輔
第7話 Sternschnuppe ~流星~
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7-15 キレイだ


 それからどれくらいの時間が経っただろうか。流星の出現がピークを過ぎて、同時に興奮していた俺の気分も落ち着きを取り戻した頃。感嘆の漏れた吐息はただの白い息へと移り変わり、寒空に大の字になっていた事を思い出させる。暗色のキャンバスに描かれる光の線と、俺の目に焼きついた光の残像が交じり合う。死ぬまで忘れる事のないこの素敵な夜空を、心の大事なところにしまっておくとしよう。カメラやビデオに残さなくたっていい。記憶は記録より劣るが、それ故味わい深い。一度きりの体験だから甘美なのだ。

 上体を起こして視線を戻すと、東の地平線からほんの僅かに蒼穹が顔を出しているのが見える。サヘランの夜が織りなす青のグラデーション。日の出が近い事を表している。もうそんな時間になったのか。


「レン」

「ん?」


 パールは数刻前の姿勢から変わっておらず、また、彼女の瞳は流星の行く末をずっと捉え続けていた。目を合わさずに話をするなんて珍しい。俺がやったら真っ先に修正されるのに。

 少しの間を置いて、パールは重たい口を開いた。


「……少し、私の話を聞いていてくれないか? 相槌も打たなくたっていい」

「何だよ、改まって」

「いいから。今度は私の番だ」


 パールの言葉の意味を探る。私の番という意味。それはすぐに理解できた。俺達が外に出る前の出来事。俺がずっと思い悩んでいた事を師匠に吐露したあの事が脳裏を過る。自分一人では解決できないもの、誰かに縋りたいという思い。人は誰しもそれを持っているのだと思い知る。


「……わかったよ」


 言葉少なに返すと、パールは頷いてぽつり、またぽつりと口を開いていく。


「あれは二カ月ほど前の、パキスタンにいた時の話だ。パキスタンは難民が多くてな、支給品を配るのにも人の群れが押し寄せてきて大変だった。血眼になって水や食料に群がる彼らを責める事はできない。生きる事を脅かされていては、人は誰しも凶暴な一面をのぞかせてしまうものだから。彼らにひとときの安らぎを与えるのが私の役目だと、そう思っている。その日も私は、彼らを宥めながら支給品を順々に配っていたんだ」


 それは、パールがS・Sを離れている期間の、赤十字社の一員として活動している時の話だった。師匠からそういう話を持ち出すのは稀だったので、俺はいつもより耳を傾けた。


「そんな時、赤ん坊を抱いた若い女性が私のところにやってきて、こう言ったんだ。『用を足しに行きたいからこの子を預かっててくれ』って。二つ返事で引き受けたものはいいものの、待てども待てども彼女が帰ってくる事はなかった。お昼が過ぎても、夕方になっても」

「…………」


 ふっと視線を落としたパールは、どこか哀しげな眼をしていた。流れ星がひとつ、迷子のように夜空を滑る。俺が相槌を打たなかったものだから、少しの間の後、パールはかぶりを振って話を続けた。


「そういう経験は初めてではなかったんだ。育児放棄という言葉では語りきれない。ただの母親の身勝手かもしれないし、せめて赤ん坊だけは健やかに育ってほしいという親心かもしれない。でも、少なくとも私には、母親がその子を見捨てたとは思えなかった。私に赤ん坊を渡した時、頭や頬を愛おしく撫でて去って行ったから」


 確かにそういう団体に赤ん坊を任せてしまえば、その子はきっと食べ物にも困らず、きちんとした教育を受けられる事だろう。その子の母親にしか真意はわからないが、貧困に窮する者の思い、せめて我が子にだけは未来を託したいというのは理解できる。

 パールは困ったように眉根を寄せて、こう続けた。


「けれど、そんな事を知る由もない赤ん坊は、私の腕で泣き続けてね……。参ったよ、あやしてもあやしても全然泣き止まなくって。それで私も気が動転していたのかな、見よう見まねでやってみたんだ」

「何を?」


 俺が聞き返した後、パールはこちらにゆっくりと瞳を向けて、こう告げた。


()()()を、ね」

「ッ……!」


 顔の辺りが急にかーっと熱くなるのを感じる。吐く息が白くなるほど外は寒いのに、鼓動が耳の奥で激しく打つのを感じ取れるくらい、俺の体は火照りやがった。

 目の前に佇む師匠の、胸の膨らみに目がいってしまうのを必死に抑える。そういうのじゃない。これは至って真面目な話だってのに、どうしてこう男というのは下衆い感情を拭え切れないのか。卑しい、いやらしい男で雄でもある自分が、つくづく嫌になっちまう。

 咄嗟に視線を逸らす弟子の心情を知ってか知らないでか、師匠のパールは少しだけ笑みをこぼし、再び眉根を寄せた。


「もちろん、おちちを出したことなんてないし、吸っても吸っても何も出てこないものだから、赤ん坊はさらに泣いちゃって……」


 パールの発した言葉の語尾が尻切れて、ついには沈黙が訪れる。事前に相槌を打たなくていいと言われたのは幸いだった。こういう時にどんな言葉をかけてやればいいのか、皆目見当がつかなかったから。

 ちらほらと寒空を駆ける流星だけが頼りだった。燃え尽きては再び訪れる宇宙の塵に、俺は頼りっぱなしだった。俺の目に映る女性は、思い悩んでいた俺を諭し、優しい言葉をかけてくれた師匠とはまるで別人のようだった。そこには燃ゆる命に思いを馳せる、ただ一人の女性が佇んでいるだけだった。

 涙をこらえたような彼女の強張った声が耳に届く。


「何というか、切なくなったよ。私が形振り構わず今までやってきた事、自分では人一倍頑張ってきたつもりだったのに、赤ちゃん一人満足にさせてやれない、安らぎを与えてやれないなんてってね……。誰かの母親でない自分がこんなにも未熟で、こんなにも惨めだとは思わなくて、その赤ちゃんと一緒に噎び泣いてしまったんだ。おかしな話だろう?」


 パールの瞳が潤ったように綺麗に映る。それが流れ星の所為なのか、それとも別の何かの所為なのかはわからなかった。無理に作った彼女の微笑みが辛くて、俺はありきたりな言葉の羅列を発する他なかった。


「……赤ん坊を満足させられるのは世界にたった一人だけ、その子の母親だけだ」

「わかってる。わかってるんだけどな……」


 痛々しい静寂が再来する。どこか悟ったような、悲しみを享受するような表情をする師匠に、俺は何をしてやれるのだろう。彼女と同じ時間、同じ空間を共有する者の使命の鎖に――そんなものはあるはずがないのに――俺は束縛されていた。

 慰みは時として人を傷つける。パールのこれまでしてきた事の功績を讃えたところで、きっと彼女は俺に微笑みをくれながら、心の中で咽び泣くのだろう。功績の代償、もしくは犠牲を払って得た功績というべきか。その二つに押し潰されそうなのを我慢して、師匠は、いや、パールという一人の女性は俺に助けを求めたというのに。

 結局俺は、彼女の思いの捌け口にしかなれなかった。ごめん師匠。出来損ないで舌足らずの弟子で、本当にごめん。そう心の中で平伏すしかなかった。


 刹那の光芒が時を動かす。パールが見上げた時には既にそれは消え去っていたが、それでも彼女は宙を見続けた。辺りを包んでいた静寂の靄がうっすらと姿を晦ましていく。


「だから、ね? もしも神様が寛容なお方だったら、お星さまにもう一つ願い事を叶えてもらおうと思ってたんだ」

「それは?」

「――いつか、私も母親になれますようにって」


 どこか気恥ずかしそうに、パールはそう言った。優しさの宿った、芯のある声だった。


「……そりゃまた、神様も難儀なお願いをされたもんだ」

「ダメかな?」

「いいや。あんたの相手さえ見つかれば、そのついでに叶えてくれると思うよ」

「……そうだな。まずは相手を見つけないとな」

「あんたと釣り合う人間がはたして現れるかどうか」

「もう、見つかる前からネガティブな事は言わんでくれ」


 それまでの静寂が嘘のように、言葉の群が湧いて出てくる。明るみを取り戻しつつあるサヘランの空に向かって、俺は続けた。


「だってさ、何年もあんたの弟子をやっていると思うものもあるよ。一緒にいて存在のでかさを知らされる。誰にでも優しいし、誰からも好かれるし。世界中のどこを探したって、あんた以上の男がいるとは思えない」


 慰みでも労りでも、ましてや憐みでもなく、俺の口から出た言葉は素直な本音だった。師匠として慕ってきた弟子の本音。だが、それはいつの間にか、一人の男としての言葉にすり替わった。


「それに、俺にとってパールは――」


 流星が二三、明滅と共に消えゆく。静寂の訪れは必然だった。

 けれど、その静寂は不思議と居心地の悪いものではなかった。口の中にじんわりと広がる果実の酸味のように、ずっと味わい続けていたいと思った。それを体内に流し込むのは簡単だけど、俺はやっとの思いで吐きだしたのだ。


「――パールは、母親みたいなもんだから」


 吐きだした言葉は微妙に味が変わっていた。うなだれる事すら叶わなかった。

 俺は何をやっているんだろう。こんな機会はもう巡ってこないってのに。

 誰かが、何かが俺の背中を一押ししてくれれば、それで済むのに。


 沈黙していたパールがこらえていた笑みをこぼす。もう、何を伝えようにも手遅れだった。


「母親、か……。おなかを痛めていないのに、随分と大きい子どもを授かってしまったな。フフフ……」

「へへ……」


 パールの微笑みと、俺の情けない、自らを嘲る笑いが周囲に溶けていく。


「じゃあ、これで私の願い事は一つになったのかな。よし、それじゃあ心置きなく、この星の海に祈るとするよ」

「そうだな。俺もしばらくここにいるよ。今度この夜空を眺めるのは、三〇年後になりそうだから」


 そう言って、俺達はまた流星が描く光芒を辿った。三〇年後とは言ったけど、同じ夜空を望むことは決してできない。同じ夏が来ないように、一生に一度だけしか巡ってこない。

 だからせめて、この流星の降る夜と大切な人との時間を、夜が明けるまで感じていたかった。叶いっこない願い事を、俺はずいぶんと出遅れた流れ星に祈ったのだ。


「――キレイだな。星も月も、全部」

「――ああ、キレイだ」


 プラネタリウムは終焉を迎えようとしていたが、二人の迷惑な客は閉店まで決して帰ろうとはしなかった。日が昇り、最後の流星が通り過ぎるまで、ずっとずっと。


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