1-1 朝のひととき
時計の秒針は規則的に一定のリズムを刻む。それと同時に時が進むなんてのは当然の事だが、睡眠と覚醒の狭間にいる時は一秒が一時間になってくれやしないかと望むものだ。だが、時計は無慈悲という規則性をもって針をカチカチと回す。その音をいつの間にか頭の中で刻んでいればやる事は一つだ。右手を伸ばしきってやっと届いたそれを薄目で覗くと、ちょうど朝の七時を回ろうと、秒針が『5』から『6』の場所に移動しようとしている。俺はそれを見て悠々と、裏にあるスイッチをオフに切り替える。
――勝った。
目覚まし時計がやかましく鳴り響く前に、颯爽とスイッチを切り替えて気持ちの良い朝を迎えるのが、俺の朝のルーチンである。別に好きでやっているわけではないが、それが成功すれば、優越感との相乗効果で爽快感が増し、失敗したとしても、今日は体調のリズムが崩れていると判断できる。
「……う……ん」
寝惚けたままであったが、次にやる事も決まっているので体が勝手に動く。脇に冷たさを感じつつ、寝ぼけ眼でうとうとする数秒間ほど心地良いものはなかった。だが、その至福のひとときは電子音をもって強制終了させられる。
「三六度九分……微妙だな……」
自分の体温が示されたデジタル表記をなんとなく読み上げてはみたものの、これといった変化は見られなかった。それはそれで幸いなのだが、三六度九分、という結果があまりよろしくない。そのためなのかはわからないが、体温計をしまったら部屋からさっさと出るという、一連の行動を取るまでいささか時間がかかった。
仕方ない、こういう日もあるさ……。そう自分に言い聞かせ、俺は一階にある食堂へと足を運ぶのだった。
「よぉレン、相変わらず湿気た面してるじゃねーか」
「ふん、俺は毎日あんたの薄汚いヒゲ面を拝んでるがな」
食堂に着くなり、挨拶代わりの捻くれた会話をするのが日課のようになっているのだが、決して望んでやっているわけではない。朝っぱらから、作業着を着た中年に話しかけられて、こっちのテンションが上がるはずもないだろう。
「お前さんのような若造には、この俺のヒゲの凛々しさが理解できんか……。まったく、何にもわかっちゃいねぇよ」
「ぬかせ」
相手にしていても長引きそうなので、適当に区切りをつけて会話を終わらせる。慣れたもんだ。カウンターに肘をかけて待つこと数十秒、目の前にはトースト半分、焼きたてのベーコンエッグ少々、コーヒー一杯、水一杯、イチゴジャムが入った小鉢が俺の前に並ぶ。俺専用の朝食だ。
厨房にいるマザー・トードに、目配せだけの軽い挨拶を済ませ、適当な場所に腰掛けてコーヒーを飲もうとすると、一際大きな声で食堂に入ってくる輩が、こちらに気づいて向かってきた。
「レンさ~ん! おはよッス~!」
「ジョウか、おはよう」
「あれ~、今日のレンさん元気なくないッスか?」
「寝起きだからさ。だから、耳元でデカい声で話すのはやめてくれ」
俺がジョウと呼ぶその男は、周りの目など気にせずに、小柄な体格の割にはやたらと声が通るやかましい奴である。慕ってくれるのは構わないのだが、俺のことを見つけたら、とりあえず俺の名前を叫んでみる癖は、何度注意しても直そうとしない。
「やっだな~レンさん。人と話すときは元気よく! って、学校で習いませんでした?」
「そうだな。それができてるお前さんは、たいした奴さ。本当、冗談抜きで」
「僕ってば、たいした奴ですか!?」
しかも、皮肉交じりに返した言葉も真に受ける正直者なだけにタチが悪い。言葉を濁しても何の進展もありゃしないので、俺は仕方なくジョウに自分の本音をぶつけるのであった。
「そうさ、お前はたいした奴だ。だから寝起きの俺がメシを食おうとしている時はせめて、黙っていてくれないか」
「ありゃ、もしかしてレンさん機嫌悪い?」
「悪くはないさ。ただ俺は、焼きたてのベーコンを冷めないうちに食いたいだけだ」
「うへ~い。じゃあ僕、あっちで食べてくるッス」
肩をすくめて離れていくジョウを横目に、やっと食事にありつけると意気揚々としてフォークを手に取った矢先、腰につけていた液晶無線機がピーピーと鳴った。嫌な予感がして二秒ほど考えたが、俺がそれを取る以外にこれっぽっちの選択肢もなかった。
「おはようございます、レン」
宙に浮いたモニター越しに見えるのは、傍から見ればなかなかのグラマラスな女性なのだが、どうにも俺の気分がいまひとつ上がらないのは、彼女の性格を知っているからと、彼女とは、ほぼ九割の確率で仕事に関する話題しか話さないからである。要するに、仕事上のパートナーなのだが……。
「おいおい、うちのパートナーはメシも満足に食わせてくれないのか?」
「それはお互い様です。私も朝食を取る前に、こうして貴方に連絡しているのですから」
「……じゃあその手に持っているものは何だ?」
「見てわかりません? これは食後のハニードーナツ」
「もう食ってるんじゃねーか!」
「あらあら、朝からそんな大声を出して……。血圧が上がりますわよ?」
お聞きの通り、食っても食えない、煮ても煮え切らない、どこまでが本気で言っているのかわかりかねる、面倒くさい相手だ。これで仕事のほうは迅速かつ正確、俺に対するアフターケアも抜かりないのが気持ち悪い。
仕事以外の一割の会話がこんなんだから、パートナーとして半年くらい経った今でも、彼女のペースに巻き込まれた形でやりとりをしている。
「はぁ、もういい。それであんたは何の用だ? まさか、俺の朝食の邪魔をするわけじゃあるまいし」
「本日の仕事について、ですわ。耳に入れていただきたい情報が――」
そこまで聞いて、俺は彼女の名前を言って話を遮った。
「ルゥ、悪いな」
「どうしました?」
「今日は俺、パスしとく。体温がいつもより〇.五度高くてな」
「〇.五度……そうですか。しかしそれならば、違約金を払ってもらう事になりますわよ?」
「承知の上さ。俺は万が一にも死にたくないんでね」
世の中に体を張って仕事をする連中は山ほどいるが、命を張って仕事をする人間がどれほどいるのか知りたいもんだ。その中でも、今、最もホットな職業として世界中で報道されているらしいのだが、俺にしてみればいい迷惑だ。
だいいち、俺はこれで飯を食うとは思ってなかったし、今の仕事が商売として成り立っているのかどうかも怪しい。リスクの割に、いまいち収入が多くないようにも思えるのだが……。何にせよ死ぬのはごめんなので、ほんの少しでも体調に変化があれば、俺は絶対に仕事をやらない事にしている。体温で言えば、〇.五度以上高ければ問答無用でパスする、というのが俺のルールだ。
「一番危険度の高いやり方で仕事している人の言葉とは思えませんわね。それでしたら、もっとセーフティな方法を選んだらどうですか?」
呆れた顔でルゥは俺に尋ねた。
「掃除の仕方はあれしかわからん。今更やり方を変えてる場合じゃねえし」
「ロートルな職人気質で、そのうえ神経質ときたら手の施しようがありませんわね」
「おい、聞こえてんぞ」
「当たり前でしょ? 聞こえるように言いましたもの」
「…………」
ルゥと会話をしていると無駄に疲れてしまう。というのも、何を話すときも彼女のほうが俺よりも一枚上手だからだ。
……年上の女はどうも苦手だ。
俺は声を詰まらせて、モニター越しの彼女の視線を外すほかなかった。
「まぁ、キャンセルすると言うのなら私は構いませんが、そこまでして貴方を突き動かすものは何なのか、少しだけ興味が湧いてきましたわ。教えてくださる?」
「あんたの言う通り、俺は病的なまでに神経質だ。だから自分のやりたい事には、一つの綻びも許さず徹底して打ち込みたい。たったそれだけ、それ以上でも以下でもないさ」
「わかりました。これ以上は何を言っても無駄のようですね。手続きは私のほうからしておきます。では、また明日……」
「お、おい!」
俺の言葉を待たずに、ルゥは無線を切った。長テーブルに置いていた液晶無線機が、役目を終えて空中のウィンドウを閉じる。
「ったく、一方的に切りやがって……。あれで愛想があれば理想的なんだがな」
「無愛想で悪かったですわね」
「うおっ!」
と思ったら、再びウィンドウが宙に出現し、先程と変わらぬクールな口調でルゥが切り返してきた。俺は思わずビクッとしてしまう。
「一つ、伝えるべきことを忘れていましたので」
そう言うと、ルゥは小さなメモを取り出し、それをすばやく読み上げた。
「今から約三時間後に、貴方宛の郵便物が届きますので、対応の程、お願い致しますわ」
「郵便物? 中身は何だ?」
「それは届いてからの お・た・の・し・み♪ ですわ」
「そういう愛想は求めてない。それに、そこまで棒読みされる俺の身にもなってみやがれってんだ」
「あら、厳しいことですこと。それでは、今度こそまた明日……」
テンションとペースをほとんど変えないまま、ルゥはさっきと同じような感じで一方的に無線を切ってしまった。長々と説明されるよりはよっぽどマシなのだが。
「お、おい! ……まったく、あいつのやることには程々ってもんがないのかね」
*
すっかり焼きたてではなくなったベーコンとトーストを平らげ、食器を戻して部屋に戻ろうとすると、ジョウが小走りでこちらに近寄ってきた。
「レンさ~ん! 今日の仕事パスするってホントッスか?」
「あぁ、本当だが」
「ざ~んねん。今日は僕も同じトコで仕事だったのに。グスッ」
本当に残念そうな顔をするジョウを見て、俺は昔住んでいた所の近所の子供を思い出した。都合が悪くなるとすぐ顔に出るとこなんかそっくりだ。
「悪いな。だけど今、俺は心底ほっとしたよ」
「何がッスか?」
「俺はほら、一人のほうが集中できる性格だし。それに、お前のやり方は危なっかしくて、見てるこっちがヒヤヒヤしちまう」
「まったまた~! レンさんそれ、人のこと言えなさ過ぎッス。僕のちょいとデンジャラスなやり方が1ヒヤだったら、グスッ、レンさんのは余裕で100ヒヤもんですって」
ジョウのよくわからんたとえはいつもの事だから軽く流したが、それよりも、言葉の合間に鼻をすする動作がかなり気にかかった。
「……? ジョウ、お前もしかして風邪ひいてるのか?」
「え? あぁ、鼻風邪ッスよ。グスッ。問題なしなし!」
「だが……」
職業上、一つの油断が文字通り命取りになってしまうので、風邪をひいたらとりあえず休むのがこの仕事の定石だが、どうもこいつにはそこんところの認識力が足りないらしい。屈託のないガキのような笑顔で――実際にジョウはまだ、二十歳も超えていない尻の青いガキなのだが――俺に肘をつつきながらこう答えた。
「そんなにコワい顔しない! 僕だってプロなんですから、大丈夫ですって!」
「自覚があるんなら、普段からそれらしく振舞えってんだ。まぁいい、薬は飲んどけよ。おちおち死なれてもこっちが困る」
「わお、レンさんやっさし~い! そんじゃ僕、支度してきますね~!」
俺が階段を上りきらないうちに、ジョウは足取り軽く自室へと戻っていった。もう少し強く言っておいたほうがよかったかと思ったが、あいつの言う通り、俺のやり方よりは幾分かは安全なので気に留めなかった。
自分の部屋に戻り、つけっぱなしにしていたPCでインターネットを開くと、トップニュースは相変わらず、ここサヘランの話題で持ちきりだ。それもそのはず、今、人類は誕生して以来の危機に瀕しているのだから。
二一世紀が始まって三十数年、医療技術の発展により人口は爆発的に増加した。しかしそれとは対照的に、地球上に蓄えられていた化石燃料はついに枯渇の一途を辿った。
もって後三年。それが専門家が出した楽観的な数値であり、実際には石油の馬鹿げた急騰のおかげで、どこへ行っても日常生活がままならないほど、人類の衰退は見て取るようにわかった。
もちろん、地熱、風力、水力や原子力、再生可能なエネルギーと、日々作られるエネルギーはフル稼働している。だがそれでもなお、使用され失っていくエネルギーに地球のほうが耐え切れなくなったのだ。
「人類が進化の代償として犯した罪の愚かさを悔いるがいいと、神がお怒りになったのだ」
――と、どこかの狂信家がテレビで言っていた。
そんな中、中東のサヘランというある小さな国で、化石燃料に代わる莫大な新エネルギーが埋没されているのが見つかったと、世界的に報道された。なんでもそのエネルギーは非常にクリーンで、使用しても二酸化炭素などの地球温暖化に影響を及ぼす副産物が発生しないらしい。人類にとってはまさに救世主と呼べる代物だ。その報道直後、先進国が躍起になって、サヘランにそのエネルギーを全世界に提供するよう要求したが、サヘランはそれを断固拒否。自国だけで使用する宣言をした。
というのも、サヘランという国自体が、度重なる宗教間での争い、さらにはごく最近まで先進国の植民地だったという歴史もあり、そんな侵攻や奪還の果てに生まれた、誰も汚すことは許されない『聖地』となっていたからだ。その『聖地』に余所者がメスを入れるような事は、閉鎖的な国民性を持つサヘランの人々にとって、どんな罪よりも重いものであった。他国の人間が愚行に走る前に、彼らがその『聖地』を封印せんとするのは火を見るより明らかだった。
だが、そうなると国連が黙っちゃいない。国連は『人類存亡のため』という名目で、力尽くでサヘラン国内に侵入しようとした。普通ならこの話はこれで終わりで、人類はこの行為を『正しき侵略』として正当化した事だろう。だが、『正しき侵略』はサヘラン政府の妨害行為により失敗に終わった。サヘランはインド洋に面していて、山脈に沿って国境が敷かれている。まず国連は、隣国を渡って押し入る予定だったが、ある理由により撤退。すぐにインド洋からの侵入も試みたが、これも同じ理由によりやむなく撤退する。サヘラン政府はあろうことか、他国を寄せ付けまいと国境付近や航路海路にある兵器を無数に設置していたのだ。
その兵器というのが、何とまぁ、このご時世に似つかわしくない、地雷なのだ。
こうなると、サヘランという国の至る所に地雷が置かれていると判断した国連は、上空からの侵入も不可能と判断し、侵略行為を一時中断させた。だが、そんな事で退き下がるわけにもいかない国連は、各国の地雷について詳しい専門家や撤去のスペシャリストを緊急召集した。俺はその後者にあたる。何とかして国中に敷き詰められた地雷を撤去し、突破口を開くというのが俺たち地雷掃除人に課せられた任務だった。
誰も戦争なんか望んじゃいないし、話が通じないなら手段は選ばないという時代は終わった。だから、あくまでも平和的解決を希望するやり方を選んだ国連は評価すべきだが、その皺寄せが現場の俺たちに降りかかるというのは嬉しくない話だ。化石燃料がなくなるのが先か、それとも俺たちがサヘランへの道を拓くのが先か……。
とにかく時は一刻を争う。逐一監視されている感じが気に食わないが、そうも言ってられないほどに人類が追い詰められてる、というのが現状だ。
しかし、俺たち掃除人が死んでしまったら元も子もない。今日は完全にお休みモードだ。少しばかり体温が高いのをかこつけて休んでやがる、とは思わないでほしい。何度も言うようだが、死んじまったらそれまでなのだから。
たまの休みに、少し張りつめていた気持ちを和らげることができた俺は、どっと眠気が押し寄せてくるのを感じた。ベッドに横たわって目を瞑り、そして次に目を開けた時には、時計は既に朝の一〇時を回ろうとしていた。