6-3 トレーニングルームにて
世間一般的によく言われるストレスというやつは、その人にとってはすごく悩ましいものだ。嫌いな上司に押しつけられる責任、好きな子とうまく話せないもどかしさ――。そういったものが心に絡みつき、食事や睡眠といった日常的な行動にも支障を来たす。だが、この際だからはっきり言っておくと、そういうストレスの程度はたかが知れている。他人からしたら本当にどうでもいい事で、俺達は日々頭を抱えているのだ。
そういう時はリラックスできる時間、頭の中をからっぽにする事が大切なのだが、なかなかどうしてこれが難しい。人間てのは、それほど簡単な造りでできているわけじゃなさそうだ。
だが、軽めのストレスならば、効率よく発散できる方法を俺は知っている。そして現在進行形で、それをやっている最中だ。バーベルを乗せた僧帽筋を中心に、負荷をかけた筋肉が悲鳴を上げながら伸縮しているのがわかる。疲労物質が体全体を駆け巡り、ぎりぎり心地良いと思える苦痛が、汗となって肌から湧き出てくる。
「はち……きゅう……じゅううぅ!」
俗に言う筋トレというやつだ。声をひり出してバーベルスクワットをしている今の俺に、それ以外の事を考えている余裕などはない。全身に生じる筋肉的疲労が、精神的ストレスを掻き消してしまうのだ。個人差はあるだろうが、身体も鍛えられるから、気分が乗らないときは筋トレする事を推しておく。夜中の静まり返ったトレーニングルームとあって、体力作りもいい感じに捗るのだ。
一一〇キロもある器具を元の場所に戻した頃には、すっかり俺は疲弊しまくっていた。上がりに上がった脈拍を落ち着かせようと、近くにあったベンチに腰を下ろす。
「きっつ……! やっぱいきなり一〇キロは上げ過ぎたか……」
「どうした、レン? 今日は一段と気合が入っているな」
そう微笑みながら、二〇キロのダンベルを涼しい顔で持ち上げる男がいた。静かなトレーニングルームには、俺の他にもう一人が筋トレに励んでいた。彼の名はウルムナフ・コーガン。仲間内では彼をウルフと呼んでいる。
銀髪で口数は少ないが、俺にとって信頼できる人間の一人でもある。細身の体型ながらも、ロシアの特殊任務部隊スぺツナズでの活動を経て、現在は俺達と行動を共にしている。兵士ではない俺達の代わりに先行して、安全をサポートする一員だ。
見るからに不言実行タイプの人間で、こうして一緒に黙々とトレーニングをする分には、打って付けの存在だ。意識の高い奴がいるだけで、モチベーションを保つのにも苦労しないで済む。そいつが職場にいるだけで、周りの人間もピシッとした雰囲気になる現象ってあるだろう? まさにウルフがそれだ。
「まぁな。『必死地帯』の件以来、まともなトレーニングができていなかったし、少しは張り切らねぇと」
「負荷はかけ過ぎるなよ。腰痛の原因になる」
「おいおい、ウルフまでそれを言うか? いらん心配だってのに」
「ん、何かあったのか?」
既定のセット数を消化し終えたのか、ウルフは手を休めて俺に訊ねた。
「いや、昼間にエリーのベッドを運んでいる時に、サコンのジジイが腰を痛めてな。それでビー・ジェイのとこに連れてったら、『お前もいずれやらかした時にわかるさ』なんて抜かしやがって」
「それだけ信頼されてるんだよ、お前は」
「信頼ぃ?」
俺は大袈裟に聞き返した。ウルフは目を合わせず淡々と話す。
「地雷掃除人の看板を背負う人間が、そう易々と怪我をされては困るって事さ」
「は、そんな看板背負いたかねぇよ」
「素直に自分の能力を認めない所が、お前らしいと言えばらしいがな」
軽い嘆息の後、ウルフは俺のほうを向いて話を続けた。
「ただ、この前の作戦で、皆の意見が合致したようにも思える。今後、地雷掃除人を率いていくのは、レン、やはりお前しかいないという事に」
「やめろよ。先頭だけはごめんだね。俺には二番か三番手くらいがちょうどいいし、性に合ってる。トップはサコンのジジイにでもやらせておけばいい」
「なぜそれほどまでに、自分を卑下する必要がある? 確かにお前は口が悪くて捻くれてはいるが、その実力は皆が認めているんだぞ?」
子どもの頃、自分は勉強ができない落ちこぼれだった事を思い出す。植えつけられた劣等感、決めつけられた立ち位置。今思えば、当時の事柄が俺の性格を、こんなにも捻じ曲げさせたのかもしれない。
確かに能力のある人間がリーダーシップを取れば、士気が上がって良い成果をもたらすと思う。他の掃除人よりも、俺のほうが頑張っているという自覚も少しはある。だが、俺の中にある幼稚な劣等感がそれを拒んだ。今がそれなりに上手くいっているんだから、それでいいじゃないかと思う自分に逆らえなかった。
だから、真面目な態度で話すウルフとは逆に、俺がおどけたように短絡的な言葉をくれてやるのは必然だった。
「うっせー。嫌なものは嫌なんだよ。捻くれ者で悪かったな」
「……つくづく強情な奴だよ、お前は」
強情なのはおそらく生まれつきだ。ウルフの呆れた声に俺は肩をすくめた。
結構筋トレをしているつもりなんだが、どうにもこの捻くれた性格ばかりは治らんものだな……。まだまだ修行が足りないって事か。頬を両手で叩き、気合を入れ直す。インターバルも取ったし、もうひと踏ん張りするかと腰を上げたところで、トレーニングルームの扉が開いた。
「ウルフ、やっぱりここにいたのね」
やけに耳触りの良い声音だと思ったら、そこに立っていたのは一人の女性だった。サイドテールの髪を揺らして、俺たちの方へと近づいてくる。彼女の名はロウファ、ウルフの任務を補佐するオペレーターだ。比較的タイトな制服も着こなす、アジア人らしい中性的な顔立ちをした女性である。
「あ、レンもいる。ちょうどよかった、手伝ってほしい事があるんだけど」
ロウファはついでとばかりに俺の事も呼んだ。こいつとは顔見知り程度の仲なのだが、彼女はウルフに好意を抱いているらしく、会う度にその事について俺が茶茶を入れてやっている。だが、今回はそれとは別に用があるようだった。
「はぁ? 面倒くさいのは無しだぞ」
「うん、すぐ済むとは思うんだけど……」
「それで、用件は何だ?」
ウルフはいつもの淡々とした調子でロウファに訊ねた。他人のプライベートに口を出すのは趣味じゃないが、もうちょっとこいつはこう、俺と話す時みたいなドライな感じじゃなくて、少し優しめな喋り方ができないものか。この鈍感狼め。
「テッサが、昨日の夜から女子寮に帰ってきていないみたいなの」
「なにぃ?」
テッサというのは、最近S・Sにきた新人である。ロウファの言うようにテッサは女で、女というか背もちっこい少女なのだが、その性格は実に凶暴なものだ。俺に二度も金的を食らわそうとしたのは記憶に新しい。一度は不発だったから良いようなものの、思い出すだけでも身震いものだ。
そのテッサが、女子寮から帰ってきていないらしい。夜遊びでもしてんじゃねぇの、と俺がからかう前に、ロウファは困ったように眉根を寄せた。
「彼女がいそうな場所の検討はついているの。だけど……」
「だけど?」
ウルフに聞き返されたロウファは、言葉を詰まらせ、何か言うのをためらっているように見えた。彼女の逡巡の理由はすぐにピンときた。俺って奴は、こういうのだけは覚えているんだよな。
「はは~ん。さてはロウファ、お前夜道を歩くのが怖いんだろ?」
「~~ッ!」
「何で覚えてんのよ!」という言葉が、ロウファの喉元まで出かけていたが、彼女はサイドテールをぶんぶんと振るといったジェスチャーだけに留めた。好きな男の前では、慎ましやかな女性でありたいとも、確かこの前話してたな。俺は追い討ちをかけるように、ロウファに言ってやった。
「今時おばけを信じる人間がいるかよ? スリラーでも口遊んどけばいいんだ。おばけどころか男も近づかねぇよ」
噛みつかんとばかりにロウファが俺を睨むなか、隣にいたウルフが真顔で訊ねた。
「ロウファは幽霊を信じているのか?」
「そ、そういうわけじゃないの! ただ昨日見た映画が、たまたまちょっと怖かっただけで、その……」
しどろもどろになって前髪を触るロウファに、ウルフは続けざまにこう伝えた。
「幽霊よりも、武器を持った人間のほうが怖いぞ。よっぽどな」
「お前が言うとリアル過ぎるからやめろ」
これには俺もツッコみを入れざるをえなかった。