7-12 吐露
今回の話は第1話に起きた出来事について話しています。
随分と遡ってしまうので、よろしければそちらもご覧いただけると幸いです。
食堂に比べ、自分の部屋はひどく静かに思えた。普段うるさいポォムゥも、今は充電中で目を瞑り、淡いピンクの光を仄かに放っているだけでおとなしい。喧騒な場所よりはいくらか居心地がいいとはいえ、もやもやとした心が鎮まるわけではなかった。
身体が倦怠感に襲われている。椅子に座った状態でもそれが治まる事はなく、歪な空間を漂うような感覚に見舞われた。久しぶりに飲んだ酒の所為にしてしまえば、どんなに楽な事だろう。飲んで笑ってバカ騒ぎして、嫌な事は忘れてしまって……。そういう風でありたかった。
だが、今日の酒はまるで腐った水のようで、全く喉を通っていかなかった。それなのに、二日酔いみたいにひどく気分が悪い。よりにもよってこんな時に俺は、過去に犯した過ちに懊悩していたのだ。思い出したくもないのに、俺の脳裏に焼き付いて離れない陰惨な記憶。パールのいない間に起きた事件。
過ちと向き合うのが怖かったから、俺は日々地雷原に身を投じた。仕事をしている時、自らを危険な場所に放り込む時が、実は最も安堵する時間だった。間違って地雷を踏んづけて死んじまっても、俺は納得していただろう。そう望んでいる自分も確かにいたのだ。
でも、臆病な自分がそうさせてくれなかった。『液体窒素剣』は寸分違わずに地雷の信管を貫いていった。たった数ミリ手元が狂えば、それだけで俺はこの世からいなくなるのに、そうはならなかった。
ぼやけた視界でも天井の灯りは嫌でも目に入る。けれど光を遮りたくなかった。暗闇は見たくないものまで映してしまうから。
不意に扉を叩く音がした。歪な空間はたちまち消え去り、俺を現実に呼び戻す。訪問者が誰かは既にわかりきっていたので、俺は別段驚きもしなかった。
「開いてるよ」
「もう戻っていたのか。水臭いぞ、まだお前と杯も交わしていないのに」
そこにはにこやかに微笑むパールが立っていた。久しぶりの酒は彼女には上手く作用したようで、表情は緩み、白い地肌がほんのり赤く染まっていた。パールはアルコール瓶と二つのグラスを持っていて、その一つを俺によこした。
「ほら、グラスを持て」
「待ってくれ、パール。……今は俺、そんな気分じゃない」
「どうした?」
子供のように首を傾げるパール。彼女が帰ってきたのを祝う祝杯だというのに、俺はそれを断ってしまった。つくづくこういう自分が嫌になる。
「飲めば気も紛れると思ったが、どうにも悪い方に酔っちまったらしい」
嘘をつくのは苦手だったし、パールもその事は知っていたので、俺はかぶりを振って正直に話す事にした。
「すまん、パール。俺はあんたに言わなきゃいけない事がある」
「……わかった。ここ、座っていいか?」
「ああ」
パールは持ってきたアルコール瓶とグラスを机に置いた。きっとどんなに美味しい酒を注がれても、今は晴れやかな気持ちにはなれないだろう。表情がそれに表れていたのか、パールは先ほどとは違ったトーンで俺に訊ねた。
「何かあったのか?」
「あれはあんたが、前にS・Sを出てすぐの事だった。ヘルダムの手前のゴーストタウン、覚えているか?」
「よく覚えているよ。地雷だけが取り残された不気味な場所だった」
廃墟と化した街並みに夥しい数の無人兵器。物資の供給が途絶えた街の成れの果てだ。
「ああ。そこの住民はみんな救助されているともんだと、俺も思っていた。だが、まだ生き残りがいたんだ」
「何だって?」
パールが驚いて聞き返す。部屋の中は静まり返り、蛍光灯のブン……という鈍い音だけが鼓膜を振動させる。
「ポォムゥが地雷原に向かう人間を探知したんだ。あの時俺は微熱があって、出向かうのが遅れてしまった」
長い沈黙が続いた。
その静寂でパールも俺が言わんとしている事がわかったはずだ。でも、それは俺が喉を振るわせて言わなければならない。見向きもしたくない現実を言葉にしなければならない。
ひどく掠れた声を、俺は喉の奥から絞り出した。
「……救えなかった。一人の子供を」
「……レンのせいではないよ」
パールの慰みは、却って俺の心を乱した。パールの優しさを振り払うかのように、俺は強くかぶりを振り、声を荒げた。
「いや、救えなかったのとは違う。……俺は、俺は見殺しにしたんだ! 秤にかけちまった、人の命を!」
言葉を発すれば発するほど激情が募り、声を乱れさせる。
普段ぶっきらぼうな弟子の動揺しきった姿に、パールは驚いていた。
「どういう……意味だ?」
「地雷原に向かう人影は、一つじゃなかった」
「!?」
「二人いたんだ。方向が違う通りに一人ずつ、ポォムゥのレーダーに指し示されていた」
落ち着いてあの時の状況を説明できたのは、頭の中のどこかでずっと思い悩んでいたからなのか。
「一人は助けた。だけど、そいつを助けるために俺はもう一人を見殺しにした」
「…………」
パールは開きかけた口を閉ざし、声を失くした。
ふとした瞬間――眠りに入る直前や地雷が爆発する音を聞く度に、強く印象づいたそれは強制的に俺の頭の中を駆け巡った。俺が取った非情な選択の所為で、犠牲が生まれてしまったという現実。その反吐が出そうな現実は、常に俺の背中に纏わりついていた。
けれども、俺の口はまだそれから逃れようと言い訳を吐きやがる。
「一〇メートルだった。地雷のあった場所と、二人がいた場所との距離の差だ。俺は地雷に遠い方の人間を選んだ」
「……お前が簡単に割り切れないのはわかる。だが、一人の命を救えたのは確かな事実だ。それを――」
「違う、違うんだパール」
こんな愚かな俺に、まだ師匠は慰みの言葉をかけてくれた。だが、俺はそれを遮るしかなかった。どうあがいても割り切る事ができない事実があったから。
「俺は間違ってしまったんだ。助けちまったのは先の短い、呆けた爺さんだった」
「ッ……!」
「俺は、俺は取り返しのつかない過ちを……!」
言葉が詰まる。何も言えなくなる。
話を聞いていたパールの赤く火照った肌は、いつの間にか元の色に戻っていた。それどころか青ざめたようにも見える。部屋の中は苦しい静寂に包まれていた。
いつぞやに、サコンに胸倉を掴まれた時の事を思い出す。過ちをこれでもかと突きつけられた俺が言い放った言葉は、今でも覚えていた。
人の命はいつだって平等だ。
何よりもそれは自分自身に言い聞かせた言葉だった。その言葉で、自分が取った行動を正当化しようとした。平等だから、より助かる確率の高い人の命を優先したと。子供の命より呆けた老人の命を優先したと……。
暗闇は見たくないものまで映し出す。浅いようでどこまでも深い微睡の中で、俺はずっと犠牲になった子供の無残な姿を見つめていた。草木の生えない枯れ果てた大地と、辺りに広がる陽炎の中で、ずっと。
「教えてくれ、パール。あの時俺はどうすればよかった? どっちを助ければよかったんだ!? 考えても考えても、後悔だけが頭にこびりつく。目を瞑れば、血を流した子供が俺をじっと見つめてくるんだ。憎しみと悲しみの混じった瞳で、俺を睨んでくるんだ……」
俺は床に跪き、縋るように師匠を見上げた。頼みの綱は師匠しかなかった。
「お願いだ、パール。俺に幻滅したと言ってくれ、人殺しだと言ってくれ! 何でもいいから、頼むよ……!」
最も信頼の置ける人からの言葉なら、ようやく自分の愚かさを理解できるかもしれない。そう、真っ向から否定する言葉を並べられたほうがいっそ気が楽になるのかもしれないと、その時俺は思っていた。
けれど、師匠から告げられた言葉はそれらよりさらに酷なものだった。優しくも儚いパールの眼差しは俺にとって、きついくらい冷淡なものに感じさせたのだ。
「お前にかける言葉はないよ、レン」
「パール……!」
「いくら私が慰みや侮蔑の言葉をよこしたところで、事実は何も変わらない。事実から逃れる事はできない」
「俺はやっぱり、人殺しっていう事か!?」
「……そうだ」
衝撃が走った。
人殺しを肯定する、肯定される。想像以上にその行為は重かった。
早いタイミングでパールが話を続けてくれたのが、何よりの幸いだった。
「ただ、お前の取った行動を人殺しと呼ぶのは相応しくない。お前の言葉を借りるなら、人の命を秤にかけたと言う方が正しい」
犠牲を何よりも嫌うパール。それでも出来損ないの弟子が取った行動を責める事はなかった。その代わりに、俺の両肩を握って正面を向かせられた。彼女の澄んだ瞳の奥には、一人の弱々しい男の姿が映し出されていた。
「レン、お前の抱えるジレンマに答えがあるわけじゃない。答えなどあってはいけない。後悔に揉まれて苛まれて、人は生きていくんだよ」
俺の両肩を握る手に、いっそう強い力が込められる。
「ならば、その後悔を絶対に忘れるな。業を背負って生き続けろ、自分の犯した罪と向き合いながら」
一人の人間を救えなかったという罪。俺がどちらの命を救うかを選択した時点で、その罪を抱えるのは必然だった。唐突な選択だったとはいえ、それは避けられない事態だった。
パールの言う通り、このジレンマに答えなんかあってはいけない。秤にかけた命を両方救う事なんかできやしないのだ。
微睡の中で伏す子供を記憶から消し去る事はできないだろう。ならばいっそ、深い傷跡として刻みこめばいい。その傷は癒えないけれど、痛みを風化させないでおける。
「私がいない間、ずっと一人で悩んでいたんだな」
パールの優しさに満ちた声で、今までの強がりな自分を捨て去る事ができた。強がりで臆病な自分と、心の奥底で泣きじゃくっていた自分が交錯する。力が抜けて自然に俯いた姿勢で、俺はそのまま頭を縦に振った。何度も何度も。声にならない声が味気ない部屋に溶けていった。
「よく話してくれた。辛かっただろう?」
俺はただただ頷いた。目頭にこみ上げる熱いものを必死にこらえながら、泣き虫な子供のように。肩に触れる師匠の手の温もりと共に、癒えてはいけない傷が俺の心に刻み込まれていった。




