10-3 ファーストコンタクト
この回から過去のお話になります。
二〇二X年、ベトナム、ホーチミン近郊。
暦と場所はそれなりに覚えているのだが、如何せんベトナムという国の印象は、この時点ではまだ何も無いに等しかった。強いて言えば、降り立った空港の名前がタンソンニャット国際空港という、どうやっても発音が聞き慣れそうにないものだという事くらいか。母国であるドイツとは言語や文化がまるで違う国なのだろうと、漠然と辟易していた事を今でもたまに思い出す。
その空港から、俺と目的地が同じ連中と共にバスに乗り、路面状況が悪い中で揺られること数時間。連れてこられたのは牛舎のようなみすぼらしい建物だった。牛舎というか拘置所というか、無機質でボロボロな様相ながらも、ある種のエリートを毎年輩出するような工場というか、とにかくそういう形容のし難い建物に連れてこられたのだ。放牧できるくらいの平坦な地もあれば、一同が講師の指導を受けられるスペースも用意されている。そう、何となくだがスクールを彷彿とさせる雰囲気がそこにはあった。
しかし翌日、俺のちんけな想像は粉々に打ち砕かれる事になる。その場所はスクールなどという甘ったれた場所ではなかった。例えるのなら訓練所――たたき上げの軍人を一から作り上げる訓練所だったのだ。
「いいかお前ら、よーく聞け」
昼の訓練のせいで全員が死にそうな目をしている中、ドスの利いた女性の声が夜の食堂に響き渡る。初めてのしごきを彼女に受けたその日から、その人物は恐怖の対象にしかなりえなかった。
「神もお救いになる事を諦めになった、低能なお前らの栄養補給のために与えられる時間は十五分。十五分でお前らに何ができる? 答えてみろ、トゥロイネン」
名を呼ばれた真面目そうな男子が、「イエッサー!」と条件反射のように叫ぶ。半世紀前のB級ミリタリー映画じゃねぇんだから、と俺は軽く嘆息を吐いた。
「素手で地雷を五基撤去できます!」
「そうだ! カビと便器の臭いが混じったようなこのサプマク寮には、お前ら半人前の地雷掃除人が二〇〇人と犇めいている! つまりこの間一〇〇〇基もの地雷を、お前らは撤去し損なっているという事だ!」
ひどい理屈だ。俺は心の中でそう呟いた。肘と肘が擦れるほどぎゅうぎゅうとテーブルを囲んで座っている同志たちは、はたして何を思うている事だろうか。ほとんどの者が疲れ果てどんよりとしており、初めてみる禍々しい料理たちが並ぶ食卓に目を落としていた。唯一俺が知っていたのは、フォーという白いヌードルの料理だった。スープの見た目こそ泥水のようで芳しくないが、俺の脳みそはちゃんとこれを食べ物だと識別している。鶏ガラか何かの出汁がその決め手となっているようで、その香しい匂いが胃袋を刺激する。
ただ、鼻から息を思い切り吸い込むにはどうにも気が引けてしまうのは、この青々とした香草のサラダのせいに他ならない。直感的にだけれど、このサラダは口に入れてはいけないような代物の気がする。他にも二三、色合いの良い料理が置かれていたが、その謎のサラダだけが不気味な威圧感を漂わせていた。
沈鬱した空気を取っ払うかの如く、女教官の怒声が再び俺達の耳を突き抜けていく。
「その自らのひ弱さと悔しさもろとも噛み砕き咀嚼して、嚥下しろ! 後片付けも込みで十五分だ! 食事もトレーニングという事を忘れるな! では、始め!」
選択肢としては並べられた料理に手をつけるしかなかった。だが、食べてみると意外にも美味いものが多く、空腹を思い出した同志たちは疲労感さえ忘れ、異国の料理をあっという間にたいらげていった。かくいう俺も慣れない手つきで箸を操り、バクバクと栄養補給に勤しんだのだ。……香草のサラダだけは一口食べて諦めた。
食べているうちに、段々と食堂内ではいくつもの会話が飛び交い、歓談による喧騒がボリュームを増していった。不思議な事に女教官は食事の時間中、厳格なルールを敷いていなかった。あるとすれば先ほどの、十五分で後片付けまで全て終わらせるという、比較的緩い規則だけだった。これを少年少女が見逃すはずもなく、ここぞと言わんばかりに至る所で様々な会話が繰り広げられていった。俺を除けば、の話だが。
近寄り難いオーラを放っているのかどうかは自分ではわからない。だけれど、俺は誰とも関わろうとはしなかったし、ましてやそんな気持ちには到底なれなかった。あからさまな塩対応を続ける奴から人が遠ざかっていくのは、もはや必然だったのだ。
ぎゅうぎゅうに詰めて座っているにもかかわらず、俺の対面は空席のままだった。座っていた奴は、男か女かも覚えていないが、どこかに席を移してしまったようだ。こうなるとたちまち喧騒が耳の中で反響し、さらに俺の機嫌が損なわれてしまう。香草のサラダが放つ異臭も相まってか、俺は独りでイラつくダサい奴と見られていたかもしれない。
そんな俺に気安く話しかけてくる奴がいるとすれば、そいつは相当な物好きか、極端な話、人形とか木偶相手とかでいいからおしゃべりしていたい変人に他ならないな。そう思っていた矢先だった。
「ここ、いいか?」
驚いて顔を上げると、初めて見る顔がそこにあった。ヒスパニック系の黒人で、年頃は俺と同世代だろうか。能天気、馴れ馴れしい、お調子者、軽い、変人……。そんなワードが一瞬で思い浮かべられるくらいには、特徴的な顔立ちだった。
俺が何か返事するのを待つ事なく、そいつは唯一空いている俺の対面の椅子に腰を下ろした。そして渋い表情をする俺に構わず、話を続ける。
「いやぁ、たったの十五分ぽっちじゃあ、満足にメシも食えないよなぁ。メシというより、まるで家畜の餌やりだな、こりゃ」
そう男が愚痴るように言うと、遠くにいる女教官がこちらをギロリと鋭く睨んだ……気がした。男は「やべっ」と縮こまる。どうやらこいつの顔と性格は一致しているに違いない、と俺が確信するには充分すぎるリアクションだった。
男は俺の手つかずのサラダに気づいたようで、それについて訊ねてきた。
「食べないのか、それ?」
「この草、一体何なんだよ。虫食ってるような気分だ」
「虫食った事あんのかよ」
「っせーな」
「へへ、まあいいだろ。名前は?」
「聞いてどうする」
俺は香草のサラダを口に入れた時と同じ顔をして、男に聞き返した。これといった理由はない。ただ何となく、素直に名乗るのが気に入らなかったのだ。
男は肩を竦めて、渋い対応をする俺をまじまじと見つめる。
「どうもしないよ、単なる興味本位さ。でも、今の返答であんたが面倒臭いやつとだけはわかった」
「……嫌味か?」
「いいや、褒め言葉だよ。第一印象で面倒臭いやつってのは、仲良くなると逆に面白いやつになるんだ。これ、俺の経験則な」
おしゃべり好きというのは得てして、話を自分のペースを巻き込むのがやたら上手い。しかもそれを当たり前のように自然と行うのだからタチが悪い。よりにもよって最も関わりたくないタイプの奴に絡まれてしまった。適当にあしらう事ができればいいのだが。
「いいから、何て名前なんだよ」
「……レクトガン・シュナイド」
「はぁ? 覚えにくいな。名前からして捻くれてやがる」
「……ケンカ売ってんのか」
「あいにく売り切れてる。決めた、あんたのことはレンと呼ばせてもらうぜ。よろしくな」
男は手を差出し、握手を求めてきた。それを無視できるほど俺は意固地な奴でもないわけで、渋々とそれに応えた。偶然にも、その呼び名は昔から使われてきた俺のニックネームと一致していたからだ。俺の渋い対応に全く気にする様子もなく、男は立て続けにそのおしゃべりな口を開く。
「俺はダキシモ・エマヌエレだ。おっと、今『てめーの名前も覚えにくいじゃねーか』と思ったろ?」
「言おうとしたんだよ、クソッタレ」
「ひでぇな、初対面の人間にそんな言葉かけるなんて。俺のことはダックスと呼んでくれ」
これはいかん。完全にこいつのペースに巻き込まれている。だけれども、家畜のように詰められた席からではどこかへ避難する事もできやしない。こいつがどうやってここに席を移せたのか、多少の興味が湧いたものの、こちらから何か訊ねるのも少々癪だ。
そういった俺の逡巡とは関係なく、男は――ダックスは身を乗り出して次なる質問を繰り出した。明らかに悪い企てを考えている眼をしてやがる。
「ところでレン。お前は誰を狙ってる?」
「狙って……? 何の話だ?」
「とぼけんなよ。お前もグローバルな交際目的で参加したクチなんだろ?」
「……は?」
まるで意味がわからなかった。
「いやぁ、地雷掃除人なんていかにも男クサイ職業、イイ女なんて目指すはずがないと思っていたんだが……。どうやら俺の目は節穴だったようだ」
広めのおでこをペチンと叩き、ダックスはテーブルの上に一枚の紙を置いた。今どき紙媒体なんて珍しい。そこには『クリーンな未来へ』『平和は地雷無き世から』などの宣伝文句と共に、男女が共同作業をしている写真がいくつか載せられていた。広告だから当たり前だが、被写体の人々はそれなりに顔が整っているのが窺える。
「ご覧の通り、これは地雷掃除人養成のための、人材募集をかけたウェブサイトのページを印刷したものだ。それで、ここに前年度の参加者の集合写真があるんだが……。どうだ? なかなかの粒ぞろいだと思わないか!? ほら、特にこの娘なんか」
嬉々として話すダックスに、俺の調子が良ければツッコみや冗談を言ってやるくらいはできただろう。雲泥のようなテンションの違いの所為で、俺は本気になって対面の浮かれ野郎の頭を心配してしまったのだ。
「ダックス。まさかお前はそれ目的で来たってのか? ナンパをしに? わざわざベトナムくんだりまで足を運んで?」
「実益を兼ねてだよ。ニッチな職業なら食い逸れなくて済みそうだし、その過程でイイ女と出会えたら言う事ないじゃん?」
「だったら、野郎の俺のところになぜ来た? 誰かにツバつけられる前に、女に声かけたほうが何倍も建設的だと思うが」
「それは……俺がバイだから」
「!?」
俺は思わずたじろいだ。別に同性愛者にどうこう言うつもりはないが、声音をクソ真面目に変えた初対面の野郎と相対しては、身の危険を感じずにはいられなかったのだ。
身体をカチコチに強張らせる俺を見て、ダックスは盛大に吹き出した。
「冗談だよ。あんたに話しかけたのはただのダチ作りの一環だ。まぁ俺の見立てによると、レンはそれなりの容姿を持ってるようだからな。自信持って良いぜ、マイブラザー!」
サムズアップは友好的なサインとして知られているが、それは信頼し合える仲だからこそ効力を発揮するものだ。ダックスには悪いが――これっぽっちも悪いとは思っていないけど――彼に対して俺は怪訝の目で警戒せざるを得なかった。
「そんなあからさまに嫌そうな顔しないでくれよ。これも神が巡りあわせた何かの運命! つー事で、これからもよろしくな」
「お前がブロンドの美女じゃなくてほとほと残念だよ」
やらしい笑みを浮かべるやらしい野郎に、俺はそう吐き捨てた。やっと一矢報いる事ができた。皮肉の一つでもふっかけなければ、俺が沸騰するところだった。そもそも運命などという言葉は同性に使うもんじゃない。気色悪い。
しかし、俺が優勢に立ったと勝ち誇っていた時間はあまりにも僅かだった。ダックスの顔面から表情が消え、腫れぼったい瞳で覗かれているのを悟ったとき、俺は敗北感さえ感じ取ったのだ。
きわめて神妙な顔つきと声音で、ダックスは俺に告げる。
「レン。俺達は出会ってまもないが言わせてもらう。浅いぜ、お前」