7-9 前兆
翌日の朝、俺はいつもより早い朝を迎えていた。七時ちょうどにアラームが鳴る前に、自然と目を覚ますいつもより早くだ。今日は少しだけ特別な日だというのを、俺の身体と脳みそが覚えていてくれたらしい。体温も至って平常。体調も万全だ。
パールの地雷撤去はいつも、朝一番に行われる。サヘランの気候はいわゆる砂漠気候というやつで、日中の気温が四〇度を超える事が多く、また、深夜から早朝にかけては放射冷却のせいで一〇度付近まで下がってしまうのだ。だからパールは、比較的涼しいと感じられる朝の八時から九時にかけての時間帯に仕事を行う。まぁ彼女の場合、地雷撤去以外の仕事もあるからその時間があらゆる点でベストなのだろう。
それを他の連中も知っているからこそ、今朝の食堂の雰囲気は実にクールで紳士的だった。いつもはくたびれた恰好、締まらない動作でマザー・トードの料理を口に運ぶ奴らが、ビジネスホテルの朝食バイキングに慣れない新社会人のように、良い意味で気を使っているのだ。彼らの実態を知っている俺にとっては滑稽にも見えるが、同時に感じられるのが、彼らにとってもまた今日という日は特別な一日だという事だ。
かくいう俺も、いつにも増して食事に気を使っている事に気がつく。芳醇なパンと杏子ジャムの織りなす味わい、咀嚼の回数、湯気の立つコンソメスープを口に注ぐタイミング。全てに意識する事で、自らを静かに奮い立たせている。実際に作業に向かう時間は師匠の後だというのに。
部屋に戻って顔を洗い、歯を磨いて鏡の中を己を見遣る。髭の剃り落しがないかよく確認し、普段使う事のない整髪料なんぞに手を伸ばして、ボサボサの髪の毛をいくらか整えていく。アイビーグリーンの作業着に袖を通し、サヘランの乾ききった大地で履き古した頑丈なブーツを身につけた自分自身の姿は、なかなか上等にきまっている。
これで黒いアタッシュケースを手に持てば、俺も立派な地雷掃除人というわけだ。まぁ、一人一人の作業着、撤去道具が全くの別物なので、一概に判断するのは難しいと思うが。
「んお? レン、今日はサボりじゃないのか?」
部屋の中にいたポォムゥが不思議そうに首を傾げる。いちいちツッコむのも面倒なので、俺は手短に言葉を返した。
「気が変わった。パールの後に俺も続く。ポォムゥ、お前も準備しとけよ」
「んお!? レンが仕事に積極的なんておかしいぞ! 風邪でもひいたのか!?」
「うっせぇ。俺の気が変わらんうちに、さっさとついてこい」
「んお! わかったぞ!」
外はまだ放射冷却の影響で気温は涼しかった。ただ、照りつける陽光が時間を刻むごとに強くなるのを肌で感じる。不要な汗はかきたくないので、俺はポォムゥと共に足早に目的地へと足を運んだ。拠点である石油採掘場の周りを囲む小高い丘を登ると、そこには既に顔馴染のメンバーが居合わせていた。ジョウ、コンラッド、ウルフ、ケイスケ、サコンのジジイにその他の掃除人が、俺と同じく準備万端、いつでも仕事に取りかかれるという感じで『必死地帯』を望んでいる。
各々がいつもと違う感じで、強いて言うならコンディションを無理矢理上げてきたようにも見える。サコンの被るハンチング帽の角度がちょっとばかしお洒落に傾いていたり、朝に弱いコンラッドの顔の血色が良かったりと、些細ではあるがそれぞれの様式をバッチリきめ込んできたのが伝わってくる。ジョウだけは普段と変わらない腑抜けた面をしていたが。
そこから少し離れたところに設営された簡易テントの隣には、これまたチープなビニールシートが敷かれており、その上には紺色の髪の新人が座っていた。ブカブカのテンガロンハットを被り、首には双眼鏡をぶら下げている。
「おいおい、ピクニックじゃねぇんだから……」
俺がそう言うと新人は一度俺を睨みつけ、再び『必死地帯』に目をやる。
「見学の邪魔はしないでよね。パールさんの勇姿をこの目で見られるなんて経験、これっきりかもしれないんだから」
「そんなに貴重なもんか? ド派手なのは否定しないが、別に珍しくもないだろ、パールの作業風景は」
「そうね、あんたになんかわかるはずはないわよね。パールさんに金魚のフンのようにつきまとってきたあんたなんかに」
「口を慎め。それが年上の男に向かって使う言葉かよ」
俺が寛容な男でなければ、言い争いになりかねないレベルの口撃を新人のテッサから受ける。ロジックも何もあったもんじゃない、八つ当たりに近い罵り方だ。離れた場所で師匠の施しを受けられるものか。それに今更、そんな昔の事を掘り返されたってどうしようもない。あれは俺が現在のジョウと同じくらいの年齢――二十歳になるかならないかの話だ。
テッサは独り言のようにグチグチと呟く。背後に立つ俺に聞こえるくらいの大きさで。
「まさかあの清純なパールさんに、こんなお邪魔虫がまとわりついていたなんてね。パールさんのことを勝手に師匠呼ばわりなんかしちゃってさ。汚らわしいわ、まったく……」
俺は昨日の出来事を思い出す。テッサが皇女の修理を手掛けている最中に、パールと一緒にそこへ赴いた時の事を。あの時テッサはパールを見るなり、泡を食ってパニック状態に陥っていた。リアクション的には及第点といったところだが、それは置いといて、パールが途中で抜ける時に何か言ってたな。「私も女子寮に泊まるから、遊びに来てもいい」みたいな事を、羨望の眼差しで彼女を見つめるテッサに向かって。
今現在のテッサのぼやきを聞く限り、こいつ本当にパールの部屋に行ったって事か? だとしたらあきれて物も言えない。リップサービスも知らんとは全く恐れ入るぜ。こんなバカな新人を受け入れる師匠も師匠だ。甘やかすとそのうち痛い目に遭うぞと言ってやりたい。
よりによってパールから昔の俺の話を聞いたのならばつが悪い。俺はこれ以上テッサと会話するのをやめた。踵を返そうとすると、三脚を組み立てるモジャモジャ頭が目に入る。テッサのパートナー(なのかどうかは微妙だが)のラッシだった。ラッシは俺に気づくと立ち上がり、その何とも頼りない糸目を向けて力強く胸を叩いた。
「撮影は自分に任せるであります!」
「んなのどうだっていいから、お前もこのじゃじゃ馬を良いように教育してくれ」
「自分がテッサ殿を!? とんでもございません! むしろ自分は教育される身分であります!」
「聞いた俺がバカだったよ……」
良いように教育されていたのは、どうやらラッシのほうらしい。どいつもこいつも女の尻に敷かれやがって……と、そこまで思考して俺はそれ以上の事を考えるのをやめた。自分自身に跳ね返ってくる皮肉は好まない。
俺は隣の簡易テントで涼むべく、テッサとラッシがいる場所を後にした。
簡易テントの中にいる連中は大体見当がつく。日に焼けるのを好ましく思わない奴等だ。その証拠に、テントの中にはフローラルやら何やらの、ともかく雄を刺激する甘ったるい匂いが充満している。
「あら、レンではありませんか。お早うございます」
「ここは男子禁制よ。いくらあんたが女々しくても入る事は許されない秘密の園」
「ここが秘密の園だってんなら、こんな荒野のど真ん中に作らないでほしかったね」
「いいじゃない。さしずめ私たちは、荒れ果てた大地に咲く色とりどりの花々……。ロウファ、素敵だと思わない?」
「はい、素晴らしいと思います。ズィーゼさん」
テントの中ではオペレーターの女性陣がその場所を占拠していた。俺のパートナーであるルゥを筆頭に、ジョウと組んでいるズィーゼ、ウルフと組んでいるロウファ、その他諸々の女性たちが椅子に座って談笑をしていた。心なしか俺を見つめる視線が冷ややかだ。
普段から外に出たがらない彼女たちがこうしているのは、やはりパールの活躍を生で見たいという理由が全てだろう。俺の師匠は同性にも人気がある。いや、どちらかというと同性の人気のほうが上かもしれない。そういう得も言われぬ母性があると言っておこう。
ただ、その母性溢れる師匠の姿が周囲を見回しても見えなかった。
「パールの姿が見えないが?」
「彼女は先ほどまでここにいらしたのですが、現在はエリーの車の中で待機中です。気を静めてくるとおっしゃっていましたわ」
「気を静める……ね」
あえて集中するとは言わないのが俺の師匠らしい。集中は一点の事柄のみしか捉える事ができない故、地雷撤去の際には気をつけるよう口を酸っぱくして言われている。それを忠実に守っているからこそ、俺がここまでやってこれているのは言うまでもない。
パールがいなけりゃこの場所も用無しだが、日除けには最も適している。わざわざ外に出て日光に晒されるのは正直嫌だ。どうやってこの場所に留まっておくかを考えていると、ズィーゼがやけに俺をじっと見つめている事に気がつく。
「……何だよ?」
「レン。あんた今日どうしたの? やけにキマッてるじゃない。ここにいる誰かをデートにでも誘うつもり?」
人を嘲笑うかのような小さな悲鳴がそこかしこから聞こえてくる。せめてひそひそ話は見ていない所でやってほしいものだ。というか、どうしてこう女って生き物は変に勘が鋭いんだ? そんなに普段の俺は腑抜けた面をしているというのか。
返答に困って渋い顔をしていると、ロウファが俺に顔を背けるようにして呟いた。
「……不潔」
「仕事の前だというのに、随分と余裕なものですわね」
「勝手に話を盛るんじゃねぇよ。働く男ってのはかっこよく見えるもんだろ」
ロウファだけでなく、ルゥにも冷ややかな態度を取られてしまったので、俺は差障りのない言葉を返した。彼女らの感情を逆撫でしても、言われるがままのなあなあな態度を取っても、どちらも俺にとっては悪い方にはたらくと直感したからだ。
ただ、それ以上の言葉が出てこなかったものだから、俺は所在なく視線を宙に泳がせる羽目になった。すると、俺の背後にいたポォムゥからややくぐもった声が聞こえてきた。
『なかなか言うようになったじゃないか、レン』
驚いてポォムゥを見ると、ブルーの瞳が緑色になっていた。緑色の瞳は通信中であることを示す。すなわち今ポォムゥの口から発せられた音声は、通信中の相手のものだ。
突然の出来事だったため、俺は次に出る言葉を黙って待っていると、さきほどと同じ音声が疑問形で発せられる。
『ポォムゥの通信機能を使っているんだが、ちゃんと聞こえているか?』
「通信か……。驚かせないでくれよ、パール」
『そのつもりはなかったんだがな』
音声の主はパールで、しかしながら目の前にいるのはポォムゥなものだから、俺は奇妙な感覚を拭えずにいた。さらにその違和感は次に出る音声によって一気に引き上げられる。
『あらぁ、レンちゃん。今日は何だか一段とイイ男じゃない♪』
今度はパールの声じゃない、気色悪いオカマの声がポォムゥの口から発せられた。これには周りにいたオペレーター達も動揺していた。ルゥが何ともいえない苦い顔をしてぽつりと呟く。
「ポォムゥで通信していると、奇妙な感覚に襲われますわね」
「奇遇だな。俺もそう思っていたところだ」
『ん? どうした?』
「いや、通信中にポォムゥが連動して口を動かしているんだがな、その口からパールとエリーの声が連続で聞こえるもんだから」
『……実にシュールだな、それは』
同じ場所から異なる声が聞こえるこの光景をパールも想像したのだろう、その声には確かに納得する彼女の気持ちがこもっていた。シュールな要因は、九割くらいオカマのエリーのせいだけど。
『まぁいい。それよりそろそろ始めようと思うから、周りの仲間にも伝えておいてくれ』
「ああ、わかった」
『久しぶりのお仕事だものね。この私が彼女をポイントまでエスコートしてあげるから、レンちゃんは嫉妬しちゃダメよ?』
「はいはい。さっさと出発してくれ」
そこで通信は切れ、ポォムゥが「んお!」と言って瞳を元のブルーに変えた。俺はパールに言われた通り、他の連中に事が始まるのを伝えに簡易テントを後にした。