9-11 抹消された町へ、再び
外に出て俺がやっちまったと後悔するのに、三十歩も要さなかった。ひんやりとした冷気が脛から下を覆い、湯冷めを彷彿とするような寒気が這い上がってくる。おかげで直前に見ていた悪夢をすっかり忘れる事には成功したのだが、暑いのと違って寒いのは我慢の限界が知れている。一〇度を下回るサヘランの大地は、日中の耐え難い熱気のギャップもあってか、ことさら酷なものに感じられた。
縦列に並ぶ車両の間で所在なく身震いをしていると、何か布状のものが後ろから俺を襲った。テッサが俺の作業着を投げつけたのだ。白い息を吐きながらテッサは俺に言い放つ。
「ばっかじゃないの? そんな恰好で外に出たら寒いに決まってるでしょ」
「あぁ、すまん……」
歯切れの悪い返事を返し、俺はいそいそと作業着に袖を通す。それは湯上りのバスタオルのような安心感で、俺の身を優しく包んでくれた。あの時泣きじゃくった、布団の温もりにも似ていて――。いかん。まだあの夢は取り除ききれていなかった。だけどまぁ、こればっかりは仕方がない。あれは夢であると同時に、俺の過去の記憶そのものなのだから、頭の片隅に追いやる事はできても、完璧に失くす事は不可能なのだ。
何だか知らんがいい感じに吹っ切れて、下がっていた視線が自然と上を向く。そこにはマインローラーによじ登るテッサと、桃色の淡い光を放つポォムゥの姿があった。こちらを振り向いたテッサと目が合うと、怪訝そうな顔をして口を開いた。
「なあにぼさっと突っ立ってんのよ。早く上がりなさいよ」
早く上がる。それって、俺もマインローラーに上がるのを許可するってことか?
「いいのか?」
「特別よ、特別」
砲塔の上にある出っ張った部分――キューポラに腰を下ろして、テッサは俺を見下ろしていた。何分、戦車を乗降りするのは初めてなもので、上に登った際の得も言われぬ感動は、否応にも男心をくすぐった。砂地仕様として宛がわれたサンドイエローの車体が、外灯も何もない真っ暗闇の荒野では黄金のように輝いて見えた。
遮るものがない空には満天の星。見下ろせば至高の輝きを放つマインローラー。色彩に溢れた地雷原というのも変な話ではあるが、それに酔いしれる事で、俺はやっと現実に帰る事ができたのだ。悪い夢は一時的だが俺と共にある事を許された。
突如、彩られた視界が強烈なピンクの光によって脅かされる。それと同時に、視界の隅からひょっこりと、光源となる物体が顔を現した。
「レンはポォムゥが温めてあげるのだ!」
「おい。せっかくの夜空が台無しになっちまうだろうが。光量抑えろ」
「んお、そうか」
ポォムゥは反応よろしく、自身の光を最小限にまで抑えてくれた。肌に当たる桃色の光がほんのりと温かい。こいつに暖房機能まで備わっているとは、と多少驚きあきれたものの、俺はすぐにそれをありがたく受け入れる事にした。
何の気なしにテッサのほうを見遣る。戦車の上にと誘ったのはあちらからだっただけれど、一向に何かアクションを起こすといった事は見受けられない。ただ白い息をふーっと吐いては、星空に映して儚く消え去るのを見届けているだけだ。
気が置けない仲どうしなら沈黙でさえも幸福を感じられるのだが、いかんせん俺とテッサはほとんど他人だ。為すべき事が同じなだけの、特別な感情をお互い持ち合わせない異性。それだけに、どうにも居心地がよろしくない。
間の悪さに負けたかたちで、俺は取りとめのない話題で切り出す事にしたのだった。
「なあ、テッサ」
「何よ」
「明日、うまくいくかな?」
「うまくいかなきゃ、アシェフの人たちを助けらんないじゃん。うまくいくかどうかじゃなくて、絶対にうまくやる。それだけでしょ。ここまできたら、もう気持ちの問題」
腕組みをしたテッサが、俺と視線を合わせずにそう答えた。憎たらしい新人の口から精神論が出るなんて思わず、俺は目を瞬かせてしまう。
「らしくねぇな。そんな事言い出すなんて」
「どっかの誰かさんが手向け花うんぬん抜かすからよ。たしかにあの状況で、無理に押し入るのは悪手だったけど……」
「まあな。あれは俺もビビった。だが、そのおかげでオーランを助ける事ができたんだ。結果論になっちまうけど、ウルフの選択は間違いじゃなかった」
「相変わらずの能天気さね。そんなんじゃ、そのうち痛い目を見るわよ?」
「地雷踏みつけるより痛い事なんかあるかよ」
「……極論皮肉野郎」
不意にそう一言、テッサは俺を睨んで呟いた。
「だから、先輩を敬えっつってんだよ。俺でなきゃとっくにキレられてるぞ、お前」
俺が柄にもなく先輩面して窘めたというのに、テッサは夜空に似た紺色の髪を揺らすだけで、俺のことは気に留めず遠くの彼方を見つめていた。その方角にはアシェフの町がある。今なお飢えて苦しんでいる人々がいる。そう思うと、こうして黄昏ているだけでも贅沢の限りを尽くしているようで、複雑な気持ちが湧き起こってきてしまう。性別やキャリアは違えど、テッサも同じ事を思っているはずだ。
「綺麗な星空……。アシェフの人たちも同じ空を見上げているのかな」
「んお? テッサ、それってどういう意味だ? 空は空だぞ」
不思議そうにポォムゥは首を傾げる。いかに優秀な人工知能であっても、空の見え方が違う人の在り方を理解するのは難しいだろう。人の意思に干渉されない天候というものは、それ故捉え方も一つでは収まらない。天候は時に福音を、時に悔悛をもたらさんとする。精神とはかけ離れた事象に、人は因果を感じてしまうものだ。
アシェフの民は、ずっとこの星空の下にいたいと祈っているはずだ。夜が明け太陽が昇れば、サヘランは灼熱の大地と化す。飢えと渇きのない、闇の静寂と夜の滞在を祈り続けている。星座の瞬きは彼らの眼に映っていないのかもしれない。
――だけど。
「同じに決まってんだろ。だから、きっとわかりあえるさ」
言葉少なに俺はそう返す。アシェフの民に、この国の星空の美しさを知ってもらいたい。夜明けは絶望のためでなく、希望を持つためにあるのだと伝えたいから。
……いや、そんな高尚な事などは考えちゃいない。俺はただ、ギスギスした雰囲気の中でメシを食いたくないだけだ。近い場所でおちおち人が死なれても困る。だから助ける。
これ以上の理由なんてあるもんか。
「んおー?」
俺もテッサも、文脈としてほとんど成り立たない会話を繰り広げたらしく、ポォムゥはいっそう首を傾げて、その後急に大人しくなった。考えるがいいさ。人を正しく理解するには、考える価値のある会話だった。
淡い桃色に発光するポォムゥの熱を感じながら、俺はしばらく星空の中を泳いでいた。
*
――脳裏に昨晩見た星空が過る。
それは心を落ち着かせるために、俺自身が意識的に思い起こさせたものだった。ひとたび集中力が途切れると、悪路を進む装甲車で身体が揺られているのを自覚する。午前一〇時を回ろうとした時間に、俺達は再び抹消された町に向かっていた。
車内には、得体の知れない緊迫感が漂っている。リラックスしようぜ、なんて気さくに声掛けもできるような雰囲気ではない。オーランという一人の人間とはわかりあえたものの、それでアシェフの代表者――サヒードを簡単に説得させられるとは思っていなかったからだ。これでもしも、俺達が説得に失敗しようものなら……。
首を振り、邪推に入り込もうとするのを取っ払う。向かいに座るオーランは思いつめたように下を向き、俺の右隣にはビー・ジェイが煙草を吸いたそうに貧乏ゆすりをしている。唯一左隣にいるサコンだけがいつもの調子のようにも見えたが、ハンチング帽を目深に被っているため寝てるのか起きてるのかもわからない。こんな感じだから車内で会話が弾むのは期待するだけ無駄だった。
装甲車が減速し、その動きを停める。どうやら俺が目を閉じていた時間は、想像していたよりもずっと長かったようだ。テッサ達が乗る前方のマインローラーに合わせたかたちで、運転手のサンタナがブレーキをかけた。目的地の到達に、驚くほど心の抑揚はみられなかった。むしろ直面しなければならない現実が、飛蚊症のように追いかけてくる錯覚さえ覚えさせる。
フロントガラスにテッサ達の視ている景色が映し出される。砂塵を被り、太陽に焦がされる町はアシェフ。建造物の織りなす歪で不安定なラインが、陽炎に揺れる地平線の前にノイズの如く漂っている。死にかけの町に立ち塞がるのは一人の少女。ぎりぎり衣服と認識できる布を纏い、両手をめいっぱい広げて俺達の進行を妨げる。首に不格好な旧式のスピーカーをぶら下げて、負の感情で濁りきった瞳を向ける姿までもが昨日と全く同じだった。
ふらふらと運転席に近づいたオーランが、その画面を見て少女の名を呟く。
「ミトラ……どうして……」
当然、オーランの問いに少女は答えなかった。画面の向こうの少女は自分の居場所を守るため、灼熱の大地で手を広げるばかりだった。
メンバー全員が、いてもたってもいられずに運転席の方へ近づいてくる。震えるオーランの肩を、ウルフがしっかりと掴んで頷く。もはや自覚するしかあるまい。信じるのを止めたアシェフの民の行く末は、紛れもなく俺達に託された。彼らに差し出すのは手向け花なんかじゃなく、救いの、わかりあえる人間の手なのだから。
更新が遅くなって申し訳ありません。
やっと物語が動き出しそうな予感。
次回は早く更新できるようにします。