2-1 現実という名の悪夢
「それでね、隣のおばさまがラズベリーパイを焼いたから、ぜひオズちゃんに食べさせてあげてって言うのよ」
「本当? ドリーおばさんが作るパイはどれもおいしいから、すごく嬉しいな。でも、今はちょっと遠慮しておくよ。ママのおいしい手料理をたくさん食べちゃったから、さ。これ以上食べると、さすがに太っちゃうよ」
壁の向こうから談笑する声が聞こえてきた。なんてことないやりとりだったが、寝起きの悪い俺にしては珍しく、それは割とすんなり耳の中に入ってきた。
「いいじゃない食べ盛りなんだから。たんと食べて、パパみたいな立派なお医者様になってちょうだいな」
「じゃあ、お昼ごはんの時に行くよ。それならママも、お昼を作る手間が省けるでしょ?」
「まぁ、オズちゃんったら本当頭が良いわね。それじゃあお言葉に甘えて、そうしちゃおうかしら」
まるでホームドラマのワンシーン――いや、それよりもっと出来の悪い台本のような会話が続く。今時こんな家庭があるもんかと思うかもしれないが、世界ってのは狭いもんだ。俺はその家族の事をよく知っている。
「なんだったら、ショッピングにでも行くといいよ。ママも日頃の疲れがあると思うし、たまには羽を休めてきたら?」
「まぁまぁまぁ! この子は本当に気が利く孝行息子だこと! ……あら、おはよう」
「おはよう、兄さん」
「んっ」
なぜなら、俺もその家族の一員だからだ。
弟に対する態度とは対照的に、俺は母親に素っ気ない挨拶で返されただけだった。もちろん、あんなに暑苦しくて胸焼けしそうな振舞いをされても困るわけだが。俺は俺で、声なのか声じゃないのか微妙なラインの、ただ喉を震わせただけの挨拶を返した。
テーブルに並んだ色とりどりの料理は、その全てが向かいに座っている弟のために作られたもので、俺はその余りをいただくだけだ。料理が置かれていたであろう、少しドレッシングのついた皿を自分の所へやり、片づけられる前にせかせかと冷めた料理をよそう。
「さ~て、そうと決まれば早速お化粧しなくっちゃ! オズちゃんは今日もいっぱいお勉強するのよ」
「わかったよ、ママ」
母親が機嫌良く自室へ足を運ぶのを横目に、俺はテーブルに身を乗り出し、小声で弟に話しかけた。
「……なに、あいつ今日出かけるの?」
「出かけさせた。少しうまいこと言ったら、すぐに乗っかってくれたよ。感謝してよね、兄さん?」
さっきまでの行儀の良い孝行息子はどこへ行ったのか、と思わせる台詞が返ってきた。何を隠そう、涼しい顔して紅茶を飲むこいつこそが、まさしく俺の弟だ。どうかこいつを二重人格者だとは思わないでほしい。彼は至って正常だ。
「まったく、政治家もビビる程の悪党ぶりだな。お前って奴は」
「悪党だなんて人聞きの悪い。僕はいつだって気が利く孝行息子だよ、違うかい?」
立ち回りが上手い、と言えば伝わるだろうか。オズはあらゆる事に対する正解を自分の中に持っていて、それを正しく実行できる人間なのだ。人の言いたいことをすばやく理解し、吸収していくのはもちろん、突発的なアクシデントにも臨機応変に対応できる……。そういう星の下に生まれてきた奴なのだと、俺はそういうことにしている。
「違いねぇ。……ということは、今日はハッピーな一日ってことか?」
「ま、少なくとも帰りは、午後のティータイム以降になるんじゃないかい? あとは、ご友人の方々がハーブティー一杯で、どれだけ世間話に花を咲かせるかって感じ。その部分は神のみぞ知るってところかなぁ」
「ほぉ。つまりそれは、兄弟水入らずで先週発売されたばかりのゲームに打ち込めるってことだな?」
「そうなんだよね。それが今、この世で一番優先されるべき事柄だよ!」
オズは憎めない笑顔で答えた。父親に英才教育を施されながらも、性格はどこにでもいるような普通の少年のそれそのもの。嫌味な部分がひとかけらも感じられないのは、奇跡としか言いようがない。ぐうの音も出ないってのはこいつのためにあるような言葉だ。
「おやおや、お医者様志望のオズちゃんが、テレビゲームなんてくだらない娯楽に手を染めちまっていいのかい?」
「茶化さないでよ、兄さん。誰にだって休息は必要さ。神様だって、七日のうちの一日分休みを取ってるんだから、誰にも文句を言われる筋合いはないよ」
「わかってる。何にせよ、お前のやる事の手際と効率の良さは父親譲りだ。俺なんか足元にも及ばねぇよ」
「何言ってんだよ。実際に血が繋がってるのは兄さんのほうだろ?」
何も知らない人間が聞けば、オズが言った言葉に少し驚くかもしれない。しかしそれは紛れもない事実で、実の息子の馬鹿っぷりに愛想を尽かした父親が、しびれを切らして養子を迎え入れたというのが、うちの家庭事情である。
その実の息子というのが、俺だ。
「俺が継いだのはどうしようもないトコだ。ホクロの位置と足の臭さ」
「言えてる。それじゃ僕は、ママの化粧が終わるまで部屋で本でも読んでおくかな。――あ、そうだ兄さん」
「何だ?」
「後でドリーおばさんのパイもらう事になったからさ、あれ、兄さんが食べなよ。僕には少し、くど過ぎてさ……」
「お前のために作ってんだろ? あのばーさんは。その好意を無駄にしちまっていいのかい?」
「そこを何とか、ね? 僕はママのケーキを胃がもたれるほど食べたから」
オズはお腹をさする動作をして、これから遅い朝食を取る俺にお願いした。別に甘いものは好きでも嫌いでもないが、特に断る理由もないので、朝食としては脂っこい肉料理を頬張りながら、俺はそれを了承した。
「わーかったよ。お望み通り、しこたま食ってやるさ」
「サンキュ」
今思うと、俺に甘いものが与えられないのを知っていて、オズはわざわざ理由をつけて、俺にそれを食べさせようとしていたのかもしれない。
あまりにも知りすぎているこの光景が夢だと気づいたのは、眠りから覚めた直後だった。薄暗い天井を見上げた先には、まだオズの残像が意識の底に残っていた。随分と久しぶりに、家族の夢なんか見た気がする。良い思い出なんか、思い出そうとしても出て来やしないのに。
『貴様ァ! なぜ助けなかった!? なぜ見殺しにした!? なぜ……う……ぐ……。返せぇ! 俺の息子を返せぇ! 返せよぉ! 返せっ……! 殺してやる!』
先日の思い出したくもない出来事が急に頭に浮かび、俺はひどく後悔した。目を瞑った暗闇の世界の中、意識がまどろみ、再び眠りに入ろうとするその瞬間までずっと、その言葉だけが鳴り響いて止まなかった。