5-15 突破も束の間
『……ッ! ……ッ!』
耳の中がやかましい。俺は疲れてるんだ。少し休ませてくれ。
『レン、……て! 目を……ッ!』
耳を塞いでも、直接頭の中に入り込む声。鬱陶しい。頼むから寝かせてくれよ。
だってほら、全身筋肉痛でめっちゃ痛いし、指の一本も動かしたくない。つーか、ほっぺがマジで痛いんだけど、何だこれ? どうやら俺はうつ伏せの状態で寝ているようだが、頬に接触している部分がすごく固かった。これじゃ安眠どころか、逆に起きた後疲れが溜まっているかもしれない。
『……ン! 起きて! 起きなさい! 起きないと一生恨みますわよ!?』
何というモーニングコールだ。俺を起こそうとする声の主、俺はそいつの事をよく知っている。ルゥだ。あのドSで知られるルゥが何を焦ってやがる? これで俺が起きて何事もなかったら、タダじゃおかねぇからな。
「うる……せぇ……」
あれ、おかしい。思ったように声が出ない。うつ伏せで寝てるから、肺が圧迫されているのか? 動かしたくもない顔を上げると、頬の痛みがすっと引いていった。手の甲で頬を拭ってみると、ざらっとした感触があった。
げ、砂利じゃねぇか! 俺は未だ寝ぼけ眼だったが、頬にまだ張り付いていた砂利を取っ払った。道理で寝心地が悪いわけだ。寝る場所はベッドと相場が決まってんだろ。いや、ちょっと待て。というか何で俺、地べたで寝転がってたんだ?
『レン、レン! 聞こえますか!?』
普段の落ち着きのある声とは程遠い、ルゥの感情の入った声。彼女のこんな声を聞くのは初めてだ。おかげで俺はようやく、自分が置かれている境遇を思い出したのだ。はっとして後ろを振り返ると、僅か二、三メートル先に赤い海が見えた。『土竜眼』が映し出す地雷の海。それは横一直線にラインを引いたように、空間に境界を作っていた。まるであちら側は死の世界で、俺が今いるこちら側は生の世界といったところか。
俺は体勢を戻して後ずさろうとしたが、下半身、特にふくらはぎから下の部分に強い疲労感が残っていて、思うようにいかない。尻餅をついた状態で、何とかその場から離れた。
俺は死の世界――『必死地帯』から抜け出していた。文字通り死線を潜り抜けたのだ。
「そんな大声出さなくても……聞こえてる……」
『レン……!』
感極まったルゥの声の後ろで、歓声が上がった。『必死地帯』で感じた孤独感から一転、俺はずっと皆に見守られていた事に充足感を覚えた。一人ではここまで辿り着けなかった。
仲間とは本当に良いものだ。
『よくやってくれた、レン。本当に……』
無線からはウルフの声が聞こえた。ウルフも多少声が上ずっていた。
「全くだぜ……。おかげで気を失っていたみたいだ」
『必死地帯』の終着点が見えてから、俺はずっと下を向いて、地雷を避けて進む事だけに専念していた。そこから今までの記憶が、頭の中からすっ飛んでいる。目を瞑れば、架空の地雷を数値化したものが次々と襲いかかってくるようだ。知らず知らずのうちに、俺は集中して周りが見えなくなっていたらしい。危なかった。何か一つ間違えていれば、俺はずっと目を覚まさなかったのかもしれない。
「ウルフ……。今、何時だ?」
『午前〇時四十三分。予定より四十分も速いとは……。全く、お前には恐れ入る』
「七時間……か」
七時間。それは俺が『必死地帯』を突破するのに要した時間。あの永劫に続くかと思われた時間が、たった七時間だったのだ。しばらくは地雷のじの字も見たくない。まぁ、俺のパートナーがそうはさせてくれないだろうけど。
携えていた撤去道具を杖代わりにして、俺は生まれたての小鹿のように足を震えさせ、立ち上がった。ふくらはぎがぱんぱん、足の裏もあちこち痛い。おまけに足の付け根もムカムカしやがる。どれもこれも無視できない程度の痛みだ。
「レン、無理はするな。もう少し休んでから――」
「いいや。これ以上休んでると、やる気もなくなっちまう。それに一回座りこんだら、もうそこから動きたくなくなるからな……。」
「……そうか。ならば歩きながら俺の話を聞いてくれ。少し長くなるぞ?」
「あぁ」
広がる荒野を照らすのは満月の月光だけで、長い道のりを歩くには心許ない。しかも俺は今、下半身にかなりの疲労を蓄積させている。何かに躓いたりしたら、正直踏ん張れる自信がない。しかし左目だけ緑色の視界ってのも、なかなかに辛いものだ。俺は左目につけていた『土竜眼』を外した。
そこには見慣れたサヘランの荒野が広がっている。異なる点を挙げるとすれば、太陽の代わりに満月が空に浮かび、暗い所為でいつもの景色と別物のように見える事だ。
「そう簡単には行かせてくれない……か」
『どうした、レン?』
「いや、『土竜眼』が鬱陶しいから外してみたが、結構な暗闇だったもんだから」
『そうか。それは話が早い』
「え、どういう事だ?」
『テッサからその『土竜眼』の性能について教えてもらった。これからの作戦はそれが鍵を握っている』
その名を聞いて、俺はテッサの顔を思い浮かべた。記憶の中でも俺を蔑んだ目で見てやがる。
『まずはレン、もう一度『土竜眼』を着用してくれ』
「わかった。……よし、着けたぞ」
『そしてそこにミニポムとやらがいるんだろう? 彼女に向かって『暗視モード』と言ってくれ』
「……いちいち言わなきゃいかんのか?」
『音声入力式だそうだ。使い物にならなければ使わなければいい。物は試しだ』
「へ、確かにな」
胸ポケットの中を覗くと、桃色に仄かに光るミニポムが見えた。「ポッ?」と首を傾げ、俺が何か言うのを促しているようだ。改まる必要は全くなかったが、軽い咳払いの後、俺はできるだけ口を動かして例の言葉を言った。
「暗視モード」
「ポッ!」
すると、通常に戻っていた左目の視界が、今度はモノクロの世界に成り変わった。白と黒、そしてそれらのコントラストだけの味気ない景色になったが、地平線間近の大地まではっきりと見える。俺の体が白く映るという事は、熱原体はわかりやすい白色で表示される仕様だろう。色調が大分狭まったとはいえ、これで足元のケアも楽に済みそうだ。
「おお、こりゃあ便利だ」
『それがあれば、動く熱原体を逸早く察知する事ができるはずだ。いくら東側の入口に注意を惹きつけているといっても、兵士達が警戒している事に変わりはない。それにお前はほとんど丸腰だ。細心の注意を払って潜入してもらう事になる』
「俺が丸腰なのは、お前が俺をここに寄越したからだろうが」
『そうだったな……すまない』
無線から聞こえるウルフの声は、ひどくトーンが落ちて俺の耳に届いた。
「謝んな、馬鹿。それより、さっさと次にする事を教えてくれ」
『あぁ』
止めていた脚を再び動かし、俺は一歩一歩を踏みしめるように前へ進んだ。
『予定通り、レンには採掘場入口の反対側から潜入してもらう。有刺鉄線が敷かれているが、その一部は俺が前もって切断してあるからすぐに解けるはずだ。まずは、俺が前に通った道を探し当て、その偽装された有刺鉄線を見破ってくれ。俺も『土竜眼』から送られる映像を見てサポートする』
「目印みたいなものはないのか?」
『潜入場所に証拠を残してどうする?』
「そ、そうか……」
『心配するな。大体の場所は覚えている。それに、その場所周辺は見張りの兵士もほとんど来ない。暗視モードを上手く使って、慎重に任務に当たってくれ』
「了解。へへ……」
『……ん? どうした、急に笑ったりして』
「いや、何か昔やったゲームの事を思い出してな。まさか俺が、本当に潜入任務をやる事になると思うと……。ちょっと不思議な感じがする」
『現実はゲームと違うぞ。銃弾一発であの世行きだ。レン、決して気を抜くなよ』
「ポッ!」
少しだけワクワクしていた俺とは対照的に、ウルフは語気を強めて俺に釘を刺した。おまけにミニポムも俺を強く見つめ、少し怒ったような表情をしていた。
「わかってる。死ぬほど慎重にやってやるさ。神経質をなめんなよ?」