4-14 希望の光
自分の目に映しだされるその光景を、鏑木は嘘だと思いたかった。
北条が倒れている。
想定外の事態に、鏑木の思考は停止してしまっていた。いや、起こりうる想定の最悪のケースだったからこそ、なのかもしれない。鈍い爆発音の後では、ただの無音さえタチの悪いものに変えてしまう。熱を帯びた大地から、止め処なく陽炎が揺らぐ。その所為か、現実に起こっている事象が、都合良く白昼夢にすり替わるような、鏑木はそんな錯覚を覚えていた。その錯覚にずっと浸っていたい――。鏑木の儚き願いは、唐突に爆発する地面によって無残にも掻き消された。
北条が横たわる地点から、三〇メートルほど離れた場所で爆発が起きた。土嚢を高い所から落として中身をぶちまけたような、耳障りの悪い爆発音だ。だがそれ故、錯覚に溺れていた鏑木の目を覚ますのには充分だった。
「北条さん!」
僅かな希望を胸に震えた声を張り上げたものの、うつ伏せに倒れる北条に何ら変化は見られなかった。再度鏑木が叫ぼうとしたところで、違う地点から再度爆発が起きた。それからも不規則な場所、タイミングで地雷原にある地雷が次々と断末魔を上げていった。幸運にも、爆発は北条のいる地点から逸れている。しかし――。
何が起こっているのか。
誰もいないはずの場所で地雷が作動する様は、獲物が罠にかかって魔物が雄叫びを上げているようでもあった。甲冑が横たわる場所を中心に、数十秒ほどの間隔で地雷が暴発するその光景は、不吉、不気味、不可解――そういった言葉を混濁させて、初めて形容できるものだった。
『カブ―、大至急そこから離れろ!』
不意に、鏑木の耳にレンの焦燥に満ちた声が届いた。
『でも、北条さんが!』
『馬鹿野郎! そこもいきなり爆発するかもしれねぇんだ、早くしろ! それに、あいつはまだ生きている!』
『ほ、本当ですか!?』
レンの言葉によって、異様な光景から押し寄せる不安が一気に吹き飛んだ。北条がまだ生きている。その情報が鏑木に正気を取り戻させた。黒い煙がいくつも立ち昇る地雷原は変わらず不気味だったが、それに飲み込まれては駄目だ。
鏑木は唇を噛み締めながら北条の姿を見据えた後、その残像を忘れまいと脳裏に焼き付けて、反対方向にあるテントに向かって進み出した。
*
前に一歩踏み出す。現在の状況下で、その行為がいかに困難であるのかを鏑木は思い知らされた。鳴動が再び背中に響く。その度に鏑木の体は電気ショックを受けたようにビクッと反応する。自分が地雷を踏んでしまったのではないかという一抹の不安が、鏑木を浮足立たせた。今、体重をかけた一歩は大丈夫だったが、次に踏み出す一歩はもしかしたら――。
地雷原と安全な区域の境界線は自分の背後にあるはずなのに、踏み出そうとする脳の命令を無視するかのように腰が引ける。足も地面と接着剤を付けたかのように、その場に固定されて身動きが取れない。かと思えば、再度轟く爆発音に脅え、弾けるように勝手に足が動く。まるで体が言う事を聞いてくれない。
地面に爪先をつける度に、足元から太股、腰を伝わって全体を身震いさせる。鏑木の額に流れる汗は、炎天下に似合わず嫌に冷たく不快なものだった。切迫する死の重圧に絡め取られる両の脚、暴走したエンジンのように胸を狂い打つ鼓動、現実と錯覚を同時に映しだす瞳。最後まで己の全てをコントロールできずに、掃除人の待つテントに到着した頃には、既に鏑木は憔悴しきっていた。
鏑木にとっては、人生で最も遠い二〇〇mだったのだ。
「レン! これは一体何が……!」
「カブ―君、まずは落ち着いて」
開口一番、鏑木は無線からの声の主を探したが、テントの中を見回してもその姿は見当たらなかった。その代わり、平凡な眼鏡にかけ直していたコンラッドが鏑木を宥めた。
「落ち着いていられますか! 北条さんが倒れているんですよ!? それに地雷が勝手に爆発していくし、もう僕には何が何だか……」
体力を消耗していた鏑木は、そこまでしか息が持たなかった。自然と手が震える。年甲斐もなく泣き出してしまいそうになったが、鏑木の肩に優しく、それでいて力強い手のぬくもりが与えられた。
「OK。じゃあ僕が今の状況を簡単に説明してあげるから、カブ―君はその間に落ち着いてくれ。いいね?」
そう話すコンラッドの瞳にも、戸惑いや焦りの色が垣間見えた。それでも自分を落ち着かせようと励ます彼の姿に、鏑木は首を縦に振ることで示してみせた。肩を支えられたまま椅子に座らせられる。横にいたジョウから濡らしたタオルを手渡され、鏑木は顔の汗を拭った。
「まず一つ、良いニュースから。ケイスケ君は無事だ、今のところ命に別状はない」
「熱中症で冷静な判断ができず、地雷原を真っ直ぐ突き進んでしまったッス」
「そしてタイミングの悪いことに、近くにあった地雷が暴発してまって、その衝撃で気を失っているんだ。一刻も早く彼の救助に向かう必要があるんだけど――」
テントの外から、またあの轟音が鏑木の鼓膜を振動させた。その場にいた全員が何かを察したように、音のする方向に顔を向ける。
「――御覧のように、僕らがいる地雷原に何やら不可解な現象が起きている。これが悪いニュースだ」
「こんなのは初めてッス。旧型の地雷が設置されているだけでも変なのに、それが次々と爆発していくなんて……」
「ケイスケ君の周りにはおそらく、そういった時限式タイプの旧型地雷が無数に設置されているはずだ。これでは彼の場所まで闇雲に近づいても、巻き添えを食らってしまう」
「そんな……!」
慌てふためくジョウはおろか、普段は冷静なコンラッドさえも現在の状況に戸惑いを隠せていなかった。掃除人たちも困惑する非常事態とはわかっていても、誰かに訴えかける事しかできない惨めな自分。そんな鏑木の必死の眼差しに、二人の掃除人は自然と俯いてしまった。
嫌な空気の流れを断ち切ったのは、後方より聞こえる独特のしゃがれた声の持ち主だった。
「――スマート地雷だ」
「スマート……地雷?」
同じ言葉を繰り返した鏑木の横を通り過ぎたサコンは、背負っていた撤去道具を重たそうに地面に置き、椅子に腰を下ろしてハンチング帽を被り直した。
「ああ。散布後、一定時間が経過すると自爆する地雷のことだ。本来は無意味な被害をなくすために考えられたものだが、俺たちにとっちゃあ厄介極まりない代物だ」
「対処方法は?」
「そんな危なっかしいものなんざ、ほとぼりが冷めるのを待つのが一番さ」
「でもそれじゃ、北条さんの命が……!」
それ以上の言葉を口にしたくなかった。言ってしまったら現実に起こってしまうのではないか。鏑木の頭の中で、そういった不安が過ったのである。前屈みに座るサコンは、苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せた。
「……あいつにゃあ、踏ん張ってもらうしかないわな」
「そんな悠長な事言ってる場合ですか!」
不気味な静寂が蔓延るテント内に、鏑木の怒声が響き渡った。勢いに任せてサコンの襟元を掴んだ手は、未だ細かに震えていた。
「早く助けないと、北条さんが死んでしまうんですよ!? 仲間を見殺しにするつもりですか! サコン、あなたの道具なら何とかなるでしょ!? 早く北条さんを助けに行ってくださいよ!」
自分がどれだけ惨めで他人任せな事を言っているのか、鏑木はわかっていた。ものの数分前に、撮影場所からテントまでの地雷があるはずもない道のりでさえ、恐怖で歩くのもままならなかった自分が、なんと愚かな事を言っているのだろうか。
気持ちと言葉の矛盾が、より一層鏑木の声を荒げさせた。それとは対照的に、サコンの口調は普段より重厚なものだった。
「……お前さん、俺に死ねと言うのかい?」
「だって……! だってそうしないと、北条さんが……!」
「お前さんは何にもわかっちゃいないよ。賢明と無謀はわきまえてこそだ。誰かが助けに行ったところで、命を投げ捨てる事に変わりねぇ……」
膝から崩れ落ちる鏑木の姿は、もはや1%の希望すら叶わない事態を漂わせた。
なぜ北条の異変に気付けなかったのか。
このまま見殺しにしてしまうのか。
自分は何もできないのか。
北条が冷静さを欠いたのは、自分の存在の所為だったのかもしれない。
自分がカメラを回していた所為で、北条の緊張を誘発させたのかもしれない。
悪いのは、自分。
自分が、悪い。
負の思考が鏑木の体を駆け巡り、目には涙が溜まり、急な嗚咽さえも催す。
悔しさや無念といった感情で心が押し潰されそうになった。
強く握りしめた拳が無力な自分であることを物語った。
頭を上げる気力も失った鏑木の耳に、サコンのしゃがれた声が届く。
「カブ―よ、諦めるにはまだ早いんじゃあないかい?」
サコンの独特の口調のどこかに、確かな力強さを感じた。
ただ、止め処なく溢れ出す感情が、鏑木の制御を振り切って脳からの命令を聞いてくれず、四つん這いで下を向いた姿勢は変える事ができなかった。
しかし、閉じる瞳の奥に眩い光が灯る。それが本当の陽の光とは思いも寄らず、鏑木にはそれがまるで希望の光のように感じ取れたのだった。
「ほら、おいでなすったぜ。賢明と無謀をわきまえねぇ、半人前のクソッタレがよ」
「――え?」
鏑木が涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、未だ突き刺すほどに強い日光が一人の男を照らしていた。それは鏑木にとって、まさしく希望の光と呼ぶに相応しい人間の姿であった。
――日本刀を持つ地雷掃除人。映像で見た人物と何一つ変わらない、その人本人だった。