9-18 ケーキの夢の見たくもない続き
ミトラと丁度入れ替わるようなタイミングで、違う路地裏からテッサが現れた。
「あ、レン。ミトラちゃん見なかった?」
「あの路地に入ってった。すげー嫌な顔されて突っぱねられた……」
俺の落ち込み具合はいざ知らず、テッサは嘆息混じりに声を出す。
「なぁにショック受けてんのよ。きっと悪い人だと思われたんでしょ。あんた、目つき悪いし」
「話しかけても無視された……。どんだけ余所者を毛嫌いしてるんだよ」
「そっか。まだあんた達には言ってなかったっけ」
俺とサコンは同時にテッサの顔を見て言葉を促す。テッサは一度ためらうような仕草を見せたが、真面目な面持ちでポツリと告げた。
「あの子、生まれつき耳が聞こえないんだって」
「何?」
「他の住民から聞いたの。母親はあの子を産んですぐに死んじゃって、それでお父さんが付きっきりで献身的に看ていたんだけれど、そのお父さんは今回の一件で……」
「そうだったのか……」
何ともやりきれない気持ちになった。同時に俺は、少女の言動の理由を悟った。
俺が話しかけても一切口を開かないのも、未だに余所者を信じる素振りを見せないのもこれで全て納得がいく。それに、マインローラーと相対した時のあの眼……。あれは十歳かそこらの齢の子どもがしてはいけない眼だった。言葉を発せられないがために、言葉以上の伝達表現を眼だけでおこなっていたのだ。
唯一の家族を失わせた余所者が肩を掴み、耳が聞こえないというのに知らない言葉で話しかけてくる。俺の手ははね除けられて当然だった。
「それじゃあ、余所者の俺達が好かれるわけねぇよな」
「悲しいけどね……」
少女が姿を消した路地裏を見遣る。サヒードが納得してくれたとはいえ、住民たちとの溝はそう簡単に埋まるはずもない。気持ちの落差の所為なのか、はね除けられた手の痛みは、痺れのようにいつまでも続いた。
重い空気の中、サコンがテッサにある疑問を訊ねる。
「だが、何だってこんな所に地雷が撒かれているんだい?」
「私に聞かれてもわかんないわよ。バリケードがあるのは確認してたんだけど」
「それなら、俺達に即刻連絡をよこすべきだったんじゃあねぇのかい、えぇ? テッサちゃんよぉ」
「ちゃん付けで呼ぶな! 私は物資を配るので精いっぱいだったの! というか、あんた達のほうに落ち度があるんじゃないの? 町の内部に地雷がないと思い込んで、町の外に出向いたんでしょ?」
相変わらず口の減らない新人だよ、とサコンが嘆いたが、今は彼女の変わらない仕草が救いだった。無理にでも頭を仕事モードに切り替える事ができたから。
「サヘラン政府はアシェフを見捨てて存在そのものを抹消しやがった だったらこんな物騒な代物を設置する理由は何だい? どう思うよ、レンさん?」
「……あの子、明らかに地雷の向こう側を見ていた。もしかして、向こうに何かあるのかもしれない」
「何かって?」
「それがわかれば苦労しねぇよ」
耳の聞こえない子どもが、バリケードまで敷いている危険な場所までわざわざ無意味に近づくとは思い難い。だが、あの子の遠く彼方を見つめている感じを見る限り、何か理由があるはずだ。濁った眼とは正反対の、希望に追い縋るような澄んだ眼。まるで何か、とても大切なものを取り残してきたような……。
「それもこれも代表者様がご存知だろうさ。さてどうする、レンさんよぉ。戻って聞きに行くかい?」
「……いや、病み上がりに無理はさせられない。サヒードには一晩寝てもらって、明日聞こうぜ」
逡巡するまでもなく俺はそう答えた。サヒードのためとは言ったが、実際は自分自身の気持ちの整理がまたついていなかったのだ。誰よりも大きな反応を示したのはポォムゥだった。
「んお!? レンはまたサボるのか!?」
「だいぶ涼しくなった今がやり時だとは思わんかね」
「一理ある。が、俺達の仕事はそう簡単なもんじゃねぇだろ、ジジイ?」
「ふん、臆病だが賢明な判断だ。最後の一言がなければ誉めてやったんだがな」
「ポォムゥの出番はまだなのか……。ショックなのだ……」
落ち込むポォムゥの頭をテッサがよしよしと撫でた後、俺達はその場を後にした。諸々の聞き込みは静けき夜が明けてからにしようという結論に至り、町の入口付近に停めてある車輌へと向かって各々が歩き出す。
夕陽はますます赤みを帯びて、陽炎の中に落ちていく。夜の帳が下りれば気温もぐんと下がり、体調を崩す恐れがある。そうならないよう、今日は早い時間に寝て明日に備えるとしよう。深い群青色になりつつある空を見上げながら、俺はいつまでも続く手の痺れを忘れようとした。
その夜、俺は夢を見た。二度と見たくないと思っていた昨日の夢の続きだった。夢というか、記憶の片隅にあった過去が掘り返されたといったほうが正しいかもしれない。
十一歳の誕生日のこと。俺のために用意されたケーキが、急遽弟の飛び級試験の合格を祝うためのものにされたのだと発覚した後、俺はベッドの中で泣きじゃくり、とてつもない絶望感に襲われていた。
嗚咽を漏らしながら、色んな感情の中を彷徨ったのを今でも覚えている。嘆き、悲しみ、怒り、蔑み、妬み、悔しみ……。止め処なく溢れ出す負の感情は、目鼻から流れ出てベッドのシーツに沁み込んでいった。その間に母親が何度も何度も部屋の扉を叩いて俺の名を呼んだが、俺がそれに答える事はなかった。
泣き疲れて喉がカラカラになり、キッチンに水を飲みに行ったのは午前三時半。普段なら絶対に起きていない時間だった。それまでずっと泣きっぱなしだったのか、それとも気を失っていたのかは定かではない。
灯りのついていない闇の中、食卓の椅子に座って突っ伏している母の姿があった。俺は何も言わず流し台に向かい、コップに水を注ぐ。水がシンクに落ちる音に気づいた母親は、俺の姿を見た途端、俺の前まで近づいてその場で泣き崩れてしまった。
何を言われたのか、どう謝られたのかは全く覚えていない。ただどうにも目を合わせるのが嫌で嫌で、俺はずっと顔を逸らしていた。肩に寄せられた震える手も煩わしくて、話の途中でバチンとはね除けた。そして軽蔑の眼差しで母親を一瞥した後、俺は再び自室へと戻った。リビングですすり泣く母親の声が聞こえ、なぜだか俺の眼にも涙が溢れた。
今にしてみれば最低の親不孝者だ。そう思いながら夢から覚めたのはテントの中だった。外はまだ暗い。微睡みの世界に戻る最中で気づいたのは、ミトラが俺達に向けた濁った眼と、俺があの時母親に向けた軽蔑の眼差しが酷似しているという事だ。
そして、息子に手をはね除けられた母親の心の痛みを、俺はその時初めて理解した。俺がミトラにされたものに比べれば、それは比較にならないほどの耐え難い苦痛であったに違いない。あんな事、しなければよかった。普通の子どもみたいに母親の胸で泣きじゃくればよかった。……だけどもう、今さら手遅れだよ。
俺が次に目覚めるまで、痺れるような手の感触はずっと残ったままだった。
「9-10 ケーキの夢」と連動しています。合わせて見てくださると幸いです。