9-15 スイートアリッサム
『面白い。申してみよ』
「その前に……。約束していた花を君に贈ろう」
パールは一度少女のいる所から遠ざかり、円テーブルがある場所まで足を運んだ。円テーブルもパールと同様、立体映像なのでそこには実在しないのだが、感覚的には始めからあるような錯覚を覚えていた。
口の大きく底が浅い鉢植えから、同一種の白くて小さい花々が横に広がって生けられている。立体映像であれど、植物の瑞々しさというのは心に潤いをもたらすものだ。少々荒んでいた俺の心が徐々に洗われていく。
真っ白な各々の横に立ったパールは、その花を愛でながら話を続ける。
「スイートアリッサム。地中海の沿岸で生まれた可憐な子だ。このように細かい花が密に集まり、満開時には花びらの絨毯が出来上がる。周囲にほんのりと甘い香りが漂って、安らかな時を迎える事ができるだろう」
『フッ、手向け花にはうってつけというわけか』
「そうじゃない」またパールはかぶりを振った。「サヒード、この子の花言葉は知っているかい?」
『……知らぬな。知ったところでどうにもならぬ』
代表者は声をいっそう低くしてそう答えた。約束していた花というのは例のウルフが手配していたものらしいが、なるほど、こういう手段を使ってくるとは。ただ、それは手向け花として用意されたものでは決してない。アシェフの住人を救うためのものだとは思うが、パールがあの真っ白い花を用意した意図はまるでわからなかった。花言葉がそのヒントになるのであろうが、植物と無縁の生活を送っていた俺がそれを知るはずもなかった。
『関係ない話をして俺の気を紛らさせようとするか。くだらん時間稼ぎにつきあっている暇などない』
「関係はある。聞いてくれ、サヒード」
パールの声にはいつも以上に彼女の意志がこもっていた。その空間に瞬間の静寂が訪れる。誰もが平和の使者の雄弁を待ち望んでいるかのようだった。一呼吸置いて、両手を広げるミトラに向かって強い口調で告げる。
「散り際の花は儚く美しい。だが、それは咲き誇る刹那があってこそだよ。人の命もおんなじだ。今この瞬間を懸命に生きる者だけが、優美な最期を与えられる」
『ならば、俺はそちら側だろう。家族を失い余所者を恨み、挙句には信頼していた祖国にも裏切られ、それでもここまで生きてきた……。花と同様、枯れ果てて死ねるのなら、これが俺に相応しい自然の摂理なのだ』
「自然の摂理? 馬鹿を言わない事だ。花は自らの命を絶ちはしない」
『大輪を咲かせるには、小さきものを間引く必要があるという事だ。もはや俺だけでなく、アシェフの民がそれを願っている。貴様が我々を想うのなら、我々が息を引き取るまで、どうかこの町に足を踏み入れないでくれ。なに、そう時間はかからぬ。静けき夜は三度と迎えられぬだろう……』
そう苦しそうに言ったサヒードの浅く短い呼吸が、スピーカーから伝わってくる。口調だけでなく彼の発する言葉そのものにも、ぎらついた感じに陰りが見えつつあった。それが意味するものはすなわち……。彼の言葉を借りるとすれば、静けき夜を三度と迎えられないほど衰弱しているという事だろう。
そんな状態でも、サヒードは国のため住人のため、真っ新な誇りを貫こうとしている。その潔さは最早、俺達の手が届かない地点まで到達しているかもしれない。信じる者だけが辿りつける結論を迎えようとしている。その神聖な場所に、俺達のような部外者が介入する権利はあるのだろうか。俺は独り、答えの出ない自問を抱えてしまっていた。
あの少女はまだ幼い。サヒードのような懊悩と苦労に長年苛まれてきたわけではないだろう。命じられた事を懸命にこなそうとしているだけだ。ただそれ故、心に直接訴えてくるものがある。熱砂の荒野に一人、ボロ布を纏って軍用車両に立ち向かうその姿は、妄執さえ超越した悟りの境地であるかのようだった。
しかし、少女の――ミトラの眼は濁ったままだった。人生におけるほとんどの憎悪を、むせ返るほど浴びたような眼だった。幼い子どもがそんな眼をしていいはずがない。あの子はまだ咲き誇る時間さえ迎えていない。間引くだとか切り捨てるだとか、人の命をそんな風に割り切れるものか。
辛い過去や現実に目を背けたくなる事だってある。人はそういうものを忘れて生きていく。でも、人生に何度かは真っ向から受け止めなければならない時がある。アシェフの民の誇り高き死に様を見届ける事は、目を背ける事と同義に他ならない。彼らを救って改心させてこそ、俺達の取るべき行為――正対なのだ。
昔の、両親すら信じる事ができなかった俺がここまで成長できたのは、眼前に佇む師匠のおかげだ。パールは俺の意志の礎を築いてくれた恩人だ。彼女がサヒードに対して告げる言葉は、言い方や言葉遣いは違えど、俺が伝えたいメッセージそのものだった。
「……今まで君は、さぞ苦しい人生を送ってきたんだね。せめて最期は美しく安らかでありたい、その考えを否定したりはしないよ。……でも、サヒード。君は一つだけ大きな勘違いをしている」
『なに?』
「美しい事が、この世の全てなどではない。国のために君が死ぬ未来を、君自身が本当に望んでいただろうか。少なくとも私の記憶には一生残るはずだ。国を想って死んでいった哀れな男と、その男が守ろうとした町の哀しい末路が……。それらは決して、美しいものではない」
『ならば貴様は俺にこれ以上の、悲哀と苦渋を味わえと言うのか! いつもそうだ、余所者は俺達にエゴを押しつけ強要させる。飢えと渇きを耐え忍び、生きて再び貴様らに虐げられるはごめんだ! 美しき死より望まれるものなどあるものか!』
「あるさ!」
パールが声高にそう答える。その場にいる誰もがハッと息を呑んだ。少女の眼に一筋の光が差し込んだような気がした。
「苦しまなくてもいい、死ななくてもいい。君達にはこの場所で、この花を育ててほしいんだ」
『花、だと?』
サヒードは驚いた様子でそう訊いた。パールは白い花を愛でながら頷いた。
「スイートアリッサムは世話がかかる子でね。日照りや乾燥を好むのに、暑さにだけはめっぽう弱い。だからアシェフの人たちに、この子の世話をしてもらいたい。スイートアリッサムが咲き誇る土壌を作ってもらいたいんだ。想像してごらんよ、一面に広がる花の絨毯を。太陽の下でも星空の下でも、きっとアシェフを綺麗に彩ってくれるはずさ」
『……俺がこのまま死して視る光景より、その花絨毯のほうが美しいと?』
「目を瞑ったらわかるさ。真っ暗で何も視えないだろう? 人はその闇に飲みこまれて寂しく死んでいく。だったら――」
顔を上げ、パールは語気を確かなものにした。儚さの中に芯の強さがあった。
「生きているうちに、花絨毯を目に焼きつけておくんだ。そうすれば闇の中で思い出す事ができる。死ぬのはそれからでも遅くない。そうだろう?」
灼熱と飢餓、まさに地獄と形容できるこの地において、パールの提案は非現実的のように感じた。最期を彩るために用意された花なんて、それこそ手向け花ではないか。
けれど、スイートアリッサムに込められた彼女の思いは、俺の目指す未来と同じもののはず。そう、濁りきった少女の眼が、澄みきった清流のようになる未来と。だから俺は、サヒードの返答を落ちついて待つ事ができたのだ。
『死の闇に広がる一面の花絨毯か……。フッ、まことに奇妙な光景であるが、気に入った』
牙を失った獣のような、愛憎が入り混じったサヒードの声。全てを享受する準備が済んだ――いや、もうそうする事しかできないほどなのか。
一段と掠れた声がスピーカーから流れる。
『だが、人が土に還るとき、肉は腐れ落ち骨が残る。白い花だけでは骨を連想させて不吉だ。花絨毯を称えるのなら、色彩に溢れたものがより良いとは思わぬか?』
「安心してくれ。スイートアリッサムの花色は幅広い。白の他に、赤、紫、それにピンクもある」
『そうか……。アシェフの町がその花で溢れれば素敵だな……。一目でいいから見てみたかった……』
サヒードのささやかな願望に対し、パールは強く応じた。それが自分に課せられた使命であるかのように。
「これから見ればいいじゃないか。聖なる地が単なる荒地なんて味気ない。華やぐ場所にこそ気高き思想が宿り、心豊かな人間が集っていく。だから君が先導して変えていくんだ。アシェフの町を、サヘランの未来を!」
『……面妖な事を言うやつだ。花を育てる事で国の未来を変えられるとでも?』
「このまま君が死ぬよりは、いくらか変わる、変えられるさ」
『……フッ。もしここで実現させるとなれば、膨大な水と人手が必要になるであろう』
「もしよかったら手伝うよ。何が欲しい?」
『そうだな……。ではまず、水と食糧を分けてはくれぬか。腹を空かせている民が多くいる。女子供を優先してくれるとありがたい……』
「わかった。……ありがとう」
二人の代表者が共に感謝の言葉を告げる。それは、懐柔、不審、強行、拒絶など、様々な愚行の終結にあった和解だった。パンドラの箱の中に希望が残っていたように、アシェフの代表者は救いの手を受け取るという賢明な選択を取ったのだ。
あれだけ濁っていた少女の眼から流れ出るものがあった。広げていた両手を下げて少女が泣きじゃくる事で、この不毛な、けれども誇り高い交渉は終わりを迎えた。
装甲車の中では歓喜の声が上がる。年を取ると涙腺が緩むのか、隣にいるサコンは熱くなった目頭を押さえて震えていた。何度も何度も心の中で諦めていた俺としては、改めて師匠の存在のデカさを思い知って、平和の使者様万々歳といったところだった。
だが、車内の中でただ一人、浮かない顔をする人物がいた。そいつの名前が呼ばれるまで、俺は事態の結末をまるで把握していなかったのだ。
『オーラン、聞こえるか?』
「サヒード!」
『オーランよ。貴様が守った多くの命の灯火は、どうやら消えずに済みそうだ。……だが、その一つはもう間もなく消える』
「……サヒード? サヒード!」
悲壮な声で、オーランは代表者の名を呼んだ。ここまでアシェフの町を守りきり、長時間に渡る交渉に応じてくれていたのは、自らの最期の瞬間を悟っていたからなのか。
サヒードは生きる力を振り絞るようにして、炎天の大地に言葉を残した。
『後はお前の力で、アシェフの町を導くのだ。最後まで責務を全うせよ、オーラン! ミトラの事を頼ん……だぞ……!』
泣きじゃくる少女が首からぶら下げたスピーカー。それから二度とサヒードの声が聞こえる事はなかった。救おうとした手は砂を掴むように、あまりにも簡単に崩れ去ってしまうものなのか。昂ぶっていた感情が全て呆然というものにすり替わり、俺は抹消された町を見る。
陽炎が湧き立つ大地の頭上には、当然の如く太陽がそれを見下ろしている。ならば彼の運命も、全てを焦がす太陽は知っていたのだろうか。静けき夜は三度どころか一度目すらも訪れていないのに、あまりにも惨すぎる。
炎天下に晒された地雷原で、代表者の名を叫ぶオーランの声が際限なく繰り返された。
スイートアリッサムの花言葉、ご存知でしょうか?
よければ調べてみてください。
「美しさ」に関する花言葉があるはずですので。