10-14 運命の日(3)
目を疑った。ありえないと自嘲し、なんて気味の悪い夢なのだろうと思った。
けれども、ギャアギャアと鳴きながら飛び去っていく野鳥たちが、これが不可逆の現実である事を突きつける。温室のように蒸した山林の奥深くで、キーンという甲高い残響が俺の鼓膜を振動させている。
「そんな、まさか!」
俺は叫んだ。不気味なほど自然に出せた声。これが寝言で、瞬きの瞬間に世界が変わればどれだけよかっただろうか。しかし世界は変わらず、時間は当然の如く止まらない。土の地面に突っ伏した友人も、糸を切られた操り人形のように何も動かなかった。
「あ、あ……。あああぁぁ!」
「メーヴェル!?」
無残にも仲間の叫喚によって、俺は我に返ることができた。メーヴェルが崩れ落ちるようにそう叫び、その場にへたり込む。彼女の方へとシャウが駆け寄り、何とか宥めようとするのを俺は茫然と眺めていた。
この悪夢とも白昼夢とも思える光景を共有している事実。胸を叩きつける異常な速さの脈動が、氷のように冷たくなった汗が、動揺を隠せない仲間たちが、全てが不可解なリアルだというのだ。
「ダックス! おい、起きろダックス!」
倒れている友人を汚い言葉で罵倒するように、俺はそう叫んだ。むくりと起き上がり服に付いた泥を払って、いやらしい笑みを浮かべてジョークだよと彼が言ってくれると、俺はそんなほんのわずかな希望に縋っていた。
しかし、揺らめき昇る白煙と木々のさざめき以外、変化と呼べるものは見当たらなかった。刹那の緊張が生み出したのは無の静寂。そして俺は見てしまった。うつ伏せになった友人の傍らで、青々とした雑草が得体の知れない赤い液体で塗られているのを。
その赤々とした瞬間はまさに、希望が絶望へ移り変わる様だったのだ。
「反応がない……! まずいぞ……!」
「ダックス! ダックスーー!」
およそ尋常ではない感情が俺を支配し、友の名を叫び続けるだけの道化と化す。心の中で俺はまだ、ひどい出来栄えの悪夢を見ているのだと信じて止まなかった。酸欠になって視界がぼんやりして、ああ、やっと夢から覚められると安堵したのも束の間、トゥロイネンが俺の名を呼んだ所為で、俺は再び非情な夢を見続けなければならなかった。
「レン! ダックスは意識を失っている! 呼びかけても無駄だ!」
「じゃあどうすれば!?」
「救難信号をだせ! 助けを呼ぶんだ!」
感情的になっているトゥロイネンは初めてだった。俺は無線機を手に取る。否応もなく手が震える。頭に叩き込まれた救難信号の周波数。なのに今は思い出せない。
苛立ちと焦りが混ざり合って、俺はダイアルのつまみを適当に回し始めた。無様である事は自覚しているのに、そうせざるにはいられなかった。それが最善であると、それしか方法がないと。無線機はノイズを吐き出すだけだった。
「私がやる!」混乱に陥る俺を見ていられず、シャウが声を荒げてそう告げた。「メーデー、メーデー、メーデー! こちらC班のシャウ・セザル! 仲間の一人が地雷で負傷、意識は不明! 場所はツェンダー地区A-95付近! 繰り返す――」
きわめて冷静な対応をするシャウ。しかし彼女の顔は悲壮感で青ざめており、その手は俺と同じように震えている。彼女に肩を抱きかかえられたメーヴェルも、その眼を固く閉じてこの悪夢から覚めようと無駄な抵抗をしていた。
繰り返される現場状況。頭の中で反芻することで、徐々に暈しがかった視界が輪郭を取り戻す。
ダックスが誤って地雷を踏み、血を流して倒れている。
どれだけ拒絶しようが、これは受け止めなければならない現実だ。俺は一瞬戸惑ったが、意を決して再びダックスの方を注視した。
間隔の狭い木と木の間で倒れ込んでいるダックス。未だ漂う白煙と雑草が邪魔して、ここからでは腰から下の状態がよくわからない。だけど周辺の緑に、赤い飛沫が飛散している。それに意識がないとなれば、詳細はともかくのっぴきならない状況であると判断せざるをえない。
「レン、君は呼びかけ続けてるんだ! 僕は麓まで戻って救援隊の道案内をする!」
トゥロイネンがそう俺に告げて、自分の足跡を頼りに足場の悪い勾配を下りて行った。俺はこの時、彼の行動に何の疑問も持たなかった。一刻も早く決断を下さなければ、友人の命が危ない。ダックスを救うための勇敢で賢明な選択だと称えて、彼の背中を見守り、命令に従って大声で呼びかけ続けた。
「わ、わかった! ダックス、目を覚ませ! ダックス!」
何度も何度も友の名を呼ぶ。あれだけ聞いていた早口のしゃべりが、思い出せそうで思い出せない。愛嬌のある笑顔も、食っていくために独学で学んだという機敏なダンスも、彼を構成する全てが吹き飛んでしまった。彼の名前を発していなければ、もう元の姿には戻れない。おそろしく不吉な直感が俺の喉を震わせたのだ。
声が枯れそうになるほど叫んでしまい、息が追いつかなくなってしばらく浅い呼吸を繰り返す。そうしていると、シャウがメーヴェルを強引に引き摺るような態勢でこちらにやってきた。シャウは瞳を哀しみの色で見開いており、メーヴェルはぎゅっと眼を瞑ったままだった。
「レン! トゥロイネンは何処に!?」
「道案内をしに下りていった!」
「何やってるの!? 地雷が爆発したら、まずその場を動かずに状況を確認するって習ったでしょ!?」
虚を衝かれ、俺はハッと息を呑んだ。
シャウの言うとおりだ。爆発音を聞いたら闇雲に行動せず、まず落ち着いて冷静になること。ドーバー教官から教わった地雷撤去における緊急時の指南。一目散にこの場を離れた優等生らしからぬ軽率な行動。トゥロイネンの姿はもう見えなかった。
「し、知るかよ! 行っちまったもんはしょうがねぇだろ!?」
「あぁ、シャウ。ダックスはどうなってるの? 私、怖くて目を開けられない!」
「落ち着いてメーヴェル。まずは落ち着いて息を大きく吐き出すの」
パニックに陥ったメーヴェルの肩をしっかりと掴み、シャウは驚くほど模範的な冷静さを保ってそう指示する。言われるがまま息を吐き出そうとするメーヴェルだったが、震えるせいで断続的にヒュッと息を吸い込んでしまい、壊れたように頭を振り乱す。
「ダメ、震えて上手くできない!」
「ほら、手を握っててあげるから。さあもう一回」
元には戻らない平穏を取り戻すかの如く、二人は手を固く握りあった。
脆い精神を打ち砕かれたメーヴェル。彼女を献身的に宥めようとするシャウ。
トゥロイネンは山を下りてしまった。状況は依然として進まない。
何をすべきか。足りない頭で必死に思考を巡らせる。
ひどい話だが、人は自分より著しく乱れ狂った人間を目の当たりにすると、その人と同調することなく心が鎮まっていく。普段から想像もできないような乱れた姿のメーヴェルをじっと眺めていた事で、俺の頭は冷水を被ったかのようにクリアになっていた。
そこで浮かんだのは、一人の聡明な人物だった。知的で麗しく、尊敬に値する一人の女性。彼女の名はパールワン・エテオ。あの人ならどういった行動を取るのか。
不意に既視感が俺を襲う。パールという人物との記憶を辿るうちに、俺は彼女から教わったある問題とその解決策を思い出したのだ。それはようやくと言うのも憚られるほど、遅すぎる気づきだった。
「そうだ、マニュアル……!」
わずかな希望を見出した俺は、憔悴したシャウ達に構わず訊ねた。
「パールさんに教わっただろ!? こういう状況になったら何をすべきか! 一人だったら助けを呼びに行くしかないけど、三人いれば負傷者を安全な場所へ運ぶ! そうだよな!?」
「ねぇレン、落ち着いて!」
「トゥロイネンが出払った今、ダックスの応急処置ができるのは俺たちしかいない! 止血とかなんとか、上手だったよな、メーヴェル!?」
躍起になる俺とは対照的に、シャウにしがみついたメーヴェルは強くかぶりを振った。
「わ、私……。無理よ、できっこない……」
「実技でやっただろ!? ぶつくさ言ってないで、やるしかないんだよ!」
「落ち着いて、レン! ねぇ落ち着いてってば!」
「なんだよ、うるせぇな!」
「メーヴェルをよく見て!」
俺の声量を上回るボリュームでシャウは叫んだ。
脅えるメーヴェルの姿に優等生である彼女の面影はなく、巣から落ちた雛鳥よりもその無力さを露にして座り込んでいる。泣き叫ぶ事しかできない哀れな存在。俺は表しようのない苛立ちを覚えた。
「腰が抜けてるの。この子を怒鳴っても仕方ないわ」
「使いものにならないってのか」
「ごめんなさい……。足に力が入らないの……」
メーヴェルがどんな言動を取ろうとも、俺は蔑んだ眼を彼女にくれてやる事しかできなかった。冷静と恐慌の間に垣間見えた自分の本性は、反吐が出るほど醜いものだった。
「レン、よく聞いて」この中で最も冷静なシャウが口を開く。「パールさんに教わった緊急時のマニュアル。現状、満足に動けるのはレンと私の二人だけよ。二人の場合は何をするのか、思い出して!」
俺は数ヶ月前の記憶を辿る。パールが教壇に立った記憶はとても印象的だったので、すぐに導き出すことができた。
「二人の場合は――応急処置と退路の確保」
「そう。できれば安全な場所――せめて平坦な道までダックスを運びたいけれど、足元が悪くて二人では無理よ……」
「俺が担ぐ! だから何とか――」
「バカ言わないで! 躓いたらどうするの!?」
「躓かない!」
「勝手な判断は死を招くわ! マニュアルに従って!」
「そんなもんに従って、あいつを見殺しにしろっていうのか!?」
乱暴な応酬が続く。『見殺し』と口走ってしまったせいで、場に凍りつくような空気が流れた。互いに一瞬怯んだが、シャウのほうが寸刻早く口を開いた。
「冷静になって! 私もダックスを死なせたくない! 教官も言ってたでしょ!? 生きてる地雷が一つでもあれば、十あると疑えって。あの周辺に、きっとまだ地雷が残ってる!」
「だからどうした。地雷探知機があるんだ、かわして進めばいいだけだ!」
「レン、お願い、私の言うことを聞いて!」
突然、シャウが俺の服の袖を強く引っ張った。