5-3 恋は盲目
ロウファは俺をそっちのけで、停止したジープに向かって行った。上着を貸して、転んだ後にも手を貸してやったというのに、わざわざ『恋は盲目』を実践するとは現金な奴だ。
「ウルフ!」
あいつの名を呼んだロウファだったが、運転席から顔を出したのはサンタナだった。
サンタナは予想していなかった出迎え人に目を丸くした。
「ロウファさん!? どうしてここに?」
恐ろしい勢いでロウファはサンタナに詰め寄った。
「サンタナ、ウルフは!?」
「うわ、ちょ、待って待って! ウルフさんは後ろで休んでますけど、かなり疲労しています。まずはビー・ジェイの所に言って診てもらわないと」
「そう……そうね。ごめんなさい」
そうは言いながらも、ロウファは落ち着かない様子で後部座席の方に目を向けた。何の変化のない後部座席の扉の向こう側が見えるわけもなく、ロウファが視線を外した時だった。
ガチャッと無機質なジープの扉が開いた。そこに銀色の短髪の男が姿を現す。装備品を全部取っ払ったのだろうか、この寒空にも拘らず上半身はランニングシャツ一枚だけ、下半身は荒野と同じ刈草色をしたズボンを着用していた。何週間も作戦に身を投じていたから、口周りの髭が無作法に伸びて別人のようになっている。普通に立っているのが辛いのか、ジープの扉に手を添えて、そいつもまた予期せぬパートナーのお出迎えに目を丸くしていた。
「……ロウファ? どうしてここに?」
「ウルフ……!」
感極まって泣いてしまいそうな声で呼びながら、ロウファはウルフに近づいた。
「あ、あの、お疲れさま――じゃなくって! お帰りなさい」
「あぁ、ただいま。今回も何とか生きて帰って来れたようだ」
「不吉な事言わないでよ! あなたはこれからも、ずっと無事でいるの」
「すまない」
ウルフは頬を掻きながら苦笑した。ロウファはサイドテールの髪を抑えて下を向いている。会いたくてたまらなかった人が目の前にいるというのに、上目遣いで微笑みのひとつくれてやらないのはもったいなさすぎる。言葉が詰まる気持ちはわからなくもないが。
顔立ちの悪くない男と女が、月の照らす静寂な夜に再会を果たすというのは何とも乙なものだ。俺とサンタナは舞台を引き立てる黒子のように息を潜めて、彼らの行く末を見守る事にした。
「この指の傷! これどうしたの!?」
「ん? あぁ、有刺鉄線に引っかかっただけさ。何も問題はない」
「すごく痛そう……」
「あぁ、実はすごく痛い。だが、それだけ傷が浅いという事だ。深い傷はあまり痛みを伴わない」
「………………」
ウルフの左手を取ったロウファは押し黙ってしまった。その沈黙は、見守る俺たちにとって息苦しいものだった。
「どうした? ロウファ」
「ウルフ……。まだこんな無茶な作戦を続けるの?」
「……そうだな。任務が与えられれば行くことになるだろう。君にはまた心配をかけると思う」
「私の事より、あなた自身の事を心配してほしいの。帰ってくる度にこんなにやつれた姿、私はもう見たくない」
「仕方がないさ。俺が行かなきゃ、サヘランの連中の動向が掴めない。大丈夫、俺も死ぬつもりは毛頭ない。俺がやつれるだけで事態が良くなるのなら、やるしかないだろう?」
「それはそうだけど……。あなたの事を、他の何よりも心配している人がいるのを、どうか忘れないでいて。約束よ?」
「あぁ、心得た」
そんな遠回しの表現じゃ、唐変木のウルフには何も伝わらないと思うが、あいつにしては上出来なほうか。このまま息を潜めていたら、後でロウファに何を言われるかわからないので、俺はそのムードを惜しみながらも場違いに登場する事にした。
「よっ、熱いね~お二人さん」
「レンか? ――今は夜だし、暑くないぞ? 少し肌寒いくらいだ」
「いや、そっちのあついじゃねぇんだけどな……」
肩をすくめる俺の方に、ウルフが歩み寄った。ロウファが名残惜しそうにウルフの背中を見つめていた。
「はっ、そんな大層な髭こしらえやがって、よく生きて帰って来れたな」
「しぶといのはお互い様だ。お前の墓の前で報告する手間が省けた」
「ぬかせ」
口では挨拶がわりの皮肉を言い合ったが、それと同時に力強い握手を交わして、俺たちはそれぞれの存在を確かめ合った。彼の名はウルムナフ・コーガン。野性的な銀髪に、イエローの鋭い眼をしている事から、俺たちは愛嬌を込めてウルフと呼んでいる。
「そうだ。忘れないうちにこれを」
ウルフはそう言って、耳にかけていた半透明の物体を俺に差し出した。記憶媒体で知られる『メモリーズ・アクセ』の一つだ。装備するだけで、その人の体温や脈拍数を逐一記録し、本人さえも気づかない身体の異常を調べるだけでなく、状況に応じて精神状態を落ち着かせるジアゼパムを体内に投与する優れものだ。また、ウルフがつけていたものは小型カメラも搭載しているため、彼の視界をフォローした映像もまるまる入っている事だろう。
「その中に、次の作戦に必要な情報をできるだけ詰め込んだ。――レン、後はお前次第だ」
「はぁ? 一体何の――」
俺がそう言って顔を上げた瞬間、ウルフは前のめりになって意識を失った。慌てて彼の両肩を抑えて地面とキスするのを防いだものの、脱力した成人男性は驚くくらいに重かった。ロウファが悲痛な声をあげて駆け寄ってくる。
「ウルフ!」
とりあえず俺はウルフを仰向けに寝かせた。脈はあるし、呼吸もちゃんとしている。
――というか、これは寝ている。
とても穏やかな表情で眠るウルフの状態を浮かし、俺はロウファに目で合図を送った。
「え、なに?」
「ぼさっと突っ立ってんなよ。膝枕でもしてやれ」
「うえぇっ!? そ、そんなハレンチな……」
「何がハレンチなんだよ。ただの介抱だろうが」
「そ、そうね。ただの介抱だよね。何もやましい事じゃないもんね」
ロウファはぶつぶつと独り言を言った後、地べたに座ってウルフの上半身を包み込むように抱きかかえた。寝顔を覗く彼女の瞳は乙女のそれそのもの。見ているこっちが恥ずかしくてにやけてしまいそうだ。言いだしっぺの俺が、所在なさげにそっぽを向くという始末。舞台の影で暗躍する黒子が出しゃばると、どうやらろくな事がないらしい。
「ロウファ、邪魔者の俺とサンタナはそろそろ消えるから、寒くなったらそいつをジープに乗せて朝まで過ごせ。いいな?」
「朝まで過ごすぅ!?」
「ハレンチとは言わせねぇぜ? お前にその気があるんなら話は別だがな」
「~~っ!」
夜でもわかるほど赤面したロウファだったが、大声で言い返す事はできないので、すごい剣幕で俺に訴える事しかできなかった。まぁ、それをわかってて言ったんだがな。
「空に浮かぶ月だけが証人さ。朝になれば誰も知らない、都合が良いだろ? それじゃ、いい報告を期待してるぜ。サンタナ、行くぞ」
「あのー、レンさん? 僕、本部に帰らないといけないんですけど」
「馬鹿言え。ここで粋な事しとかんと、後でルゥにどんなお仕置きされるかわかんねぇぞ」
「ですよね~……」
そうして俺たちは踵を返し、二人を残して愛想のない建物に戻った。
あいつが、ウルフが帰ってきた。『必死地帯』のおかげで滞っていた進行の手立てが、長い膠着状態を経てようやく形になりそうだ。夜が明けたら早速作戦会議が始まるだろう。上着を貸したせいで、布団のぬくもりが恋しくなってきた。
寒空に広がる天然プラネタリウムの下に、男と女が一人ずつ。最後まで見届けられないのは残念だが、今度は確実にロマンチックになる事だろう。