5-6 spatial perception
手球の中心に狙いを定め、数回のストロークを行う。全て同じ軌道が描かれたキューの動きは、我ながら機械のような精密さを保っている。今一度グリップを握り直し、右脇を締め、九十度に固定された肘から振り子のようにキューを振る。キューは狙い通り見事に手球の中心を撞き、ビリヤード台のラシャを駆ける。一つ、また一つと白い手球はクッションして、赤色の三番ボールに命中する。
弾き出された三番ボールは、五番と八番ボールの間にある狭い隙間を、まるで意志を持ったように通り抜け、その先にある九番ボールに当たった。後は惰性で九番ボールはコーナーポケットに吸い込まれていく。頭の中でイメージした通りのプレーに、我ながら惚れ惚れしてしまいそうだ。
「これで十四回連続レンの勝ち……か」
薄暗い照明の中、俺とサンタナ、そして医者まがいのビー・ジェイの三人は、真っ昼間からビリヤードに勤しんでいた。作戦会議が終わって昼食を食べた後から、かれこれ二時間半ずっとやりっぱなしだ。地雷撤去もしないで遊んでやがるとは思わないでほしい。これもトレーニングの一環なのだ。俺専用のやり方ではあるが。
さっきまで中古のボロいソファに座っていたサンタナは、滑り止めに使うチョークを弄ぶのをやめて、再びナインボールのセッティングをしだした。それぞれのボールをビリヤード台の既定の位置に配置しながら、暇そうな声を出す。
「レンさん、もうちょっと手加減してくれてもいいんじゃないですか?」
「馬鹿言え。勝負事に手を抜くなんざ、興が削がれちまうだろ。全力で倒しにかかるのが、せめてもの情けってやつさ」
「実力が拮抗してこその勝負事だと思うがな。差がありすぎても興は削がれる」
煙草に火を点けたビー・ジェイは、一息吸った後、上を向いて煙を吐き出した。彼の傍にある灰皿は、この二時間半で満杯になってしまっていた。こんな時にも白衣を羽織って医者っぽい雰囲気を醸し出しているが、医者の不養生とはまさにこいつのためにあるような言葉だ。
「負け惜しみか、ビー・ジェイ? 手球を二回クッションさせるだけでも、ハンデとしてはやり過ぎだと俺は思うんだがな。それプラス、ボールがポケットインしても、俺の場合だけ順番が回っちまう特別ルールを採用してるんだ。それでも勝てない奴に言われたかないね」
「これっぽっちもミスをしない貴様が言っても、嫌味にしか聞こえないな」
「馬鹿野郎。俺がどれだけ集中してやってると思ってんだ? 屁理屈ごねるくらいなら、少しは上達してからものを言ってほしいね」
ビー・ジェイは肩をすくめ、満杯になった灰皿のさらにその上に煙草を押し付けた。間もなく、サンタナが冷めた声で俺を呼ぶ。
「はいはい。またレンさんのブレイクショットですよ」
「おう」
菱形に並べられたボールの先端、一番ボールにめがけて強めのブレイクショットを行う。ボールはそれぞれ異なる軌道でビリヤード台を転がり、中にはポケットに入るボールもあった。だが俺は、それに構わず九番ボールの行方を目でずっと追った。菱形の中央にあった九番ボールはのろのろとコーナーポケットへ進んだが、運悪くボール一個分右に逸れ、クッションに跳ね返った。
「っか~! 惜しい! あともうちょいでブレイクナインだったのに!」
「悔しがっている場合か? サンタナに絶好のチャンスをくれてやったぞ」
ポケットに入らなかった九番ボールは、一番ボールとポケットのほぼ直線上にあった。手球をキューという長い棒で撞き、数字の若い順からボールをポケットに入れていって、最後に九番ボールを入れた人間が勝ち――というのがナインボールのルールなのだが、手球を的球に当ててさえしまえば、あとはどのボールがポケットインしてもよい。今のこの場合だと、手球から一番ボール、一番ボールから九番ボールへと経由して、九番ボールがポケットに入ればそれでサンタナの勝ちとなってしまう。
「わっ、ほんとだ! よ~し、これで今日の負け分チャラにするぞ!」
つまらなさそうにしていたサンタナも、一筋の希望を見出したようで、一段と集中してストロークを行った。やる気を出すのは良い事だが、肘がブレブレのそんなフォームじゃ、結果はたかが知れている。
「あうっ」
力み過ぎたのであろうサンタナの渾身のショットは、手球の中心から大きく逸れて、上部を擦るような形になってしまった。手球は申し訳程度に進み、黄色い一番ボールに優しくぶつかって勢いを失った。サンタナはがっくりと肩を落としてとぼとぼ歩き、ボロいソファで項垂れた。かける言葉は見当たらないが、それでも俺はなけなしの同情をくれてやる事にした。
「……ま、そう旨くはいかないよな」
その間に、ビー・ジェイがビリヤード台へと歩み寄り、一番ボールに狙いを定めた。サンタナよりはいくらかマシなフォームで手球を撞く。カツンと、ボールが衝突する乾いた音が薄暗い部屋に響く。手球と勢いよくぶつかった一番ボールは、九番ボールに見事命中したが、九番ボールがポケットに入る事はなかった。
「チッ、外したか」
「あ、でも見てくださいよ。手球が打ちにくい所にいきましたよ」
ビー・ジェイの放った手球はいくつかのクッションを経て、コーナーポケットにぎりぎり入らない所で止まった。しかも、その手前付近に元々あった三番、四番ボールの間に、蓋をするように黒色の八番ボールがピタリと止まった。コーナーポケットのすぐ傍に手球、それに覆いかぶさるように三つのボールが、上手い具合に手球の行く道を阻んでいる形だ。ボールの間にある道筋はどれも狭く、しかもそれを越したところで一番ボールには当てられそうにない。
「――というか、どう転んでも一番ボールには当てられないだろ、これは」
「さすがのレンさんも、手品でも使わない限り無理でしょうね~」
普段のお返しとでもいうように、サンタナは嫌みったらしくニヤニヤしながら俺に言った。しかし、サンタナはいつも詰めが甘い。俺はいつもの倍くらいの不敵な笑みをサンタナにくれてやった。
「それじゃ、使うか? 手品をよ」
「えぇ!?」
ビリヤード台に張られている緑色の布――ラシャに左手を添える。その左手を、水黽の脚のように伸ばし、通常とはおおよそ異なるブリッジを作る。キューの尻を持ち上げるようにして、狙いを手球の上部一点に研ぎ澄ます。撞かれた白い手球は、ラシャに跳ね返るようにジャンプして、進路を塞いでいた八番ボールの上空を越えた。しかもまだ、終わりじゃない。
勢いよく弾き出された手球は、他のボールと衝突する事無く二回クッションをして、的球である一番ボールの左側に当たり、一番ボールはそのままコーナーポケットに入った。手球は中央下部の九番ボールに向かっていき、その勢いを九番ボールに託す。託された九番ボールは、近くにあったポケットへ吸い寄せられ、闇に消えた。
「これで十五回連続俺の勝ち……だな」
「うわ~……。決めちゃったよこの人は」
「ふん、空間把握能力――か」
火の点いていない煙草を咥え、ビー・ジェイが呟いた。
俺が唯一人より優れていると自慢できるもの、それが空間把握能力だ。この能力に初めて気がついたのは、ゴルフ場のバイトをしていた時がきっかけだった。林に入るOBのボールを探し出すのが、俺は他の連中より数倍速かったのだ。それから諸々あって、地雷掃除人になるための修行を経て、半径十メートル以内であれば、ミリ単位で自分との相対距離を言い当てられるまでに至った。
自分の中では何も特別な能力とは思っていない。むしろなぜ他の人間がわからないのだろうと、疑問に思うほど俺にとっては至って普通の能力なのだ。だから、精度の高い地雷探知機さえあれば、地中に潜む地雷がそこにあろうと、臆することなく近寄る事ができるし、中の信管めがけて液体窒素を放出する事だってできる。――それなりの覚悟はもちろん必要だが。
そんな俺に打って付けの空間把握のトレーニングが、ビリヤードというわけだ。手元が少しでも狂えば、手球の軌道もそれに見合った結果になる。一瞬の感情の揺れが勝負を左右する自分との戦い――まさしく地雷掃除人に相応しいスポーツと言えよう。『必死地帯』を前に、この俺の空間把握能力の真価が問われるという事だ。ただし、賭けるのは向こう三日分のメシ代ではなく、何物にも代え難い俺の命なわけなのだが……。
ジャンプショットはルール違反なので、公の場で行わないようにしましょう。