10-5 極上のスリル
数日後、研修生一同は朝っぱらからがらんどうな一室に集められた。ボロっちい机と椅子が全て取り払われた教室は、さながら空きテナントのような物寂しい様相だった。日課だったドーバー教官による朝の基礎訓練を飛ばしての集いときては、これを容易に幸運と喜んでいいのかどうかはわからない。ただ、小雨がちらつくなかで散々しごかれて風邪引くよりかは幾分マシか。欠伸の出かける口を抑えながら俺はそんな事を思っていた。
隣には生気のほとんどを吸い取られてしまったダックスがいる。半開きの口から「へへ、ツイてるぜ……」と覇気のない喜びの声が漏れていた。先日、ドーバー教官からしごかれマンとして認定されたダックスだったが、そのしごかれマンの実態は、毎夜の酒を嗜む教官の前で延々基礎訓練をやらされるというものだった。
その甲斐あってか、ダックスのだらしない身体はみるみるうちに逞しくなっていったのだが、一方でダックスの体力は常に枯れ果てた状態にあった。まぁ、それでも皆勤を続けてるって事は、ダックスもただの口が減らないお調子者ってわけじゃないらしい。
時計の針が八時ちょうどを示した時、教室の扉が勢いよく開かれた。猛々しい女教官のおでましというわけだ。
「よーし、集まったな」
粗野の限りを尽くしたドーバー教官の存在に、いつの間にか慣れてしまった自分がいる。俺だけじゃない。おそらく他の連中も、あの教官は今まで出逢ってきた人間の中でも最たる存在――荒くれ者という意味合いで――と思っているはずなのに、その存在を日常の一コマだと捉え始めている。そこらへんは悔しい事に、上手い具合に調教されているという事だろう。
鞭なのか指示棒なのか、ともかくよくしなる黒色のそれをピシピシと手中で遊ばせて、教官は静まり返った教室内をゆっくりと歩き始めた。
「お前らもカビラ爺さんの話は聞き飽きただろう? あれは子守唄より退屈だ。居眠りした奴は見かけたか? トゥロイネン」
「そのような者はいませんでした、教官!」
「チッ、つまらん」
教官に返事をしたのはトゥロイネン。すっかり彼女の荒々しい魅力の虜になっちまった哀れな野郎だ。今ではすっかり教官のパシリとなり、そして目障りな事に他の研修生たちのお目付け役も買って出ている。
「まあいい。お楽しみはこれからだからな」窓の外の曇天と落ちる雨粒を眺めながら、ドーバー教官は悪そうに口角を上げた。「今日は良い日だ。そうは思わんか? そこの――お前」
黒光る棒で運悪く指されたのは、何とこの俺だった。クソッ、こういうので指名されない地味さが唯一の売りだったってのに、全く今日という日はツイてない……。そんな俺の胸中とは裏腹に、身体は条件反射の如く敬礼の姿勢で止まり、お決まりの言葉を発声する。
「イ、イエッサー」
「ほう。どこがどう良い日なんだ?」
「は、はい?」
「天気はあいにくの雨模様。これじゃ毎日やってる基礎訓練もままならない。それのどこがハッピーなんだい? 私のわかるように説明してくれ」
「それは、その……」
教官だけでなく、研修生たちも俺の返答に耳を傾けているのが伝わってくる。ちっとも面白くない感覚だ。だが、変な間を作るより、口から出た言葉に任せてしまうほうが得策だろう。口ごもる前に、俺は自然な流れを意識して声を張った。
「カビラ教官よりもあなたのほうが強烈で」
「ほうほう。それで?」
「それで……セ、セクシーだから、です」
がらんどうな教室内が、何とも形容し難い変な空気に包まれる。自然な流れに身を委ねた結果、頭の中に始めに浮かんだのがドーバー教官の豊満なボディだなんて、口が裂けても言えなかった。いや、もう口走ってしまったのだが。
皆の反応次第で如何様にもなる妙な雰囲気だったが、教官の豪快な笑い声により、その空気は多少なりとも良い方向に向かってくれた。
「アッハッハッハ! いいねぇ! その下半身に直結した返答、嫌いじゃないよ! でも、口説くんならもっと上手くやらないとダメさ。それに――お前はまだ人間じゃないんだから」
「は、はい?」
「今日はめでたいお前らの卒業試験だ。そう、猿を卒業して人間に生まれ変わる日なのさ!」
教官のヴァイオレンスな言葉遣いには聞き流せるほど慣れていたのだが、それでも猿呼ばわりはひどすぎやしませんか。まだ教官の意図をわかりかねるとはいえ、研修生たちは皆一様に嫌な予感を感じた事は言うまでもない。
卒業試験? いやいや、俺達ここに来てからまだ一週間足らずですぜ。そんなペーペーに何を卒業しろというんですか。
ドーバー教官は教壇のあった場所で屹立し、鞭のようなものをピシャリと叩いた後、静かに口を開いた。
「先日、私はお前らに対してこう言った。地雷にビビってる奴は人間じゃねぇと。お前らがこの六日間、カビラ爺さんに教えてもらったのは所詮、机の上での理屈に過ぎない。だからこれからお前らは、その理屈を自分らの手で証明してみせるのさ」
「それって、つまり……?」
傍にいたシャウがそう呟くと、教官はあるものを取り出し、ニヤリと笑った。
「PMN2圧力式爆風対人地雷……。こいつを一人一基、ナイフ一丁で解体してもらう」
パンケーキほどの円い鉄製の物体。それは教材で見た地雷と同一のものだった。
地雷。踏みつけたら爆発を起こす兵器。目の前の教官がそれを手にしているという現実。私語は禁止されているにも関わらず、疑心暗鬼のどよめきは必然的に起こった。
「制限時間は一〇分。理論上であれば二つ解体できるところを、今回は大サービスで一つだけでいい」
「ほ、本物、じゃないですよね……?」
願望気味にダックスがそう訊いた直後だった。
パンッ!
窓の外、静かな雨が降るグラウンドで、何かが強く弾ける音がした。拳銃の発砲音にも似たそれに、研修生たちの身体はビクッと無意識に防衛反応を起こしたのだ。
「うわっ!?」
「な、何だ!?」
窓越しからでも俺達の鼓膜を強く振るわせた音に、研修生たちは動揺を隠せなかった。いったい何が起きたのか。窓の外では、小雨の中に噴煙がひとつ昇っているのが見える。
その煙が曇天の中に消えたとき、ドーバー教官は今までと何一つ変わらない横暴な態度でこう告げた。
「今、私が起動させたのは、ここにある地雷と同じものだ。カビラ爺さんに教えてもらっただろう? ここの突起を踏んじまったら、ボン! ……だ。あぁ、制限時間といっても時限式の地雷じゃないから安心しな。時間が過ぎたらお家へ強制送還してもらうがな」
絶句する俺達をよそに、教官は何事もなかったかのように淡々と説明を行う。
今、爆発したのと同じ地雷を、解体しろっていうのか? 俺達が?
万が一手元が狂ってしまったら? 目の前で爆発が起こったら? 何かの冗談だろう? 冗談だと言ってくれよ。
「おやおやどうした? そんなに青ざめた顔をして。知ってるか? 人間はしばしば平穏を求める生物だが、スリルのない人生を送ると人は狂ってしまうそうだ。どうだい、嬉しいだろう? 猿のお前らは、今までこんな極上のスリルを味わった事がないんだから」
「聞いてませんよ、こんな話! 絶対できるわけないじゃないですか!」
「いくら何でもこれは従えません! 狂ってますよ……!」
「人権侵害だ! 僕らが訴えたら勝ち目はありませんよ!?」
教室の至る所から、そういった非難の声が次々と湧き起こった。今まで抑圧されていた不満のボルテージが一気に噴き出したようだった。少年たちは憤ってるかと思えば、少女たちの中には震えて涙する者もいる。暴動が起きなかったのが不思議なくらいだ。
糾弾の怒声が響く中で、俺の耳ではまだ乾いた爆発の残響が繰り返されていた。
冗談だろ? なあ、冗談なんだろ?
「臆病な猿はよく吠える」研修生たちの望みは一蹴された。「いいだろう。私も骨の髄まで暴君じゃない、納得のいく説明をしてやる。それまでは口を閉じて大人しくしとけ。猿じゃないならできるよな?」
教官の挑発に乗る者はいなかった。さっきまでの怒声が嘘のように止んだ。でもきっと、誰もが心の中で思っていたことだろう。納得のいく説明とはすなわち、このおかしな試験がドッキリや見世物なんかじゃなく、本当に乗り越えなければならないものなのかと。
雨音が聞こえるほど皆が押し黙る中で、ドーバー教官はゆっくりと話しを続けた。
「確かに昨今の、地雷撤去に用いられる兵器は安全で性能も良くなってきている。行く行くは戦場の無人化が進み、地雷撤去において命を賭す事もなくなるだろう。――だが、心まで無人化が進んだその時、人は人ではなくなってしまう。イカれちまうんだよ、簡単に。仲間が一人死んだだけでな」
ふざけた口調の教官はいなかった。その口調は真剣そのものだった。だからこそ、その言葉は俺達の心に残酷に突き刺さり、絶望という感情が足元を歪ませたのだ。
「いくら兵器が高性能になろうが、兵器が人の心を養う事はありえない。それが人を殺すためのものであっても、人を救うためのものであっても、ましてや地雷を容易く撤去できるものであってもだ。心の修練というのは、一朝一夕で培えるほど甘かあない」
試されているのは、俺達の精神力。屈強な兵士が年単位の時間を費やしてようやく得られる力。聞いた事がある。生と死のボーダーラインに立ってみないと、到達できない心の領域というものがあると。
教官に与えられた向こう見ずな試験が、否応もなく現実味を帯びてくる。
「これから行う試験も、不確かな勇気を養う付け焼き刃の修練に過ぎん。だが、これすらも乗り越えられない臆病者は、軽い気持ちで地雷掃除人になるなどと思わない事だ。臆病者は臆病者のままでい続けろ。半端な覚悟を持つ者ほど、窮地に立たされた時不幸をもたらす存在になる」
そうだ。自分が死ぬのはもちろん御免被るが、大切なのは自分に近しい人が死んだとき、どうやってそれを乗り越えられるかだ。精神が未熟であれば、生きながらにして死んでいく羽目になる。
他の連中がどういう目的でここに来たかはわからない。だが俺は、生ける屍になる自分から逃げ出したくて、故郷から離れてきたんだ。逃げついた先でまた逃げる事はできない。理不尽な試練を強いられた一同の中で、胸中に不満を抱かずそれを受け入れた者はおそらく俺唯一人であろう。
誰しもが口を噤む中、屋根に当たる雨足が少しだけ強まるのを俺は感じ取っていた。