5-16 眠れ良い子よ
満身創痍で小高い丘を登ると、その先は丸い窪みができており、その窪みにすっぽりと埋まるような形で石油採掘場が配置されていた。なるほど、確かに出入口らしきものは東側の一カ所しか見当たらない。わざわざ『必死地帯』を横断してくる大馬鹿野郎が、こそこそ潜入するとは夢にも思わないだろう。
肉眼で遠くを見渡す事は到底できないが、今、俺は『土竜眼』を着けている。おかげで二〇〇メートル以上離れた人影を確認する事ができた。石油を採掘するクレーンのような機械の傍に、見張り台らしきものが立っている。そこに動く熱原体――おそらくサヘランの兵士を一名発見した。
『よし、まずは手筈通り、有刺鉄線の傍まで接近してくれ。西側まで迂回すれば、そこまで巡回する兵士はいない』
「本当だろうな?」
『間違いない。俺が念入りに周辺を調査したからな。だが、万が一という可能性もある。できるだけ物音を立てずに進んでくれ』
「わかった」
ウルフに言われた通り、俺は採掘場の西側まで迂回して、そこから慎重に採掘場へ向かう事にした。緩い下りの傾斜になっているため、少し不恰好だが尻をついてゆっくりと進まなければならない。確かに人の姿は見えないが、近くに人がいるという緊張感が体を強張らせた。
丘の麓まで何とか降りた後、近くにあった茂みに身を隠し、周りを見渡した。
『レン、二時の方向に一名いるぞ』
耳から伝わるウルフの声。言われた方向を見るが、一見何も捉える事ができない。目を凝らしてよく見ると、停まっているジープの足元に、動く白い物体が見えた。それは間違いなく人の足だ。『土竜眼』を通して俺より速く兵士を察知するとは、ウルフの名は伊達ではないようだ。
「どうすればいい?」
『しばらくはそこでやり過ごすんだ。少し経てばあいつは東側へ行く。その時を待て』
いくら茂みに身を潜め、兵士が五十メートル程離れた場所にいるとはいえ、その緊張感は並大抵のものではなかった。『必死地帯』で味わうものとは似て非なる、自分の傍に死があるというストレス。平常心を保つのにも一苦労だ。
程なくして、兵士が反対を向いて歩いていくのを確認した後、俺は腰を下げた状態で有刺鉄線が敷かれる場所まで移動した。有刺鉄線は四メートル程の高さまで敷かれていて、地面と水平に何十本と張り巡らされている。自力で渡るには一筋縄ではいかないだろう。
『その辺りに、簡単に解けるポイントがあるはずだ』
俺は試しに一番下の鉄線を揺らしてみたが、ただぶらぶらと揺れるだけで解ける事はなかった。二歩ずつ横に移動しては同じ事を繰り返す。こんな単純作業でも、誰かに見つかったらと思うと気が気じゃなかった。十分もかからずに解けるポイントを発見できたのは、
俺の精神状態を鑑みても本当に幸いだった。
大の大人一人が、匍匐前進の体勢でようやく入り込めるスペース。有刺鉄線を解いてできたスペースはそれっぽっちだった。気に入っている作業着が汚れるのは不本意だが、そうは言っていられない。背中の生地を引っ掛けないように、俺は細心の注意を払って潜り抜けた。
ここからが正真正銘の本番だ。外灯が照らされている場所からなるべく遠ざかり、俺はウルフに指示を仰いだ。
「ふぅ……。潜入ってのもなかなかしんどいもんだな」
『泣き言を言うのはまだ早いぞ、レン。『必死地帯』を抜けてまだ間もないが、あともうひと踏ん張りだ。何とか持ち堪えてくれ』
「わかってる。それで、次は何をすれば?」
『催眠ガスとマスクは持っているな?』
それらは事前にウルフに手渡されていたものだった。俺は当日忘れる事のないように、催眠ガスは作業着のポケットに、マスクは腰に備え付けておいたのだ。
「あぁ」
『寄宿舎の通気口は、建物の下に配置されている。そこに催眠ガスを注入すればいい。通気口は全部で八カ所ある。細いノズルを使って、全ての通気口に催眠ガスを流すんだ。それと、間違ってもマスクをつけ忘れるなよ?』
「そんなに強力なのか?」
『十八時間は強制的に眠ってもらうほどだ』
「それはおっかねぇ。だが、巡回している兵士はどうする? 気配を消して背後に回るなんて芸当、俺にはできないぜ?」
『そんな事をしなくても大丈夫だ。交替する時に、兵士が寄宿舎の扉を開けばそれで事足りる。兵士が交替するのは二時間おき。時刻にきっかり合わせている』
「今の時刻は?」
『午前一時二十七分だ。二時を過ぎたら少し面倒な事になる。だがレン、決して無茶はするな』
「誰がするかよと言いたいところだが……。正直、体力もそろそろ限界だしな。ちゃっちゃと終わらせてやるさ。サポート頼むぜ?」
『任せてくれ』
*
俺は大外から反時計回りで回り込むようにして進み、立ち並ぶ倉庫の間の影に身を潜めた。広い通路を見渡すと、前方に兵士が一名、ある建物の奥を横切ってその裏を歩いていくのが見えた。
『レン。今、兵士が通り過ぎたのが見えたか?』
「あぁ。見えたが、それがどうした?」
『その兵士が巡回している建物が寄宿舎だ』
その建物は屋根が低い一階建てのものだった。赤みがかった土壁が印象的な建物だ。さらに奥にある、石油採掘に用いる無機質な機械とは対照的な色合いで、遠目からでもわかりやすかった。
『兵士たちは東側の出入口周辺を重点的に警備している。変な物音を立てなければ、まずこちら側には来ない。ここからは慎重にな……』
俺は一旦倉庫の奥側へと戻り、倉庫と平行に駐車しているトラックで身を潜めた。通路から少しはみ出だして駐車されており、隠れて進むのにはもってこいという感じだ。周囲、特に前方に兵士がいない事を確認して、俺は壁伝いで素早く反対側の建物の影へと移動した。そしてゆっくりと影から道を覗くと、先程の兵士と思われる人間の姿が見えた。近くには外灯があり、迂闊には進めない。
『急ぐなよ、しばらくすれば向こうへ行く』
「了解……」
意外なほど俺は冷静だった。もしこれが仮想空間、ゲームの中の出来事だったら、兵士がいようがいまいが俺は寄宿舎まで突っ走っているはずだ。そんな愚行をせず、お手本プレイのように慎重に進む自分が可笑しくて、心に余裕さえできていたのだ。
兵士が遠のいていくのを見届けると同時に、腰を低くした状態でゆっくりと寄宿舎に近づく。外灯で照らされない場所まで忍び足で進み、寄宿舎の赤みがかった壁に背をつけてもたれかかった。まだ作戦は終わっていないが、終わりが見えるところまできた。下半身の疲労は溜まり、体を労りたいところではあるが、俺は数回深呼吸して一段と気を引き締めた。
「ふぅ……。何とかここまできたぜ」
『よし、では速やかに通気口から催眠ガスを流し込むんだ』
俺は『土竜眼』を外し、慣れない手つきでガスマスクをつけた。一本の髪の毛が留め金に巻き込まれちまったが、この際贅沢は言っていられない。作業着のポケットから催眠ガスを取り出す。そして足元にある通気口にノズルを入れ込んで、ガスを注入していく。残りの通気口の事も考え、俺の体内時計で各通気口に十秒流し込む事にした。