5-2 帰還
三日前の深夜、あれは午前一時を回った頃だっただろうか。
普段は適度なぬくもりを与える肌触りの良い毛布が、なぜだか今日に限って俺の睡眠を妨げる。一仕事を終えて夕飯を食べずに寝たもんだから、そんな時間に目が冴えるのも仕方がない。つまりは毛布に何の罪もなく、悪いのは日々のルーチンを破った俺自身にあるのだ。神経質と謳われる手前、たまにこういう事もやらかす自分の性格が、我ながら意味不明である。
足に絡み付く毛布をバタ足で蹴飛ばして上体を起こす。真っ暗な部屋をぼんやりと灯すピンクの光の先には、エコモードになっているポォムゥの姿があった。それこそ人間でいうところの睡眠といったところか。起こしてキーキー喚き散らされるのは面倒なので、俺は寝間着の上に革のジャケットを羽織り、忍び足で部屋を出た。
ここサヘランに来てから、深夜に行動するというのも減ったもんだ。それだけがむしゃらに地雷撤去に励んでいたという事か。蓄積された疲労が、まさかこういう形で表れるとは思わなかったが、風邪をひいて熱を出すよりはいくらかマシか。それに、たまには地面に横たわって星を眺めるというのも悪くない。緑色の誘導灯だけが仄暗く灯る廊下を、俺はいくらかの高揚感を感じながら外へ向かった。
出入口とは逆の方向にある裏口から、真夜中の寂れた荒野に足を踏み出す。深夜にも拘らず彼方の地平線まで見渡せるのは、上空から降り注がれる満天の星空のおかげだろう。放射冷却のせいで、白い息が出るほど日中との気温差がど偉い事になっているが、それすらも忘れさせる美しさだ。何物にも替え難い、俺だけのプラネタリウム。
そう思っていたのだが、ふと目線を下げた先に人影が目に入り、幽霊とかに弱い俺は途端に緊張してしまった。俺の足音に気づいていたのか、人影は俺の姿をじっと見ているようだった。やがてその人影は俺のほうに近づいてくる。徐々に露になる人影の全体像を見て、そいつが深夜の荒野に佇んでいたわけを納得した。
サイドテールのきめ細かい髪を冷たい風になびかせて、ルゥと同じオペレーターの制服を着用した女性が俺に向かって口を開いた。
「レン、久し振りね。こんな時間にどうしたの?」
「それはこっちの台詞だ、六花。外は寒いだろ、中に入れよ」
「ん~……。いや、私はもうちょっとここにいる」
そう言って、深淵に浮かぶ地平線を振り返ったこのオペレーター、名を李 六花という。ルゥやズィーゼのような、棘のある美女が多いオペレーターの中では影は薄まるが、それでも俺基準で言わせてもらえば、充分に顔の整った美人である事には違いない。
ロウファは肩を小刻みに震わせながら、何もない闇の荒野をただずっと眺めていた。全く、タイトなスカートを穿くのは制服だから仕方がないとはいえ、厚手の上着の一つくらい用意してこいって話だ。俺は彼女の肩に、着ていた革のジャケットを羽織ってやった。
「うぅ~、さぶっ!」
「あ、ありがと……」
身震いさせる俺を横目にぶっきらぼうな言葉を返し、ロウファは素っ気ない態度で再び荒野を見遣った。寒空に広がる天然プラネタリウムの下に、男と女が一人ずつ。着ていた上着のぬくもりを女に与えるといった、お決まりのアクションも相まって、ロマンチックな事この上ない状況ではあるが、お互いにそんな気は一切持ち合わせていないというのは、何とも残念な話だ。
彼女がわざわざ勤務時間外に、こうして寒空の下で佇んでいるのはわけがある。
「それにしたって、お前も物好きな女だよ。何週間ぶりかに帰ってくるダーリンを外でお出迎えってわけか。妬けるねぇ」
「んなっ! 彼とはそそ、そんなんじゃないってば!」
ロウファは俺の期待を裏切らないリアクションを取ってくれた。この反応が見たくて、会うたびにこうやって彼女を茶化すのが俺は楽しくてたまらないのだ。互いに恋愛感情がなく、自然と会話が弾むのがとても心地良い。俺のほうが三つ年上という事もあって、ロウファは俺にとって妹みたいな存在だった。
「嘘つけ。ここの連中はみんなお見通しだぜ? いい加減しらばっくれるのはよせよ」
「う~。じゃあ何であのおっさん達は私に言い寄ってくるのさ!?」
「言い寄ってるわけじゃないと思うがな。ただ自分の見える世界に、ちょっとした潤いが欲しいってだけさ。深い意味はねぇよ」
「ほんとに~? おっさん達と鉢合わせるのが嫌だったからここにいたんだけどさ、まぁ鉢合わせたのがあんたで良かったよ。これがもしおっさんだったら、ずっと付き纏われてただろうし」
「違いねぇ」
俺は苦笑混じりに同意した。
地雷掃除人のオペレーターというのも、気苦労が絶えない職業だ。年季の入った中年オヤジ共が、年の差も考えないで彼女達を口説こうと躍起になっているのだから仕方がない。ちなみにこの場合の口説くというのは、短期間のパートナー契約を結ぶ事を指す。
それが原因かはわからないが、基本的にオペレーターの女性陣は気の強い奴が多い。オヤジ共の必死のアプローチは、ちょっとやそっとの作り笑いじゃやり過ごせないのだ。俺のパートナーであるルゥのように、オヤジ共を軽くあしらう術を心得ていないロウファにとっては、奴らが面倒くさい事極まりないのだろう。
だから俺は、ロウファがもっと仕事しやすいようにと、いつも同じ質問を訊ねている。
「んでお前、あいつとはどこまでヤッたんだ?」
「だ、だから、彼とはそんなハレンチな関係じゃないから!」
「キスはしたのか? キスは」
「い、いやその、だから……」
「ハグはしたか?」
「ぬ、ぬいぐるみで練習はした」
「……手ぇつないだのか?」
「つ、つないでないけど、資料を渡した時にちょっと手に触れた!」
「……あとは?」
「か、彼が発つ前に『がんばってね』って声かけた!」
俺は無言でロウファにデコピンをかました。
「い゛だっ! いった~……。ちょっと何すんの!?」
「何だその体たらくは。お前本気であいつと付き合う気あるのかっ」
「だってぇ! 普通、愛の告白は男からするものでしょ! 少しは私の気持ちも考えてよ」
「知るか。そんな悠長な事言ってると、他の女に取られちまうぞ」
「う~。じゃあもっとためになるアドバイスをしてよ。会う度に毎回尋問するだけじゃなくってさぁ」
「そうだな、今度考えてやるさ」
「何それ。どうせ寝付けないから暇してたんでしょ? じゃあ今考えてよ、今!」
「別に俺は構わんが、本人がいる前で堂々とアドバイスしてもいいのかよ?」
「ふぇ?」
俺が指差した方向から、まだずっと離れているが二つの光が闇の荒野を切り裂いていた。見慣れたジープのヘッドライトだ。素っ頓狂な声を出したロウファは、俺の言葉の意味をようやく理解したようで、足場の悪い地面を歩きにくそうなヒールで駆け出して行った。
そして予想通り、ロウファは途中でずっこけた。
溜息も程々に、俺は彼女に近づいて体を起こし、制服についた汚れを払ってやった。
あいつが帰ってくる。それは俺たち掃除人が――いや、人類が次なる未来に向かって大きな一歩を踏み出すという事を意味する。俺たちの進行を阻んでいた『必死地帯』を、たった一人で突破した地雷掃除人が――。
ジープのヘッドライトは、ゆっくりとだが着実に、俺たちの方に向かってきていた。