9-16 花言葉
それから少し経って、猛威を奮っていた太陽がようやく勢力を弱め始め、徐々に西の地平戦に落ちようとする頃。随分と干からびた家屋の一室で、突き刺すような陽光から生まれた陰の中、俺達はある男の目覚めを待っていた。
オーランは誰よりも心配そうにベッドに横たわる男を見つめていた。伸ばしっぱなしの無精髭だが端正で雄々しい男の覚醒を、オーランは信ずる神に祈っていたのだろう。
やがて深い呼吸の狭間に、横たわる男はうっすらと目を開けた。
「ここは……?」
「目が覚めたか。サヒード」
「オーラン。……そうか。俺はまた生き永らえたのか」
点滴を打つ腕を眺めて男はそう呟いた。町の代表者として住人の命を守ってきたサヒードだったが、それは自身の食糧を極限まで削って成し遂げたものだった。ビー・ジェイによると、サヒードは住人の中でもかなり重度の栄養失調状態だったらしい。
しかし何の因果か、意識を失ったサヒードの心臓は動き続けたままだった。彼の揺るがない意志がそうさせたのか、それとも彼を想う者たちの願いが通じたのか……。ビー・ジェイは「奇跡っつっとけ」なんて言って、お手上げ状態だったけど。
オーランは盟友の傍まで行き、力強い言葉で彼を励ました。
「勝手に死なせるものか。アシェフの代表者は一人しかいないんだぞ」
「お互い、死に損なったようだな」
「あぁ。わたし達にはやるべき事が残っている。だから神によって生かされたのだと思う」
「やるべき事、か……」
その言葉を噛み締めるように、サヒードはゆっくりと瞳を閉じた。サヒードは、俺のイメージしていた人物像とは随分と違っていた。もっとあからさまに悪い顔をしていると思っていたのに、きりっとしたその顔立ちは爽やかな印象さえ彷彿とさせる。正義の反対はもう一つの正義、という言葉を何となく思い出した。
盟友との再会が落ち着いたところで、タイミングを見計らっていたこちらの代表者が声を上げた。きりっとした顔立ちならこいつも負けていなかった。
「貴方がサヒードだな」
「その声は……」
「俺がウルフだ。こちらの交渉に応じてくれた事に深く感謝する」
「礼を言うのはこちらのほうだ。無意味な抵抗をしてすまなかった……」
「いいや、決して無意味ではなかった。ご覧よ」
窓の外には、今までのいざこざなど露も知らないアシェフの子どもたちが無邪気に走り回っていた。腹いっぱいに食い物をたいらげて、腹ごなしにはしゃいでいる姿は何とも微笑ましい。あの子たちがすこぶる元気なのも、全ては若い命を最優先に守ろうとしたサヒードの尽力のおかげだ。
思いつめていたサヒードの表情がフッと和らいだ。その顔を見て初めて、彼は信頼に足る人物だと俺は思った。
「あの子たちの楽しそうな姿が何よりの証拠さ。そう思わないか?」
「屈託のない笑顔だ……」
「守ったんだよ、君の信念が。そしてこれからは俺達も協力させてもらう。サヒード、改めてよろしく頼む」
ウルフは握手を求めて右手を差し出したが、サヒードの腕は動かぬままだった。
「……あの時、気を失う瞬間」代わりにサヒードは、ぼんやりと天井を眺めながら口を開いた。「目の前が真っ暗になった。目を開けているのに光が無くなったんだ。死というものに美醜の概念は存在しなかった。あるのは全てを飲みこむ闇だった。気づかされたよ、何かに価値をつけたがるのは生きている人間で、死にゆく者にとっては、それは何の意味も持たないものなのだと」
それは、ほんの数時間前まで美しい最期を切望していた者の言葉とは思えないほど、『死』に脅えたサヒードの臆病な姿だった。虚勢を張っていたわけではない。意識が途絶えるその瞬間に触れて、初めて得られた『孤独』という感情。……いや、感情だとか価値だとか、人間が創り出したものは全てにおいて劣るのだ。土に還るという回帰行為の前には。
「俺はまだ生きている。いや、今ここで生まれ変わった。いずれ来たる最期を今度は飾らない。めいっぱいの生に価値を見出していきたい。これからはアシェフの町と民の行く末を案じて、行動していこうと思う」
そう言い終わったサヒードの表情は朗らかだった。険のある形相が一変して、穏やかな顔つきになっていた。住人にだけ見せていた彼本来の柔和な表情を、俺達にも見せてくれたのだ。
「すまんが手を借りるぞ」
「あぁ。任せてくれ」
二人はそう言い合い、固い握手を交わした。書面における面倒な手続きはひとまず置いといて、和平の絆はこうして結ばれたのだ。たった数日の出来事だというのに、これまでの道のりはひたすら長く感じられた。血を見ないやり方ってのは本当に茨の道だと思い知らされた。だけどその分、達成感も充実している。ま、成果のほとんどは『平和の使者』様によるものなのだが。
俺がそんな風に感傷に浸れていたのは、時間にしておよそ一〇秒程度。握手を解いた二人の代表者は、すぐに次の問題の解決を案じていた。
「早速だが、物資の配給はどうなっている?」
「順調に進んでいるよ。皆素直に順番を待ってくれている。暴動が起きていないのは君のおかげだ」
「死なせてしまった同胞もいる。胸を張る事はできない」
「こちらの医師が生き残った住人たちを診ている。彼らを救って生き抜く事が、死んでいった者たちへの償いになる。違うか?」
「そうだな……」
それからはウルフとオーランが、世界情勢や限界が迫っている燃料問題について、サヘランの動向やこれまでの俺達の活動などを詳しく説明した。頭の良いサヒードは要領よく事態を飲みこみ、いくつかの質問を交えてすぐに造詣を深めていった。
未だ出番のない俺とサコンは退屈して話が終わるのを待っていた。他のメンバーは住人の介抱をやっているのだが、それが一段落しそうだったところにサヒードが覚醒間近という報告を聞き、こちらへ来たという寸法だった。
そして十五分くらい経って、得意の話題になったところでようやく会話に加わる事ができたのだ。
「なるほど。穏便に事を済ませるため、兵士を投入せずにお前達が奮起しているという事だな?」
「というより、時代遅れの兵器を効率よく取っ払う方法が、俺達を出向かせる以外に方法がないってこった。貧乏クジを引かされちまったのよ」
「それもあるし、ここいらの地雷は従来のものより殺傷力が高くなってやがる。んなもんを至る所にばら撒かれちゃ、いくら訓練された兵士でも身動きが取れないだろうからな」
世辞にも丁寧な言葉遣いとは言えない俺達だったが、具体的な説明は充分におこなったつもりだ。サヒードはそれを聞きながら頷き、眉間に少し皺を寄せていた。サヘランと国連の間とでおこなわれる生産性のないやりとり。愚行の連続。聞いていて面白いはずがない。
それを慮ったのか、ウルフがすかさずフォローに入ってくれた。
「見方によっては、俺達がサヘランを脅かす侵略者に見えるかもしれないが……。その是非については、君自身の目で確かめてほしい」
「サヒード、わたしからも言わせてくれ。彼らは我々に危害を与えるような人間じゃない」
続いてオーランもフォローにまわった。こうして見ると、サヒードとオーランは代表者とその腹心、もしくはリーダーとその右腕のような役回りの構図が、他者の俺からしてもよくわかった。
今で言うと、猜疑心の強い代表者に対して、賢明な腹心が適切なアドバイスを入れているような印象だった。
一息呼吸を吐いて、サヒードは再び口を開く。
「承知している。べらべらと綺麗事しか言わないのが偽善者だ。ウルフは今、自らの行いの良くない点を述べてくれた。それだけで嘘を言っていないとわかる。それに――」
そう言ってサヒードは俺とサコンを一瞥した。
「後ろにいる二人は兵士ではなさそうだからな。武装もしておらぬようだし」
「ほう。減らず口が叩けるあたり、お前さんはまだまだ死にそうにないわな」
「まぁ、野蛮な人間と勘違いされなきゃ何でもいいよ。ウルフ、もうじき応援部隊が到着するんだろ? 俺達もそろそろ、本職のほうを気張りたいんだが」
「わかった。サヒード、全ての住人の救護が終わり次第、俺達は地雷撤去に入る」
「容易く出来るものなのか?」
「周辺の環境次第だが、あいにくサヘランの気候には慣れちまったよ」
俺は肩を竦めてそう答えた。サヒードが求める返答とはおそらく違うのだろうが、そこははぐらかせておく。人に心配をかけさせないのもプロの仕事のうちだ。
「こちとら銃と女の扱いよりも、古臭ぇ兵器をやっつけるほうが上手でね」
「驕るなよ、ジジイ。調子こいてギックリ腰なんかやってみろ。腹抱えて笑ってやるからな」
「お前さんこそ、へまやっておっ死んだって、手向け花は期待するんじゃあないぜ?」
「ぬかせ。伊達に『ならず者』と呼ばれちゃいねーよ」
いつもの皮肉の言い合いの後、俺はウルフに向かって告げる。
「ウルフ、俺達はポォムゥを使って周辺の地理調査に行ってくる。今日はお前が指揮を執るんだし、休憩してる暇はないぜ」
「あぁ、すぐに向かう。オーランはサヒードを看ていてくれ」
「わかりました」
そうしてこの場を離れようとした時に、俺はサヒードに用があるのを思い出した。振り返って、上半身を起こした彼を見遣る。患者とは思えないほど精悍な顔つきをしていた。
「あ、そうそう。パールからあんたに言伝を頼まれてたんだ」
「言伝?」
「あぁ。スイートアリッサムの花言葉だ」
「花言葉か……。そういえば訊いていなかったな。よければ教えてもらえるか?」
パールの代弁が俺に務まるかどうか自信はないが、彼女の名に恥じぬよう、俺はサヒードに面と向かって伝えたのだ。
「『美しさを越えた価値』……だとよ」
「美しさを……。フッ、そうか」
サヒードの精悍な顔がくしゃりと綻びる。なぜ彼が今まで余所者を毛嫌いしたのかと思うほど、その破顔は清々しいものだった。そんなアシェフの代表者の笑顔を背に、俺は部屋を出て行った。サコンが気色悪そうにこちらを見ていたが、きっと俺もサヒードと同じ顔をしていたに違いない。