4-6 予期せぬ遭遇
「だからぁ、もう海外でロケはこりごりなんれすってばぁ、ひっく」
久しぶりの酒に随分と飲まれてしまった鏑木は、木製のカウンターに体を預け、回転する世界と夢の世界とを行き来している。さっきまでは何とか英語でやりとりしていたが、とうとうそれすら叶わないほどに泥酔していた。
鏑木の右に座るコンラッドがそれを見て、手に持っていたグラスにほんの少し口をつける。鏑木ほどではないが、彼もまた顔を赤くして気持ちの良い程度に酔っていた。
「あ~あ、ついに英語も話せなくなるまで酔い潰すなんて、サコンも人が悪いね」
「飲むのは勝手だが、潰れるのは自己責任さ。だが、こいつも中々のいける口で、出てくる酒をしこたま飲みやがる。俺はこいつが気に入ったよ。エリー、こいつの代金も込みで、勘定よろしく頼まぁ」
鏑木の左に座っていたサコンは席を立ち、ポケットからくしゃくしゃになった紙幣を何枚か取りだし、それをカウンターに置いた。横の二人とは違い、彼の顔の色は普段と変わらなかった。サコンは鏑木と同じくらいの量を飲んでいたが、酒との付き合い方を知っている差が出たのだろう。彼に続き、コンラッドもおぼつかない足付きで席を立った。
「あれあれ、僕の分は?」
「サワーしか飲まない輩になんぞ、誰が奢るかね。てめぇで払いな」
「つれないねぇ」
「むにゃむにゃ……あの緑山のタヌキやろう、いつか見返してやるぅ……」
その場にいる鏑木以外の三人が、極東の国の言葉などを知っているはずもなかったが、とりあえず寝言を言っているのは理解できた。サコンはそれを横目に、スナックから出ようと踵を返した。
「ちょっとサコン、彼をここに置いとく気かい?」
「悪いが、野郎を部屋に泊める趣味はなくってな。そういうお前さんが介抱してやったらどうだい?」
サコンを呼び止めたコンラッドだったが、そう言われるとわざとらしく肩をすくめた。
「それはもっともだけど、餅は餅屋って言うし、僕よりも適任がいるんだから、その人に任せたほうが良いと思って」
「違いねぇ。というわけだ、エリーさんよぉ。こいつの事、よろしく頼むぜ」
「んまっ! 待って頂戴な。私にも心の準備というものが……」
適任に抜擢されたエリーだったが、その逞しい身体とは裏腹に、さも乙女のような振舞いで言葉を濁した。両手の人差し指でつんつんとやっているのを、気持ち悪いと思いながらも、サコンは彼女にそそのかした。
「何抜かした事言っとるんだ。やらなきゃならん時にやるのが、乙女ってもんだろうに」
「大丈夫だって。痛くしなきゃばれないよ。それじゃ、僕らはこれで~」
打ち合わせでもしていたかのように、絶妙のタイミングでコンラッドはサコンと肩を組み、そのままスナックを後にした。憎まれ口を叩いているが、彼らは非常に仲が良い。千鳥足のコンラッドを、背が低くてずんぐりとした体型のサコンが支えてやっていた。
「ま、待ちなさいったら! ったくもぅ、乙女を何だと思っているのかしら……」
時間は既に午前三時を回っており、彼らが最後の客だったので、スナックにはエリーと鏑木だけの空間になった。エリーは困り顔で、酔いつぶれた鏑木を横目でちらと見る。
「むにゃ……ひっく……もう飲めまへ~ん」
齢三十の鏑木だったが、東洋人は若く見えるというのは彼も例外ではなく、エリーにとってはこの状況が、『まだあどけなさの残る少年が寒さを凌げる場所を求めている』、という都合の良いシチュエーションに様変わりしていた。エリーは生唾を飲み込んだ。
夢と現実の狭間にいた鏑木は、全身にどこか優しいぬくもりを感じたのであった。
*
良い匂いがする。目を瞑る鏑木が感じたのは、ホテルなどで朝食バイキングの会場に足を運んだ時の、腹の虫を刺激する数々の食べ物の香りだった。焼きたてのパンの香ばしいものから、サラダにかけるホワイトソースの香り、スパイスの効いたカレーの匂い、良い豆を使っていそうなコーヒーの香りも鏑木の鼻をくすぐる。とにかく、色々だ。
枕代わりにしていた自らの左手も、感覚がおかしくなるほど痺れ、変な体勢で寝ていたせいか、体のあらゆる箇所が悲鳴を上げている。それでも鏑木が体を起こすことはなかった。前日の遅くまで飲んでいたアルコールの所為だ。ナイフやフォークが食器を擦る音や、いくつかの談笑する声も耳に入ってきたが、鏑木が目を覚ますことはなかった。隣に人の気配も感じたが、まるで気にしなかった。
「ふあぁ、ねむ……」
「おんや、今日はえらく早いね。最近連れてる彼女はどうしたんだい?」
「冗談はよしてくれ、トード。俺にだって選ぶ権利がある」
「選り好みなんかしてたら、婚期を逃しちまうよ。あたしみたいにね」
ガハハと、鏑木が突っ伏すカウンターの向こうから声がする。鏑木は、通っていた高校の学食のおばちゃんの顔を思い出した。話している言語さえ異なるものの、食べ物の匂いのせいか、やけにリアルな回想だった。
「それより、この有様は何だ?」
「さてね。あたしが来た時からこのまんまさ。ま、寝かしといてやんなよ。若い時に無茶しないと、くたびれた大人になっちまうからね。酔い潰れるのも人生の勉強さ」
「授業料が高くつかなきゃいいがな」
どうやら自分の事を話しているらしい。寝惚けた頭では、英語で交わされる会話の半分も聞き取れなかったが、それだけは理解できた。見知らぬ外国で酔い潰れるなど、命知らずもいいところだ。いつまでもこうしてはいられない。身ぐるみが剥がされてなければいいなと、僅かな希望を抱いて鏑木は重い体をゆっくりと起こした。
「う……ん……」
「おっと、起こしちまったか。悪い。まだ寝ててもいいんだぜ?」
半分も瞼が開かなかったが、それでも無理矢理目を開けると、鏑木と同じ年齢くらいの男が左に座っていた。いや、同じくらいと言っても、外人の姿と年齢は一致しない事が多いから判断しにくい。若いようにも見えるし、ラフな格好のせいかオヤジ臭くも見える。しかし、どこかで見たことある顔だ。
「うぅ、すみません。僕、酔っぱらったみたいで……」
「んなもん、見たらわかる」
「ですよねぇ…………………………って!!」
自分の顔を、やけにニヤニヤしながら見る無造作ヘアーの外人を見て、鏑木は咄嗟に声を上げた。
「あんた、昨日俺に嘘ついて、化け物みたいなオカマの所に行かせた人じゃないか! アッタタタ、二日酔いが……」
不意な頭痛に顔を歪ませる鏑木だったが、そんな事よりも彼の前で不敵な笑みを浮かべる外人に用があった。鏑木がこんな目に遭っているのも、元を辿ればこの男がオカマの所へミスリードしたからだ。割と強い口調で言い放ったにもかかわらず、ダークブラウンの髪の男は気にせず機嫌良く笑った。
「ハハハ! ばれちまったか。その様子だと、無事生還できたみたいだな」
「笑い事じゃないですよ、もう!」
怒りを露にした鏑木だったが、この男がやった所業は単なる悪戯であったのを理解したため、ぶつけようのない怒りだけが鏑木の中に残った。悪戯にしては度が過ぎるというものだ。たまらず鏑木はそっぽを向いた。
夜に見た小奇麗なテーブルはそのままだったが、向かいの窓から差し込む陽の光が印象を大きく変えた。そのテーブルで食事をとる人間もいくつか見え、とても鏑木が連れて行かれたスナックには見えなかった。だが、後ろを向くと確かに木製のカウンターがそこにある。他にもっと見える情報はないかと、鏑木は辺りをきょろきょろと見回した。
「あ、あれ? 僕はスナックで酔い潰れていたはずなんですが……」
「ここは同じ場所だよ。日が昇っている間は食堂、沈んでいる間はエリーが経営するスナックになるって仕組みさ。トード、こいつに水を」
「はいよ」
「あ、ありがとうございます」
水が入ったコップを差し出され、ちょうど喉がイガイガしていた鏑木はそれをすぐに飲み干した。美味い。段々と状況が飲み込めてきた鏑木は急に安堵し、また座り心地の良い丸椅子に腰を下ろした。ふいに視線を感じそちらを見ると、左隣の男が難しい顔をして鏑木の顔を覗いていた。
「あ~……、悪い。あんたの名前、忘れちまった」
「それじゃあ、改めて」
鏑木は男に握手を求めた。男もそれに応える。
「日本から来た、鏑木潤一という者です。よろしく」
「カ、カブラギ・フンイチ?」
「え? ジュンイチです。ジュ ン イ チ!」
「ズ、でゅ、フンイチ? ダメだ、言えねぇ」
北欧かどこかの地方だっただろうか。忘れてしまったが、ザ行が発音できない国の人間がいるというのを風の噂で聞いたことがある。しかし『カブラギ』で発音に困る外国人を見たことはあっても、まさか『ジュンイチ』のほうで躓くとは思いもよらなかったため、鏑木は押し寄せる笑いを堪えられなかった。
「ぷ、くくくっ……! 何です、それ?」
「うっせぇ。何だよお前の名前、発音しづらいったらありゃしねぇ。面倒だから、お前の事はカブ―って呼んでやるよ」
「どうぞお好きなように。それで、あなたのお名前は?」
「俺か? ……俺はシュナイドだ」
「シュナイドさん、ですね。どうぞよろしく」
「ああ」
シュナイドはあまり鏑木と目を合わせなかったが、不思議と不審な人物には見えなかった。バターを塗りたくってパンを頬張る彼の横顔は、どこか憎めない雰囲気を纏っていた。
「そういやあんた、腹減ってないか?」
「え? あぁ、そういえば」
シュナイドに言われ、鏑木は腹をさすった。昨日の夜は酒しか腹に入れていないことを思い出し、空きっ腹にアルコールはさすがに酔うよなぁと反省しながら、今現在の空腹に納得がいった。この部屋一帯に漂う食物の匂いが、さらに鏑木の空腹を促した。
「何ならここで腹ごしらえしたらどうだ? トードの作る料理は何でも美味いぜ? しかもどんな料理もすぐ作っちまう」
「それなりの金は払ってもらうがね」
カウンターの向こうで、割烹着姿の年のいった女性が、並びの悪い歯を見せてにんまりと笑った。さっき学食のおばちゃんを思い出したのは、この人が原因だったのか。顔も手も皺だらけ、スタイルもおにぎりのようなずんぐりむっくりとしたもので、お世辞にも美しいとは言えないが、料理だけは明らかに上手そうな雰囲気があった。
「じゃ、じゃあ、あつ~いお味噌汁が飲みたいなぁ、なんて……」
「おんや、ミソスープとはまた珍しい。一〇分待ちな、そしたらアツアツのを持ってくるよ」
「ほ、ほんとに作ってくれるんですか!?」
「何が悲しくて嘘つかなきゃならんのだい? まったく、若いのにジジ臭い事言うねぇ」
「す、すみません……」
トードが厨房に消えると、シュナイドがカットされた林檎をかじりながら鏑木に訊ねた。
「で、カブ―。お前、例の掃除人について何か情報ゲットできたのか?」
鏑木ははっと我に返り、シュナイドと顔を向き合わせた。
「それが聞いてくださいよ! サコンっていうおっさんに強い酒を飲まされて、聞かされるのは昔の武勇伝だけ。日本刀の地雷掃除人についてはろくな情報が得られませんでした……」
「そうか、それは残念だな」
「あのですね、シュナイド。元はといえば、あなたがあのオカマの所に案内しなければ、僕が酔い潰れる事もなかったんですよ? そこんとこ、ちゃんとわかってくれてます?」
鏑木は真面目に話したつもりだったが、対照的にシュナイドは手をひらひらさせて鏑木を軽くあしらった。
「悪かったって。そう根に持つなよ、ストレス溜めこむと禿げちまうぜ?」
「もういいです、その件については。その代わり、あなたが知っている情報を全て聞かせてもらいますから」
「だから、昨日言っただろ? 俺も奴の事はよく知らんって。んま、その辺にいる連中に聞けば大体わか――」
「レンさ~ん! おはよッス~~!」
シュナイドの後ろから勢いよく、一人の少年が体当たりのような挨拶をかましてきた。シュナイドが前につんのめってカウンターに頭をぶつけそうになる。ただ、それよりも、鏑木は聞き捨てならない事を聞いたような気がして、しばし呆然とする。
「げ、ジョウ!」
「いやぁ、最近レンさんと朝ごはん一緒じゃないから、今日はどうかと思って。レンさんったらここのところ、毎日テッサとばっかり食べてるんですもん。女の子もいいッスけど、たまには僕と食べるのも、男の友情ってもんじゃないッスか~」
「バカ! それ以上何も言うな!」
シュナイドは背後の少年の口に、残っていたロールパンを無理矢理詰め込んで口を塞いだ。何とか少年を黙らせる事はできたものの、シュナイドは罰の悪そうにゆっくりと鏑木の方を振り向く。愛想笑いで取り繕うシュナイドだったが、どのような行為でさえも、目の前の鏑木の言葉を遮らせるものはなかった。
「レンさん……ですって?」




