10-11 過ぎ去りしまばゆい記憶
午後七時の帰路を往く車内は、くたびれたディーゼルエンジンの音だけが鳴り響いている。陽が沈んだ直後の青みがかった闇色を帯びて、蒸し暑いそよ風とともにベトナムの夜景が流れていく。数える気も起きないほどの無数のヘッドライトが、でこぼこの国道に降り立つ星の群れのようでもあった。そう例えれば聞こえはいいが、悪路の所為でこうも不規則に体が縦に揺れるようでは、ロマンチックもへったくれもありゃしない。
通路側の座席に座っていた俺は足をお行儀悪く開き伸ばして、魂が口から出ているかのようにバスの天井を見上げていた。窓側のダックスは揺れの餌食となっており、されるがままの状態だった。
一番うるさい人間がそんな調子なので、車内で会話が弾むなんて事は起こるはずもなく、信号の明滅によって音色を変えるディーゼルエンジンの駆動音を、研修生全員が聞きたくもないのに聞いている有様だった。
俺はゆっくりと瞬きをしていた。じんわりと広がる目の疲れが、これまでの時間を思い起こさせる。久々にやったテレビゲームの画面は刺激が強く、目を瞑れば残像が浮かび上がるようだった。我ながら年甲斐もなくはしゃいでしまった。子どもたちは喜んでくれただろうか。――俺は結局、その場しのぎの充足感しか与えてやれなかったのだろうか。
ドーバー教官のしごきを受けるのとはまた別の疲労感だった。障害を患った子どもたちにあえて気を配らないで接する事が、心の壁を取り除く方法だと俺は勝手に結論付けていた。それは間違いではなかった。でも、だとしたらこの疲労感は何なのか。卑しい俺はやはりどこかで、彼らとの間に壁を作っていたのではと気を落とす。
楽しくて、充実した時間だった。それをありのままに受け止める自分と、演じていたのかもしれない自分が心で交錯し、互いに嫌な顔をする。そんなイメージが、虚空を漂っては霧散する。
居心地の良くない沈黙を破ったのは、清涼で耳にやさしい、パールの柔らかな労いの言葉だった。
「みんなお疲れさま。子どもの相手をすると疲れるだろう?」
そう言いながらも、パールはこのバスの中で最も余力を残している風だった。研修生たちの返事に力はなく、その声音は微弱なものだった。
顔を上げたダックスが枯れた声で応える。男児たちに生気でも吸い取られてしまったのだろうか。
「もうヘトヘトですよ……。あいつらの体力嘗めてました……。」
「よくやってくれたよ、ダックス。彼らはあまり運動したがらないけど、今日はすごく楽しそうだった」
「へへ。パールさんに褒められたなら、頑張った甲斐があるってもんです……」
チーム・クラーケンとチーム・デビルフィッシュの親善試合は、二十三対二十三というサッカーの試合としては類を見ない点の取り合いで、最終的に引き分けで激闘の幕を閉じた。そのように計らったダックスを含む大人の連中は、かなりいい仕事をしたと言えよう。だが、彼らの表情はどこか冴えないものだった。
女子たちも同様、児童といいだけおしゃべりに励んだというのに、今は吐息を漏らすのも億劫な様子だった。弾むことのない、鉛のように重たい空気が車内を支配していた。
そんな俺たちの心境を見透かすかのように、パールはより真面目な口調で話を切り出す。バスの揺れが一時的に治まったようにも思えた。
「さて、君たちにはあの場所に行く事を事前に伝えなかったけれど、その前に私が言ったことを覚えているかい? 君たちが行かなければならない所……。この意味、わかってくれただろうか」
あぁそういえば、と俺はその記憶を振り返った。あの時のパールの瞳には、神妙な何かが宿っていた。察しよく気づく者がいてある程度の覚悟を持っていたならば、現在の車内の様子も随分と変わっていただろうに。――衝撃的だった。四肢の一つを失うという事に対する己の無知を、むざむざと味わわされた。そしてそんな子どもたちに対する感情を、俺はいつまでたっても整理できずにいた。哀れみの心で接すればいいのか、それとも何も思わない事こそが最も適したふれあいなのか。
ただ唯一理解できたのは、「君たちが行かなければならない所」と告げたパールの言葉の意味。上手く説明はできないけれど、それだけは釈然と俺の頭に刻み込まれた。
少しの間の後、パールはゆっくりと口を開いた。
「あの場所はリハビリテーションセンター。地雷や不発弾などで、後天的に障害を患ってしまった子どもたちのための施設だよ。今現在、その施設数は二十を満たないが、将来的にはもっと数を増やしていく予定だ。……もっとも、障害を患わないのが一番なんだけれど」
そう言ったパールは複雑な表情を浮かべた。彼女の真意は探らずともわかる。本当に豊かな社会には、リハビリテーションセンターなどという施設は建てられないはずだ。地中に前世紀の兵器が埋もれ被害が出ている以上、豊かであるかどうかを検討する余地などない。
けれども、被害に遭った人々を放っておくわけにもいかないのが現状だ。この施設の世話になっている児童たちを、この目でしかと見る事ができたのは俺にとって大きかった。そして何よりあの子たちが、不便な生活を強いられつつも今を生きているという現実。それを若輩者の俺たちに示してくれたのは感謝してもしきれないほどだった。
わずかな沈黙があったが、トゥロイネンが積極的に手を挙げて質問をする。
「あのような子どもたちが、まだたくさんいるということですか?」
「……ベトナムだけでも、およそ百万人いると言われている」
「そんなに……!?」
ハッと息を呑む音が次々と起こり、一気に周囲がざわつく。マジかよ、と俺が独り言ちたのは言うまでもない。すぐに想像がつかない数字だった。百万人の子どもたちが義足を履いているだって? それもベトナムだけで? 疲労感よりも心を圧迫する不可解な感情が、車体の揺れさえも忘れさせる。
室内灯に照らされるパールの表情の陰影が際立つ。それでも彼女は毅然として振る舞い、座席に座る俺たちに向かって淡々と伝えた。
「どれもこれもがベトナム戦争の残した爪痕さ。あれからもう半世紀以上も経っているのに、いまだに傷つく人たちがいる……。戦争を体験した事のない君達でもわかるだろう? なんて無意味な損害であると。本当に、本当に馬鹿げている」
「……私、許せません」左後方から、シャウの怒りに震えた声が聞こえた。「一体誰がこの国に地雷を撒き散らせと命じたんですか!? どこの国の兵士が撒き散らしたんですか!?」
帰り際、集合時間に現れないシャウを俺は迎えに行った。横に広い体育館のような場所で、一人の少女のリハビリ補助をする彼女の姿がそこにあった。二人とも額に汗を垂らして、少しずつ前へと歩み進んでいく。傍で彼女たちを見守っていたメーヴェルも、それを目の当たりにした俺も、帰りの時間だと告げることは口が裂けてもできなかった。
やさしさと背中合わせに存在する真逆の感情。その矛先が判れば多少なりとも心は落ち着くと、シャウは思ったのだろう。口調は激しいものだったが、彼女の顔は哀しさにまみれていた。
しかしその質疑は結果として、さらにシャウの心を揺るがすものとなった。パールは努めて冷静に、シャウに向かって答えた。
「少なくとも地雷に関しては――現地の人々が設置したのさ。自分たちの居場所を守るために」
「うそ……!?」
シャウは思わず手で口を覆った。ブロンドの髪が小刻みに震えている。動揺したのは彼女だけではない。研修生全員が、パールの言葉に耳を疑った。国民のためを思ってばら撒かれたモノが、未来を象る若者を傷つける。悲しすぎる因果に、俺たちは打ちひしがれそうになった。
「だからシャウ、これは感情的になって解決する問題ではないんだ。我々が持つべき唯一の感情は、他人に対する思いやり、献身的な心……」
「…………」
「それでも怒りの感情が湧いてくるのなら、その怒りは兵器に対して向けなさい。決して人に向けたり、すでに解決された問題にぶつけるような事をしてはいけない。怒りは人相を変え、人格を変え、思想を変える。けれどどうしようもなく湧いてくるものだから、せめて誰にも迷惑のかからないところに留めておく必要がある。わかるね?」
こくりとシャウは頷き、瞳を潤わせながらパールを見つめた。
「そしてできる事なら、その怒りをエネルギーに変えるんだ、人々の役に立てるチカラに。地雷掃除人というのは、それを実現できる職業だと信じている」
俺は地雷掃除人という職業を誤ってとらえていた。地雷という兵器に対する者――言わば受動的な立場の、非力で弱い存在であると。だが、そうじゃなかった。愚かな兵器によって分断された二者の溝を、蟠りなく埋める貴重な存在。侵攻と拒絶の狭間で中立を成す仲人――それが地雷掃除人なのだ。
この職と巡り合えたのは必然だと思いたくはない。その過程は、俺以外の家族を失ってしまうほど壮絶だったから。だけど、巡り合えた幸運は静かに受け入れよう。パールという信頼に足る人物の激励によって、俺は内なるものを変えていく決意を固めた。
隣にいるダックスもどうやら俺と同じ思いのようで、いつもはだらしない顔も真剣な表情になっていた。
「パールさん。俺、一刻も早くこの国から地雷をなくしたいです。世界中の、とは建前でも言えねぇけど……。これ以上、ああいう子どもたちを増やしちゃいけないじゃないですか」
「君の言うとおりだ、ダックス。しかし、先の戦争での地雷と不発弾による汚染面積は、六百六十万ヘクタールと言われている。個数で表そうとすれば気の遠くなるような数になる」
「じ、じゃあ俺たちがどんなに尽くしたところで、地雷をこの世からなくすことはできないんじゃ……」
「それでも、やるんだ」ダックスの弱気な発言を吹き飛ばすかのように、パールは語気を強めた。「大切なのは、なくそうとする意志。兵器という存在をこの世から消し去ることは現実的ではない。だけど、後に被害が及ばぬように配慮する『心』は育むことができるはず。そして君たちが示すんだ、強い意志を持ち、負の遺産を断ち切らんとする『敵無き兵士たち』として」
パールの放つ言葉はいつも印象的で、情熱的で、聞く人を奮い立たせる力となる。『敵無き兵士』なんて格好いい名称、普通にポンと出て来やしないし、俺たちにはもったいない固有名詞だ。でも、今はこの熱い思いがこもった空間に酔いしれていたいと思った。
そしてこれは俺の悪い癖なのだが、気分が高まって調子づくと、酔っぱらいの戯言のようなつい捻くれた事を口走ってしまうのだ。
「グズで七〇まともで二〇〇、コカインキメれば五五〇」
皆の視線が俺に集まるのを肌で感じる。無口で不愛想な少年のつぶやく様子を、パールも目を丸くして凝視した。
「――だっけか、ドーバー教官が言ってたコトバ。一日に撤去できる地雷の数らしいけど、それでいくなら年に三〇〇日作業すれば、一人当たり六万基やれるんだろ? そんな難しい事じゃねぇだろ」
俺としては俺なりの俺らしい労いの言葉を言ったつもりだった。しかしほかの連中にとっては、才色兼備のパールからいただいた有り難いお言葉を、暴色兼備の鬼教官の言葉で汚してくれるな、という感じだったらしい。全方位からの刺々しい視線が俺を突き刺した。
「レン、君は本気で言ってるのか? その計算だと年に六十五日しか休みがないんだぞ? 週に六日働いて、たった一日しか休めない配分だ。目算を改めたほうがいい」
トゥロイネンが俺に向かって窘めたが、それも少しずれた発言だったようで、車内はやれやれといったおかしな空気に包まれる。俺は渋い顔をしながらも、皆に行き渡るくらいの声量でトゥロイネンに言い返してやった。
「う……。たとえだよ、単なるたとえ。たいそうな名目は俺には荷が重すぎる。地味な作業を腐らずコツコツやってりゃあ、結果は自ずとついてくるって話さ。そうでしょ、パールさん?」
「うん、それでいい。私はアスリートやミュージシャンよりも、君たちこそが夢や希望を伝えられると信じてるよ」
やはり〆の言葉は相応しい人物が言うに限る。気落ちした顔で悄然とした研修生たちも、ひとつ大人びた表情でパールを見上げていた。夢や希望なんて俺には眩しすぎるものだと思っていたけど、パールが言うなら信じてみようと思う。
サプマク寮へと帰る起伏だらけの国道。深い夜にとっぷり浸かろうとするベトナムの繁華街。何てことない風景とリンクして思い起こさせる高揚した気分。仲間たちの充実感に満ちあふれた瞳。過ぎ行く若かりし頃の記憶だからこそ、俺の脳裏に焼きついているのかもしれない。