10-6 極上のスリル2
「――とまぁ、これらは全部カビラ爺さんの受け売りだ」
重苦しい静寂を切り裂いたのは、ドーバー教官のあっけらかんとした言葉だった。口調はいつもの軽い感じに戻っている。
「わたしゃ出会ったばかりのお前らの事なんか、悪いがこれっぽっちも興味がない。興味があるのはお前らの顔だ。最高のスリルに身を投じるその面は、そりゃもう極上の酒の肴よ。せいぜい私を楽しませておくれ。……あー、あえて注文をつけるとしたら、女子諸君は気をつけたまえ。女の泣きっ面は、ちっとばかし食傷気味だからなぁ?」
神経を逆撫でするような教官の言動。俺達にとっては試練であっても、この人にとっては格好の見世物のようだ。女の顔を殴りたいと思ったのはこの時が初めてだった。
怒声を上げた者たちはすっかり黙りこくっていた。激情の矛先が定まらずに、身体の中で蠢いている。その所為なのか、それとも畏怖の念に駆られているのかわからないが、身を震わせる者が数多くいた。
それでも毅然とした振舞いをみせ、邪心の権化のような教官に勇敢に立ち向かう者もいたのだ。
「おかしい……」
「あぁん?」
ドーバー教官だけでなく、皆一斉に声を発した女子のほうを振り向いた。
声を発したのは、俺の隣にいるブロンドの女――シャウだった。
「おかしいわよ、こんなの……! 人を猿呼ばわりして、訓練と言いながらいいだけ私たちを虐げて、挙句の果てには何? ナイフだけで地雷を撤去しろですって? 今の時代にこの技術がどれだけ役に立つっていうの!?」
耳をつんざくような金切り声の主張が、室内を反響させる。窮鼠猫を噛むとは正にこの事だ。シャウはぎりぎりの理性を保ちつつ、言葉だけ見れば確かにロジカルに猫を攻めたのだ。ヒステリーを起こさなかったのは素直に評価したい。
ただ、シャウにとって不運だったのは、相手が一枚も二枚も上をいく猫だったという事だ。
ドーバー教官は怯む様子も見せず、納得の頷きと余裕の笑みさえ浮かべていた。
「いいねぇ。ようやく化けの皮が剥がれたってわけかい。威勢の良い女は嫌いじゃない」
「ふざけないで! こんな試験は即刻中止よ! 今すぐにだって出て行ってやる!」
シャウがそう叫んだ直後、またもやパンッ! と窓の外で破裂音が轟いた。たとえ二回目であっても、咄嗟に身を庇う防衛本能には誰も逆らえなかった。
「きゃっ!」
「毎年いるんだよねぇ。こういう聞く耳を持たないメス猿って」
大袈裟に爆破スイッチを見せつけて、教官は退屈そうに反逆者のシャウを見下した。対するシャウも可愛げのある悲鳴を上げたものの、キッと眼光鋭く教官を見据えた。
「喜べメス猿。お前にとって私は慈母のように優しい存在だ。お前のような不届き者のためにも最後の試練を用意してある」
「最後の試練ですって……?」
まるで窮鼠の抵抗など無いに等しいと言わんばかりに、ドーバー教官は両手を広げ、実に楽しそうに窮鼠の群れに告げたのだ。
「敷地内周辺に、これと同じ地雷をばら撒いてある……。それを見事突破すれば、お前は晴れて自由の身、どこへ行こうが構わない。だが、ひとつ忠告しておこう。今までにこの地雷原を突破した者はいない」
小雨の音だけが、妙に鮮明に耳に届く。
絶望から逃げると、さらなる絶望が待っている。足元が大きくうねって歪んでいく。
どこにも希望はない。あるとすれば未来という不確かな場所だが、そこへ行くには地雷などというふざけた代物の相手をしなくてはならない。『死』が迫って初めてわかる『生』というリアル。鼓動だけは死に急ぐように胸を叩きつけて鳴り止まない。
お調子者のダックスでさえも、生に縋るような情けない声を漏らしたのだ。
「嘘だろ……? じゃあ俺達、囚われの身ってことかよ……」
「縄を解く術は一つ。そこにある地雷をちゃちゃっと撤去すればいい。たったそれだけだ」
眼前には危険物が並んで置いてある。それらに近づきすらしたくないのに、あれを手に取って、教わった手順通りに解体するなんてとても無理だ。俺の頭の中では延々と、さきほどの爆発音だけが鳴り響いている。
「なぁに。お前らにはちゃんと分厚い保険がかけられてるんだ。お前らがへましておっ死んでも、親御さんには多額の保険金が渡るようにしてある。だから安心して死ぬがいい」
ドーバー教官はどこまでも無礼な人間だった。しかし、もはや彼女に刃向かう者はおらず、皆これから相手にしなくてはならない鉄製の兵器を鬱然と眺めていた。生を手繰り寄せる一筋の希望の道を、ただひたすらにシミュレートしているようにも見えた。
俺はというと、耳にこびり付いた爆発音を忘れる事もできずに、眉間を皺寄せて時間の経過を待っているだけだった。要するに、思考がぱったりとフリーズしてしまったのだ。
「ま、説明はこんなもんだ。やりたい奴はいるか? いるなら手を上げろ」
その言葉に、研修生たちは心の中では敏感に反応した事だろう。だが何もしなかった。よくある話だ。こういった試練に我先にと旺盛に挑む者は、大抵成果を上げる事ができない。しかも今回の場合、失敗は死を意味する。早く楽になりたいというのが命取りになる。
だからこそ、教官が口を開くまで誰も手を上げなかったのだと思う。ただ単に、俺と同様にフリーズしていただけかもしれないが。
「……ハッ。当然こうなるよな。じゃあ、私が直々にお前らの名前を挙げてやる。呼ばれた者は隣の部屋へ行って試験を行え。抵抗すれば迷わず銃殺の刑に処す。いいな?」
俺達の返事も待たず、そして必要以上の溜めも作らず、教官は次の言葉をある人物に向けて放った。
「それじゃあまずは……。お前だ、メス猿」
「え……?」
ドーバー教官が見下ろしたのは、長髪ブロンドの女――シャウだった。
ここでの名指しは死の宣告同様のもの。鋭かったシャウの眼光は消え、その姿は雛鳥のように無防備だった。少なくとも、教官が連呼するメス猿という形容は的を射ていなかった。
「どんな表情で私を興奮させてくれるのか、ゾクゾクするねぇ。今にも濡れちゃいそうだよ」
「そ、そんな……。やめて……!」
頭を抱えて怯える雛鳥の様を、たまらないといった顔で教官は愛でた。ここで男ではなく女を先に指名するのが何ともドーバー教官らしいやり方だ。教官は戦慄を覚えるような猫撫で声をシャウに向けて発した。
「いい顔するじゃないか。明日も会える事を祈ってるよ。……さて、最後に呼ばれた名前がメス猿じゃあ、死んでも死にきれないよなぁ? せめて送るときぐらい、ちゃんとした名前で呼んでやるよ。お前の名前は――」
「やめて!」
シャウがそう泣き叫び、教官はこれほどにもない快感を味わったのだろう。勿体ぶった溜めが出来たとき、俺のすべき事は一つだった。
「……もういいだろ」
「あぁん?」
面白くなさそうに教官は振り返った。後には戻れないと今更理解したが、もう遅い。それに、次の言葉を発する事でしか自分を押し進める術がなかったのだ。
「……先に俺がやる」
「フフン、かっこつけたい盛りのチェリーボーイのおでましかい?」
「何だっていいだろ。死に急ぎたくなったのさ」
「噴くじゃないか。それならどうぞお望み通り」
教鞭で向かい側の教室を指して教官はそう言った。戸惑いの空気が周囲に漂っているが、それに浸っている場合ではなくなった。
他の奴らには、教官の言うように俺がかっこつけにみえるかもしれない。むしろ、俺にとっちゃそのほうが都合が良い。人が理不尽に死んでいく様をこれ以上見たくはなかった。それだったら自分がそれを強いられるほうが何倍もマシだとさえ思うほど、俺の心は荒んでいたのだ。
地面にへたり込んだシャウが、泣くのも忘れて俺を見遣る。親しくない間柄なのに、何で自分を助けてくれるのか。そう顔に書いてあるようにシャウは呆然としていた。女のためになんて柄じゃないけど、ちょっとでも元気を出してくれれば御の字だ。
「シャウ。お前に家族はいるか?」
「いる……けど?」
「じゃあ、やっぱり俺のほうがいい。俺に家族はいない。だから俺が先だ」
「え……」
「レン、お前……!」
別室に向かおうとする俺を、ダックスが呼び止める。自分語りをほとんどしない俺が、唐突に話した事に奇妙な感覚を覚えたのだろうか。それは俺も同じだ。
家族の分まで生き抜こうなどという感情は持ち合わせていない。俺を独りにしないでくれというのが素直なところだった。生きている間はただ独り、孤独なままに年を取っていくものだと思ったから、呼び止めてくれたダックスには感謝すべきだろう。短い間だったが、彼は俺を孤独から放してくれた。
だから、今際の際は笑顔でいなくてはならないと思った。少し強張っていたかもしれないが、俺はダックスに向かってこう言い放った。
「じゃあなダックス。日和るなよ」
俺がなぜ別れの挨拶を言ったかは定かではない。俺は死に急いでもいたが、同時に生き残ってやると闘志に燃えていたのも確かだ。ただ、肝心の俺の記憶は、この場面でプツリと途切れてしまっている。
申し訳ない事に、ここから先はダックスの証言のもとに構成された文章だ。奴の事だから多少の脚色が入るかもしれないが、俺から咎める事はできない。
何故かというと、俺はしくじってしまったのだ。
皆が固唾を呑んで見守る中、俺は鬼気迫る形相でPMN2の解体に挑んでいた。ゴム製のカバーをナイフで取り剥がす際の手は、遠くからでもわかるくらい震えていたらしい。その作業が思うようにいかず、やっとこさカバーを外せたのは時間にして七分が経過した頃だった。腕時計をチラリと覗いた俺は焦り、手元を狂わせた。そしてその時が来た。
パンッ!
乾いた破裂音が鳴り響き、多くの連中が悲壮な悲鳴を上げた。誰もが亡骸となった俺を想像していた事だろう。それなのに、あの鬼畜教官はどういうわけか、面白がる風でも喜ぶ風でもなく、聞き取れるくらいに大きな舌打ちをしたのだ。
一同が絶望のどん底に突き落とされる中、ドーバー教官は苛立ちながら俺のいる部屋に向かって行った。ダックス達もおそるおそる彼女について行った。部屋の中はツンとした火薬の匂いが漂い、俺の肉片が飛び散っている……。そのような無残な光景を想像しながら、ダックスは尋常ではない覚悟をもって部屋の中に入ったそうだ。
しかし、ダックスの目に飛び込んだ光景は、想像していたものより余程淡白なものだった。火薬の匂いはしたけれど、少なくとも肉片だとか内臓だとか、グロいものはなかった。飛び散っているのは花びらのような色のついた紙片だった。
「こんの包茎ビビり野郎! 初っ端からとちる奴がいるか!」
皆が状況を飲みこめないまま、ドーバー教官はそう罵りながら気絶した俺を足で小突いた。シャウは俺の傍に駆けつけ、「レン、大丈夫!?」と言って真っ先に俺を心配してくれた。白目を向いてくたばっていた哀れな俺を介抱してくれたそうだ。
「あの、ドーバー教官。これは一体……?」
そうこうしている内に、研修生たちもこちらの様子を窺いにきて、トゥロイネンがそう訊ねた。地雷で木端微塵になっているはずの俺が、五体満足で気を失っているだけ。この事態をいまいち掴めていなかったようだ。ダックスも全く同じ気持ちだったらしい。俺以外の皆が怪訝そうに教官を見ると、教官はばつが悪そうに頭を掻いた。
「ったく、茶番は終わりだ。オスカー賞ものの私の演技が台無しだよ」
その言葉を聞いた瞬間、皆が脱力して頭を下げる光景は壮観だったとダックスは語った。つまりは本物の地雷だというのは真っ赤な嘘。粗暴の限りを尽くした鬼畜教官の言葉を丸呑みしてしまったが故の、最低最悪の肝試しだったというわけだ。無茶苦茶な訓練を強いるという前提が、ドーバー教官の演技を見抜けなくさせていた。誰も地雷原を突破できなかったというのは、この試験で本物の地雷を使われていないという証拠。全くもって度し難い茶番だ。
魂の抜けてしまった研修生たちに、尻を蹴り上げるような教官の喝が入る。
「チッ、バレちまったもんは仕方ねぇ。おら、ボサッとしてないで並べ、ちくしょう! とちった奴はこの包茎と一緒にグラウンド五〇周だ! わかったらとっとと終わらせろ!」
そう言ったドーバー教官はどっかと椅子に座って不貞腐れた。
結局、この試練による被害は手元を狂わせて気絶してしまった馬鹿野郎の一名だけ。後に彼はその事についてさんざっぱらといじられて、我々に親近感と結束力をもたらした英雄になったと、ダックスは嬉々として俺に語ったのだ。