4-2 鏑木潤一という人物
鏑木潤一には夢があった。
中流階級の家庭で生まれた鏑木は、大きな病気を患う事なく健やかに育った。身長も体重もごく普通で、学校の成績もこれといった苦手な教科はなかった。国語と英語は他人の成績よりも良く、中学生までは何となく良い点が取れる教科としか思っていなかったそれらの教科も、高校生になってからは文系である自分を自覚するようになり、その甲斐あってそこそこ名の知れた大学に入学できた。
性格は物静かで、物事をじっくり計画を立ててやり遂げる事に長けていた。小学校五年の夏休み、始めの二週間だけ毎日二時間こつこつ勉強して宿題を終わらせた潤一を見て、母親は驚いたと言う。受験生になった中学三年の四月上旬、入試までのスケジュールをほぼ完璧に組んで、その紙を茶の間の壁に貼り付けた。その紙の日付が×印で埋まっていく全過程を父親は見届けており、素直に感心したという話もある。
大学に入学後は、友人に恵まれ性格も段々と明るいものになった。少々頑固な面もあるが、個性的な人間が集う大学においては、それは程良いパーソナリティになり、着実に人脈を広げていった。そして大学三年の夏、告白された同学年の美しい女性と初めて付き合うことになった。彼女と共に講義を受け、一緒に昼食を取り、休みの日には旅行にも行った。彼女と行動する度に、鏑木は笑い、泣き、怒り、そしてまたごめんねと言って微笑んだ。その思い出の一つ一つが、鏑木を人間としてひと回り成長させた。
鏑木潤一には夢があった。
――人の役に立つ情報を届けたい。絵本を見て育った幼児時代、小説や図鑑を見て知識をつけた思春期、論文や古典文学にも手を広げ造詣を深めた現在に至るまで、書籍は鏑木の人生に深く根付いていた。
就職活動は順調とは言えなかったものの、志望動機がぶれる事のない鏑木はそれを貫き遠し、遂に希望の1つでもあったテレビ局から内定をもらった。――今思えば、ここが彼の人生の分岐点だったのかもしれない。
テレビ局に入社した鏑木は、その業界では腕利きで知られているという男に出会った。それが緑山和史である。絵に描いた様な心優しい青年でありながらも、仕事の会議では堂々と自分の意見を主張し、上司の発言にも食い下がらない度胸もある。入社一年目でありながら、はつらつとした姿の鏑木を、緑山は疎ましく思った。
そして緑山は、ある番組のコーナーを鏑木に一任した――というのは見せかけで、真実は将来邪魔になりそうな新人を潰そうと企てた、緑山の醜悪な企画だった。右も左もわからぬ新人ADを海外に放り投げ、でっちあげた情報を元に取材させるといった、緑山の立場でなければ絶対通らない企画を強行したのである。
鏑木は焦った。語学留学の経験はおろか海外旅行にも行った事のない鏑木は、彼の持ち前の計画性を発揮することもできず、緑山の言われるままに南アフリカのとある国に飛ばされたのである。言葉が通じないもどかしさから始まり、嘘の情報を日中ずっと調査させられる事によるストレス、それにテレビでは放送されなかったが、銃を突きつけられて強盗に遭ったことだってある。
それでも鏑木は、死の物狂いでそれらを乗り切り、番組が作れそうな具合の撮れ高を持ち帰ることができた。だが、そんな疲労困憊の鏑木を追い討ちするかのように、緑山はその二週間後に新たな地で取材するよう命じたのである。そのような地獄の日々が二年ほど続いたある日の出来事――。
鏑木は突然、長年付き合っていた彼女から別れを告げられた。これ以上寂しい思いはしたくないと……。させたくないと思っていた鏑木は、頷くことしかできなかった。途方に暮れる間もなく海外に取材しに行かなければならないのが、当時の鏑木にとっては幸いに思えた。それからだろうか、鏑木は自分を見失ってしまったのは――。
彼の長所だった高い計画性は、皮肉にも言葉が通じない中での取材で培ったアドリブ力によって打ち消され、そのうえ『計画しなくとも何とかなる』というような、彼の慎重であった思考をも変化させるに至った。その場凌ぎの短絡な思考は、仕事の会議にも悪影響を及ぼし、緑山が手を打つことなく鏑木は自滅していったのである。
鏑木潤一には夢があった。
緑山の横暴な態度に嫌気が差した仲間たちが離れていく中、鏑木は心の隅にあったそれをふと思い出した。視聴率も取れなくなって、海外取材も行けずにその日の仕事を無難にやり過ごしていた鏑木は、見失っていた本当の自分を見つけたのである。
しかし、遅かった。気力も体力も充実していた二〇代と違い、つい先日三〇歳を迎えた鏑木にとって、その夢を叶えるには実績とそれに見合う能力が必要だと、その身に重くのしかかったのである。その両方とも、鏑木は二〇代の頃に培うことができなかった。
それでも、それでも前を向いていれば、いずれはその夢に近づけるかもしれない――そう思ったところで、再び緑山に海外取材を命じられたのである。
機内で物思いにふけっていた鏑木も、見飽きた雲の上の夜空を眺めるうちに、段々と瞼を閉じていった。
*
空港に到着し、税関を通って入国審査を終えたところで、鏑木は空港全体を見渡した。東京から出発した小さなジェット機には、自分とほんの数名客がいたくらいで、機内のサービスも昔と比べれば大分お粗末なものになっていた。化石燃料が底をつきかけ、飛行機代が目を飛び出るほど急騰した今日、海外旅行に行こうなどと思う人間は激減し、かつては賑やかだったであろう空港内は、鏑木の足音が周囲に響き渡るほどに閑散としていた。彩り豊かな看板の下に視線を移すと、無機質なシャッターが店内を遮っており、鏑木は閉塞感さえ覚えた。
立ち往生するのも何なので、鏑木は目に入ったベンチに腰掛けた。待ち合わせの時間まで少し時間があるかなと、左手にある時計を見やったところで、空港内に聞き慣れない外人の声が響き渡った。それはどうやら、自分に向けて声をかけているような感じがしたので、鏑木は声がした方に顔を向けた。視線の先には、手を大きく振って自分の名前を言いにくそうに叫ぶ浅黒い外人の姿が見えた。
「ミスタ・カブラァーギィー」という発音が妙にツボに入り、鏑木はくしゃっと顔を崩してその外人の方へ向かった。握手をかわして改めて彼を見直すと、自分の身長よりもはるかに大きく、一八〇cmを優に超える体格の持ち主だった。褐色の肌と少し色の抜けた黒髪、そして南米系特有の陽気な雰囲気を合わせ持つ青年は、笑顔で挨拶をかわした鏑木と同様、屈託のない笑顔で鏑木を迎え入れた。散々海外取材を経験した鏑木の直感は、この人は信頼するに足る人物だと告げた。
「カブラギさんですね? 初めまして、僕はサンタナって言います。本部から連絡があったので、お迎えにあがりました」
「こちらこそよろしく、サンタナ。極東テレビの鏑木です」
英語で答えた鏑木は、ほっと胸を撫で下ろした。南米系の言語は、数々の地に赴いた鏑木でさえも手を焼くほどに理解しがたいものであるため、初っ端からボディランゲージを駆使するまでもなくまともな会話ができたことに、鏑木は幸福感すら感じていた。知っている単語をそれとなくつなげて話せば相手に伝わる――英語が世界的な公用語である所以だ。
「カメラ、回してもいいですか?」
「え? あぁ、別に構いませんけど、撮るものなんて何もないですよ」
「まぁまぁ、いいじゃないですか」
カメラをサンタナに向けると、彼は照れくさそうに笑ってウインクをした。彼の人当たりの良さが窺える。そのまま二人は空港を出て、停めておいたジープに向かった。鏑木が助手席に乗り込んだところで、サンタナは用意していた地図を指差した。
「先日連絡した通り、ここから先は車での移動となります。……まぁ、半日もかからないと思いますが」
「その程度なら大したことないですよ」
「へぇ、見た目によらず結構タフなんですね?」
「職業柄、慣れてしまいまして」
力なく笑う鏑木を不思議そうに見ながら、サンタナは車のエンジンをかけて走らせた。小型ながらも高性能なハンディカメラを横にいるサンタナに向けて、鏑木は話を続ける。
「サンタナ、道中色々な質問をしてもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「実は今回、僕はある地雷掃除人を探してここまで取材しに来たのですが」
「はいはい」
「実はその地雷掃除人――なんと、日本刀で地雷を撤去しているみたいなんです!」
「日本刀? ――あぁ、それってレンさんのこと?」
サンタナは少し考えた後、さらりと重要な情報を答えた。どうやら彼はその人と面識があるらしい。勿体ぶった話し方をした鏑木だったが、思いもよらない返答に面食らった。
「え!? その人のこと、ご存知なんですか!?」
「知ってるも何も、週に二度は一緒にごはんを食べる仲ですよ」
「……そうなんですかぁ」
鏑木は気の抜けた相槌を返した。有力な情報がすぐに得られるなんて、鏑木の取材経験を鑑みるに初の出来事であったからだ。それもそのはず、過去の取材は全て、緑山が仕立て上げた巧妙なデマによるものなのだから、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするのも無理はなかった。
「でもカブラギさん、ついてないですね。今回の取材はすっごい苦労すると思いますよ」
「何故ですか?」
「あの人、カメラに映るのが大嫌いなんです。この前も、あなたみたいに取材に来た人を目の敵にして、インタビューはおろか、その人がいる間は一切仕事しなかったですし。とにかく、頑固な人なんです」
「は、はぁ……。そう言われましても、取材に来た身としては、何か収穫の一つでもなければ帰れませんよ」
日本刀を持つ地雷掃除人を現地で調査する。可能であれば本人の許可をもらって、インタビューや実際に地雷処理している様子をカメラに収める。――それらが達成できなかった場合の事は、あまり考えたくはなかった。
「でしょうね。高い金払って遠路はるばる来てくれたわけですから、組織の一員である僕も、それなりに応援させてもらいますよ」
「サンタナの方から、何とか彼を――レンさん、でしたっけ――説得してもらえませんか?」
「一応やってみますけど……。期待しない方がいいですよ? あの人、相当な頭でっかちですから」
「駄目元でいいです。お願いしますね!」
鏑木は語尾を強めてサンタナに懇願した。彼の必死な様子を怪訝そうに窺いながらも、サンタナはとりあえず「はい」と返しておいた。
ハイペースで取材を進めては体力が持たないため、鏑木はカメラを止めて窮屈だった体勢を元に戻した。元々空港は郊外にあったので、フロントガラスの先に見えるのは、太陽が厚い雲に遮られた陰々な風景と、ひび割れだらけのコンクリートの道路だけだった。次にカメラを回すのはトイレ休憩の時かな、などと鏑木が考えていると、運転席のサンタナが急に声を上げた。
「あ、やば! ま~たやっちゃった……」
「どうしたんですか? サンタナ」
ハンドルに額を当ててうなだれるサンタナが顔を上げたかと思いきや、渋い表情で淡々と答えた。
「あのね、カブラギさん。あの人を取材できない理由がもう一つありました」
「……教えてください」
「彼には、すごく優秀なパートナーがついてるんです。どのくらい優秀なのかというと、今、僕らの会話を盗聴しているくらいに」
「……え゛」