5-1 暗闇の思い出
暗闇。
両目を開けていても、布団の中にいれば何も視界に映らず、ただ黒に塗りつぶされた世界と顔を合わせる事になる。視界からの情報が黒で満たされているため、否応にも視覚以外の他の五感が研ぎ澄まされる。部屋を仕切るドアが開いていたのか、布団をかぶっていた状態でも、くぐもった声は俺の耳を通して伝わってきた。
「これが、今回のテスト結果です」
「算数が八一点、理科が八五点、国語は……七九点? ――ラシアン。僕は今、幻でも見ているのというのかい? 九〇点以下の点数なんて、少なくとも僕は取った事がないよ。七〇点台など猿でも取れる点数じゃないか。まぁいい。それで順位は?」
「クラスで六番、学年単位だと三一番になります……」
「――僕は恥ずかしいよ、自分の事以上にね。この悲惨な結果に目を背けたくなる。だって考えられるかい? 自分より優秀な人間が、上に三〇人もいるんだよ? 僕ならノイローゼで寝込んでしまうね」
母と、そして父の声だ。
自分のテストの結果を見て、聞かせているのだ。どんなに良い点数を取っても褒められる事はなく、逆に少しでも悪い点数を取れば、こうやって夜中に散々な事を言われる。それが嫌で、八時半を過ぎた頃には布団の中でうずくまっているのだが、父の自分に対する愚痴は、嫌でも頭の中に入ってくるのだ。
母のか細くて優しい声が届く。
「でも、あなた。確かにあの子の成績はパッとしないけれど、全ての教科は平均点を超えているわ。それだけでも――」
「それだけでも、なんだい? 平均点を超える、たったそれだけの事で満足できるとでも? ラシアン、僕が求めているのはそんな次元の低い話ではなく、『一番』という最も単純で、最高の結果だけなのだよ。そうでなければ、僕の子供である価値がない。出来損ないのあいつが、僕の子供である資格はないんだ」
価値。資格。
どうやら、そういったものを自分は持ち合わせていないらしい。全ては聞き取れなかったが、『一番』という言葉で話の内容は理解できた。父は自分に、『一番』を取ってきてほしいのだと。
淡々と告げる父親の口調が、とても恐かった。自分が駄目な事をしているのなら、目を合わせて直接怒ってもらった方がまだよかった。でも父はそれをせず、自分が寝ているのを見計らって愚痴を言うのだ。
「グリューエン! そんな言い方をしたら、あの子が可哀想ですわ!」
「ラシアン。憐みという感情は本来、自分自身にしか持たないものだ。君があいつを、レンを憐れんでいるのだとしたら、本当は『こんな出来の悪い子供を育てる自分が可哀想』という意味合いになる」
「そんな事ありません! 私は、私は本当にあの子の事を……!」
母は父親に比べて、割と自分に優しかった。
テストで悪い点数を取っても、頭を撫でて自分を励ましてくれた。良い点数を取った時には、父親に内緒でケーキを買ってくれたこともある。でも、時折見せる彼女の負の感情が、やはり恐かった。答案用紙を眺めて嘆息する後ろ姿に、どのような声もかける事ができなかった。
「いいんだ、ラシアン。自己愛を満たす事こそが、人として生きていくためのせめてもの贖罪だよ。恥ずべき事は何もない。それに、これはレンのためでもある」
「あの子の……?」
「そうだ。出来もしない勉強を無理矢理やらされて、さぞかしレンも苦しかっただろう。彼のために敷いたレールには、もっと僕らに相応しい子供を乗せようと思う」
「それは、どういう……?」
「僕の知り合いに孤児院を営む奴がいてね……。君には黙っていて悪かったが、いざという時のために、僕ら二人の子供になるべき人材を確保してもらっている。ラシアン、養子を授かろう」
「グリューエン! あなたは本気でそのような事を言っているのですか!? 一体あの子を、レンをどうなさるおつもりなんですか!?」
母の悲痛な叫びに体をこわばらせた。まるで自分が悪い事をしでかしたような感覚だ。ごめんなさいと心の中で謝ったが、その声が彼らに届くはずもなかった。父のグリューエンは母と対照的に、冷静な口調で淡々と話し続けた。
「言ったじゃないか、これはレンのためでもあるんだ。彼自身が望まぬ人生を、僕らが勝手に決める事は出来ない。――レンには悪いと思っている。もっと早い段階で、僕が見切りをつけるべきだったんだ」
「……確かに、確かにあの子は勉強ができなくて無愛想だけれど、一〇年もそばにいたら愛着が湧くものよ。お願い、グリューエン。養子の件はもう一度考え直して」
「ラシアン、できれば僕だって、こんな事はしたくなかった。だが早い段階で適性を見極めなければ、僕の跡継ぎを任せる事などは到底できない。一〇年という時間はむしろ、彼に対する愛想を尽かすには充分な年月だったよ」
「………………………………」
母のすすり泣く声が聞こえた。それを聞いている自分も何だか悲しくなり、目から生温かい液体が流れた。鼻をすする音で自分が起きているのをばれないように、必死でそれを我慢する。だが、無駄な抵抗をすればするほど、流れ出るものが止まなかった。
涙を拭う間にも、父親は変わらぬ口調で語り続ける。
「次の土曜日に、さっき伝えた子供を連れてくる。なに、君もすぐに気に入るさ。名前はオズウェルクといってね、八歳にして既に躾が施されていて、それに目つきも良い。常に最善の選択を探る眼をしている。両親が不在で、あれほど賢く育つ子も珍しい。――いや、いなかったからこそ、というべきか。レンとは二歳離れているが、出来の悪い兄がいたほうが反面教師として役立つだろう。……彼こそが僕らの子供だ、ラシアン」
それ以降は、誰の声も聞き取る事ができなかった。布団の中で泣きじゃくる自分を抑える事で精一杯だったから。
自分はなぜ泣いているのか。
父の期待に応えられなかったから?
母を悲しませてしまったから?
出来の悪い自分が情けなかったから?
多分、どれも違うのだろう。
「レン!」
急に、目の前の景色が変わった。暗いのは相変わらずだったが、星空が灯す干からびた大地に、重力で足が引っ張られる感覚が舞い戻る。前につんのめった体勢を寄り戻し、真夜中の荒野を綱渡りしているのを思い出した。
満月が浮かぶ夜空に俺は今、地雷原のど真ん中、『必死地帯』の中を歩いている――。
頭の良い人の台詞を考えるのって難しいです……。




