10-15 運命の日(4)
それまでの威勢が嘘のように、涙ぐみ懇願するシャウの姿がそこにあった。瞳を潤わせる彼女を無下にする事はできず、頭に昇っていた血がスッと引いていく。
「怖いの私も……。こうしてあなたと話してるだけで精いっぱい……。まともに動けるような状態じゃない。だって下手したら、私たちもああなるかもしれないのよ!?」
「そんなのわかってる。でも」
「パールさんに何を教わったの? こんな状況に陥った時のためのマニュアルでしょ!? レン、あなただってあの時答えたでしょ、俺には無理だって。ねぇお願い、私の言葉は信じなくてもいいから、パールさんの言葉を信じて!」
「何だよそれ。信じる信じないじゃないんだよ……!」
俺は吐き捨てるようにそう言った。頭の中で理解はできている。マニュアルには従ったほうがいいと思うし、やはり無理だと結論付ける自分もいる。けれど何よりも、建前の後ろに潜む俺自身が涙ぐんで主張するのだ。友を見捨ててはいけないという行為を、愚かな選択を。
「今助けに行かなきゃ、あいつが……。ダックスが死んじまうだろうが……! 見捨てられるわけねぇだろうが!」
今度は俺が懇願の眼でシャウに訴えた。思いを口にしたことで、放つ言葉に覚悟が宿った。
「頼む、シャウ。ダックスのところへは俺が行く。だからお前は退路を確保しておいてくれ。大丈夫だ、お前は来た道を辿るだけでいい。やってくれるな?」
「……それなら、何とか。でもメーヴェルは?」
「グズはほっとけ!」
「そんな言い方しなくても!」
「ああもう! 口答えはいいから早く行けぇ!」
俺のことをキッと鋭く睨んだ後、シャウは地雷探知機を片手にゆっくりと勾配を下りていく。それでも彼女の足取りは通常とは異なり、恐怖に気圧されて上体が後ろに反れている。最後に言い放ったのが罵るような命令口調である事を、俺はひどく後悔した。
「レン君。ごめん、私、何も……」
傍らで泣き崩れるメーヴェル。様々な感情がふつふつと沸き起こる。まるで臆病な自分だけをくり抜いて鏡で見ているような気分だ。哀れみと怒りが膨れ上がり、汗で濡れた拳が勝手に震えだす。
――心配するな。お前は何も悪くない。
――お前が愚図ついてなけりゃ、ダックスを運べたかもしれないのに。
浮かんでは消える台詞を押し殺し、俺はメーヴェルに背を向けた。
今はダックスのもとへ向かうのが先決だ。こいつに構っている暇はない。
怖いのは俺だって同じだ。膝が笑ってまともに歩くのもままならない。
それでも地面を踏みしめて歩き出す。先を行く足に恐怖が纏わりつこうとも。
生きた仲間の涙声を背に受けて、俺は安否不明の仲間のもとへと向かった。
一歩、また一歩と進んで行くうちに、俺は不可思議な感覚に見舞われた。生死の境界線に立たされたが為の高揚感、とでも解釈すべきだろうか。行く手を阻む木々の樹皮、葉の一枚、葉脈のわずかな窪みさえも明確に視えるような感覚だった。斜面になっている足場も、視覚と足裏の感覚が見事に一致して、小枝を踏み折る音すら予想できるほどだった。
ダックスの所までおよそ三〇m。近そうに感じるが、あらゆる器官からの情報量がすさまじいからなのか、いっそう遠くに思えた。
今下りている傾斜はそれほどでもないが、ダックスの倒れている右側のすぐ傍二mほど先は崖のような急斜面になっており、そちらの方からは回り込めない。そのうえ、このまま直進しようとすれば生い茂る藪が阻んでいる。足場の状態もかなり怪しい。
一旦、俺が先ほど通った足跡を辿って下りていくべきか否か。そのような選択を頭に思い浮かべながら、藪を手で抑えて義務的に探知機を地面に差し出した、その時だった。
ピーーーッ
突如発せられる電子音。思わず上体を反らし、たじろいでしまう。
心音が跳ね上がる。何が起きたかわからなかった。けたたましい電子音はすぐに消えた。
たじろいだ拍子に地面から放してしまった地雷探知機。おそるおそる、再び同じポイントに差し出してみる。
ピーーーッ
戦慄、というものが全身を走る。ザワザワと微弱な電流のように、全ての毛穴を駆け抜けていく。
探知機が反応した。すなわち、俺の爪先から一mもない場所に地雷が潜んでいる!?
身を屈めて、地面の様子を窺ってみる。すると、茂る藪の真下、白い花弁をつけた花の陰に、黒い土に埋もれた缶詰のような物体の一部が露になっていた。パステルカラーの人工的な緑色の物体――PMN2圧力式爆風対人地雷。奇しくもそれは、実技試験の際に使用されたのと同一のものだった。
シャウは正しかった。俺が見落としていた場所はまだ地雷が残っていたのだ。しかもこれ一つとは限らない。ダックスの周りには、眠っている地雷がいくつも……。
とてもじゃないが地雷のある上を跨いで行く事はできない。時間のロスになるが、崖のない方から回り込もう。だが、こうしている間にもダックスの命が……!
唇を噛みしめて、俺は自分の足跡がある横の方へと進路を変えた。地雷探知機が反応した以上、もう傾斜の地面の全てが当てにならない。敏感になった感覚の所為で、恐怖という要らぬ感情も増大し、先を急ごうとする足取りが侵食される。
これが地雷原を歩くという恐怖。足首から下が痺れて泡立つような錯覚。探知機が反応せず前方の安全を確認しても、俺の生存本能が動くなと拒絶する。もう一度爆発音を聞いたその時が、お前の生物としての自由を奪われる瞬間なのだと警告する。
胸が張り裂けそうなほど痛い。でも行かなければ。あの時とは違う。大切な人が死ぬ瞬間を受け入れるしかなかったあの時とは違うんだ!
脳裏には、俺がベトナムに来る以前の記憶が蘇っていた。封じようがなかった。どれほどの呵責を背負い、押しつぶされる間際に異国の地に逃れたというのに。直面せざるをえない別の呵責が邪悪な微笑みを浮かべていようとは。
そしてその呵責は、ひ弱な存在である俺にさらなる試練を与えたのだ。
森林のわずかな機微を感じ取った瞬間、腕のところにポツリと落ちてくるものがあった。まさかと空を見上げると、燦々とした太陽がぶ厚い雲に覆われている。ひとつ、またひとつと滴るものは次第に勢力を上げて山林全体に行き渡り、激しく打ちつける音とともに瞬く間に世界を水浸しにしていく。
「スコール……。何でだよ、何でこんな時に……!」
降りしきる驟雨に向かって、俺はそう嘆いた。目もまともに開けていられないほどの強い雨粒が全身を襲う。靴の中さえ一気にグショグショになった。ダックスが心配で振り向いたが、これほどのスコールだというのに一向に起きる気配も見られなかった。
「レン君! もうダメよ! 動いちゃダメ!」
上の方からメーヴェルの声がしたが、俺はそれに従わなかった。気のせいだろうと有耶無耶にした。足元がぬかるみ、足を取られる危険が増すなんてのはわかりきっている。
だけど、俺は歩みを止めなかった。俺の行動を阻もうとする障害――臆病な仲間の制止、鳴りを潜める地雷、荒れ狂う天候――それら全てを乗り越えればダックスを救えるんだろう? 無謀な勇気を奮い起こしていた。
――でも、もしも死んでいたらどうするの?
自分自身にそう問いかけた刹那、ぬかるんだ勾配に足を取られて状態を崩す。
「がっ……!」
踏ん張ろうと力んだ次の足も滑り、驟雨も手伝って俺は斜面を五mほど転げ落ちた。木にぶつかって何とか止まりはしたものの、生きた心地がしなかった。滑り落ちた先に地雷があったらと思うとゾッとする。打った背中よりも心臓が痛い。
メーヴェルが何か叫んだようだが、打ちつける雨の轟音でかき消された。それより早く、ダックスの所へ行かなければ……。
そう思って立ち上がると、地雷探知機を手放してしまった事に気がついた。あれがなければ身動きが取れなくなる。辺りを見回すと、すぐ傍に黒い竿状のものが落ちていたのでほっと胸を撫で下ろす。しかし、それも束の間だった。
無造作に落ちていたのは地雷探知機だけではなかった。履き古した男物の靴の片方が、木の根に引っかかって雨に濡れていた。靴の周りは赤く滲んでいる。
俺は目を見開き、すぐさまダックスの方を見遣る。世界から音が消えた。
今まで見えなかった倒れた友人の下半身。斜面を転げ落ちたことで、その変わり果てた全貌を目の当たりにしてしまう。雨で消えた白煙の下でうち伏すダックス。拭いきれない違和感の原因ははっきりしている。彼の右足があった部分を、俺は襲い掛かる感情とともに眺めていた。
千切れたズボンの腿の部分からは、靴に滲んだものと同じ赤い液体が斜面を伝って流れている。青々とした草がドロリとした液体で赤く染まり、驟雨が降りそそぐ今もなお、洗い流されることなく留まり続けている。
これ以上見てはいけない。立ち直れなくなる。
怯える自分を押し殺し、やっとの思いで探知機を拾い上げ、再び踏み出したその時。
ピーーーッ
世界から音が蘇る。打ちつける滝のような驟雨の轟音が山林の中を駆け巡る。
同時に、俺を奮い起こしていた勇敢さが真っ二つに折れてしまった。
膝をつき、濡れた地面に手をつく。もう顔を上げる気力もない。
ついに呵責は俺を地にひれ伏させた。絶望の淵へと誘い込んだ。
しかし往生際の悪い俺は、まだありもしない希望に縋り、友の名を叫んだのだ。
「ちくしょう! ダックス、目を開けてくれ! お願いだ、頼む……!」
やがて驟雨は霹靂さえも伴って、俺の最後の足掻きも凄まじい轟音で薙ぎ払う。
俺が何をしたっていうのか。どうしてまたこんな思いをしなければならないのか。
なぜ俺自身ではなく、俺の大切な人が犠牲にならなければいけないのか。
呪われた俺の運命。選択という呪詛が、俺の運命を雁字搦めにしている。
「ダックス……! ダックスーーーーー!!」
悲痛な叫びが、スコールの降りしきる山林に消えていく。
濡れた地面にひれ伏すことで、俺は友を見捨てるという選択を取った。
二度と変えることの出来ない絶望感。悔恨の情を持つことすら許されない。
手の甲に雫が落ちる。雨粒とは違う、温かい雫。
忌まわしい記憶の最後は、瞳を閉じたむこうで感じた温かい雫の滴る感触だった。
俺とダックスの時間はそこで止まっていた。
十年後、寂れた空港で再び邂逅を果たすまでは……。
10-8、10-9を再読していただけたら嬉しいです。各人物の言動が、通常時と危機が迫った時とで異なることに注目していただければと思います。