10-16 決別
――ここは?
数度の瞬きから、俺の意識は現実へと舞い戻ってきていた。LED特有の白光とは異なる、やや黄ばみがかった照明が俺の見ている景色を照らす。既視感のあるベージュのビジネスシートが周辺に整然と並んでいる。窓には青空と飛行機の主翼が映る。感覚を澄ますと、ゴーッという驟雨にも似た環境音が耳に圧迫感を与えてくるのがわかる。
そうだ。俺はサヘランに帰るために飛行機に乗っているんだ。そして空港で偶然ダックスと再会して……。横を向くと、十年前と何も変わらない友人が物憂げな表情でそこに座っていた。――ああ、嘘を言ってしまった。何も変わらないわけがなかった。憂う彼の視線の先には、無機質な黒い義足があった。驚きと落胆が言葉を詰まらせる。
ほんの数分前まで、ダックスと思い出話に花を咲かせていた事は覚えている。ドーバー教官の部屋で筋トレをやらされている間に教官が酔いつぶれて、ダックスは何を思ったか教官の下着を持ち帰り狂喜乱舞した事。後日それがバレて男全員ブーメランパンツ一丁で三日間を過ごす羽目になった事。チェーというベトナムならではのスイーツを巡って一悶着があり、最終的に何故か教官の前で首輪をはめられて犬食いさせられた事。サプマク寮の窓から屋上に這い上がり、満点の星空の下、野郎だらけの哀しきロマンスに暮れて友情を深めた事。部屋に戻る際にダックスが手を滑らせ、三階相当の高さから落下しそうになった事。ダックスが情けない悲鳴をあげて結局それも教官にバレちまった事。ろくでもないがかけがえのない甘美な記憶。そして俺はいつの間にか、禁忌の扉に封印していた記憶に意識を奪われていたのだった。
時間にしてどれ位だろう。五分? いや一分? 十秒? それとももっと短い沈黙の間の時間旅行だったのだろうか。『思い出す』って言葉よりも鮮明に、強烈に。おかげで全身が汗ばんでいた。
俺が深い息を吐いて座り直すと、ダックスは喋りすぎて嗄れた声を発した。
「まぁアレ以来、誰と話しても対応のされ方がぎこちなくってよ。それが唯一の不幸っつーか、俺としてはもっと普段通りにしてくれたほうがよかったんだけど」
ダックスはあの惨劇をたったの二文字で振り返った。塞ぎごみがちな俺への配慮なのか、彼自身あまり触れたくなかったのか、俺にはわかるはずもなかった。どうしようもなく俺の中にある呵責がついてまわる。その事実だけが心の在処を追求しようとしていた。それがあまりにも重くて顔を落としていると、懐かしささえ感じる旧友の声が早口で俺の耳に届いた。
「おい何だ? おろし立てのスニーカーで野グソ踏んづけたような顔しやがって。おおかた俺が地雷踏んづけた時の事でも思い出してたんだろ?」
ピクリと体が反応してしまう。目を泳がせる俺をダックスはじっと見つめた。自らの禁忌にダックスは足を踏み入れようとしていた。そして俺たちの失われた十年間を、今、この場で清算しようというのだ。
大きな二つのものが俺の中に押し寄せる。ごめんと謝るべきか、生きていてくれてありがとうと言うべきか。正解がまるでわからない俺は、そのどちらでもない事を声にして絞り出そうとした。
「俺があの時――」
「そこまでだ」しかし、俺の言葉は早々に遮られた。「お前があの時、偶々地雷のあるポイントを見逃したのも、俺の地雷探知機がイカれちまってて反応しなかったのも、悪い偶然が重なっただけだ。俺の運が……悪かっただけさ。結果はこのザマだが、俺はまだ生きてる。何の不満がある? ねぇだろ」
「しかし……」
そう発したものの、次に出てくる言葉が見当たらなかった。ダックスの地雷探知機が故障していたというのは後に判明した事実で、誰も俺を責める事はなく、むしろ励ましてさえくれた。ダックス自身もそう言ってくれている。しかし――
運が悪かったという言葉だけで、五体満足ではなくなった現実を片づけるなんて俺にはできなかった。不満があるとすればそう、俺があの時、会話に夢中になって気を緩ませていた事だ。俺が抜かりなく地雷捜索をしていれば、少なくとも健康なダックスが隣に座っていたはずなのに。変わってしまった惨い運命を悔やみ、運命というものの惨さを嘆くばかりだった。
「あの後、トゥロイネンは逃亡。シャウとメーヴェルは残ったけど、軽度のPTSDを患い前線に行く事はなくなった。優等生組がこんなボロボロになったもんだから、リタイアする奴らが後を絶えなくてプロジェクトは壊滅状態。んで、極め付けはお前だ、レン。顔を合わせる事なく蒸発したお前が、今さら何を語ろうってんだ? え?」
ダックスの語調が強まるのと比例するように、俺の心を強く締めつけるものがあった。仲間との出逢いや交流を経て、少しずつ元の形に戻りつつあった俺の精神を再び粉々に打ちひしぐもの。それが俺に『逃避』という、解決策にならない解決策をもたらしたのだ。
ただ、俺は文字通り逃げ出したわけではなかった。このままではダックス共々廃人になってしまう。どうせ廃人になるくらいなら、地雷という憎むべき兵器を片っ端から一掃できるような、役に立つ廃人にさせてくれ。それがあいつへの罪滅ぼしになるから……。泣き崩れながら、俺はパールにそう直訴してベトナムを離れた。言うなれば積極的な逃避だった。
しかしダックスにしてみれば、友人だと思ってた奴が責任逃れのために蒸発しやがったと思った事だろう。裏切られたと思われても仕方のない愚行だった。もう会う事はないだろうと腹を括っていたのに、望まれぬ再会は果たされてしまった。
どんな罵声を浴びせられても文句は言えねぇな。座り心地のひたすら悪い座席にくたびれて俺はそう観念した。だが、次にダックスが発した台詞は俺の予想に反するものだった。
「俺がお前に一番ムカついてるのはなぁ、いなくなる前に手紙やメールの一通も残さなかった事だ。ダチとして、せめてそれくらいの義理があるってもんだろ。それについてはちゃんと謝れ。ほら早く!」
怒り心頭を露にするような身振りで俺を小突くダックス。意表を突かれてしまった俺は、なすがままに頭を下げた。
「わ、悪かった。……すまん」
「オーケイ、ブラザー。俺は神より寛大だから慰謝料までは取らねぇよ。サヘラン着いた後に、とびきり美味い飯と酒を奢ってくれたらな」
ダックスの言葉を噛み締める度、絶えず蔓延っていた心の澱が取り除かれていく。親友がそこにいるという尊さに比べれば、失われた時間などはまるでどうでもよくなった。これから彼に奢らねばなるまい二〇〇ドルほどの夕食の支払いも然り。何よりも代え難い価値あるものがそこにあるのだから。俺は決別を心に決めた。親友や呵責にではない、愚かで臆病だった過去の自分に。
そのためには少々、彼のひょうきんな語りに乗らなければならない。フッと口角を上げて、俺はいつもと変わらぬ調子で返事を返した。
「あいにく行きつけの店はひとつしかないんだが、味は保証するぜ」
「そりゃいいや。旧友との再会を祝してパーッといこうぜ! そうそう、ここのオペレーターは上玉揃いっつー情報が舞い込んでいるんだが、それは本当か?」
「みてくれはいいぜ。性格はドーバー教官をマイルドにした感じだが」
「たまんねぇじゃねーか!」
迷惑だと知りつつも、客室に陽気な笑い声をついつい漏らしてしまう。いつの頃からだろう、皮肉や減らず口が多くなったのは。でもそんな陰気な自分は実は別物で、本当はダックスと似たり寄ったりのはた迷惑な自分が本物なのかもしれない。
「そういやダックス。お前、オペレーターは雇ったのか?」
「ん、それについては追い追いな。そんな話はどうでもいいんだよ。俺という男はな、レン、いつだって親友のオンナがどんなのかに興味があるんだ。俺たちもいい齢だ、遊んでばっかじゃいられないお年頃なのさ、だろ?」
「ハッ。自分で言うのも寂しいが、この堅物が遊んでいるように見えるか?」
「はぐらかすなよ。俺たち親友だろ? ノロケならいくらだって――」
他愛のない会話で、親友の健在ぶりを再確認する。お前こそ、リハビリ手伝ってくれた看護師に手ぇ出したんじゃねのかよ? そういう際どいジョークを口にしようとした時、俺はダックスの異変に気づいた。会話の途中で不自然に途切れるダックスの声。嫌な雰囲気を感じずにはいられなかった。
「どうした、ダックス?」
「痛っ……ぐっ……!」
右の腿を両手で抑えるダックス。今までに見たことのない苦悶の表情を浮かべていた。突如、俺の脳裏にある言葉が過ぎる。幻肢痛。失われた四肢が痛みだすという症状。
「お、おい! 脚か? 脚が痛むのか!?」
ダックスは答えなかった。あるはずのない彼の右脚が彼自身を、そして俺までも苦しみに悶えさせるというのか。そうまでして俺の精神を削ろうというのか。それとも、これがダックスの本心とでも主張しているのか。何にしろ、俺の声が恐怖の色に染まるのは必然だった。
「ちくしょう! 待ってろ、すぐにCAを……!」
俺の肩がダックスの強張った手に掴まれる。わなわなと震え、指がめり込みそうになるほどの握力を感じる。いよいよこいつは只事じゃないと立ち上がろうとすると、それすら抑え込まれて俺はしばし呆然としてしまった。
肩に込められた力がふっと和らぐ。そしてダックスの手はポンポンと俺の肩を軽く叩き、それが徐々に勢力を増してポンポンからバシバシに変わっていった。
「嘘ぴょ~~ん!!」
顔を上げた親友は――このクソ野郎はそう抜かしやがった。おちゃらけたスマイルを俺にくれて。これが悪戯好きのあいつのタチの悪い冗談だと理解するのに、俺はしばらく時間を要してしまった。そして全てを悟った途端、全身の力が抜けて座席からズルズルとずり落ちてしまった。
「てっめぇ……!」
「プ、ハハハッ! その顔、マジウケる」
「く……。ハハッ」
頭の中にあるものを処理しきれなくなって、結局俺の脳みそが下した命令は『笑っちまえ』という投げやりなものだった。本当にもうくだらなすぎて、目から涙まで出てきやがった。夢にまで見た光景――いや、もう叶わぬと諦めていた親友との交流。馬鹿げたやりとりでさえ上等だった。
親友との止まっていた時間の針は、空港で再会した時には実際まだ動いていなかった。真に進みだしたのはまさに今、いい齢した大人二人が飛行機の中で、迷惑な笑い声を上げてタッチを交わした瞬間だったのだ。