9-10 ケーキの夢
その日は心躍る日だった。これほどになく待ち侘びた日がついにやってきたのだ。
子供心にも『特別』というものは理解していて、たとえば遠足の前日の夜はなかなか寝付けないだとか、贔屓のサッカーチームの優勝がかかった試合を観に行くだとか、とにかくワクワクするものが『特別』だと思っていた。
ただ、その日はそれらと一線を画すほどの威力を持った『特別』な日で、そして素敵な事に、自分が主役である事を約束された日でもあった。ここまでヒントを出せば言わずもがなだろう。
今宵の食卓に並ぶのは俺の大好きな料理ばかりで、それを腹いっぱいに平らげたら苺がどっさり乗っかったショートケーキも用意されている。しまいにはプレゼントを手渡されて、空にでも舞い上がるような気分で満たされる。まぁ、プレゼントといっても、二番目くらいに欲しかったまあまあ上等なやつなんだけれど。喉から手が出るほど欲しいゲーム機などは、いつも贈呈されず仕舞いだった。だが、それもご愛嬌と思えるほどの最高の日なのだ。
部屋の中でせっせと勉強に励む俺がいた。いつもは鈍重な鉛筆がスラスラと滑らかにノートの上を走る。難解な文章問題も、答えが出ないなりに思考を連続させられる。苦手な社会の問題集だって、今日はがっぷり四つで向かい合える。たとえ解けなくても、今日はむしゃくしゃしなくていい。ご馳走というわかりやすい結論が、あと数十分もすれば俺を歓迎しているのだから。
オーブンで焼かれたチキンの、あの胃袋を刺激する何種類ものスパイスの香り。部屋の外から漂ってくる『特別』がますます俺を昂ぶらせ、脳みそをフル回転させた。母親が俺を呼ぶまでの間に、グゥという腹の音は四回ほど鳴ったかもしれない。
居間の広いテーブルには既に、俺の予想と遜色ない豪華な料理が並んであった。色合いも、チキンの皮の焦げ目からサラダの瑞々しい緑黄色まで、この上なく完璧だった。食卓に父親の姿が見当たらないが、晩餐の準備が出来ているという事はつまり、母と俺と弟の三人で先に食事を済ませてもいいという意味だ。ますます『特別』が現実味を帯びてくる瞬間だった。
父親と一緒に取る食事はどうにも苦手だった。躾にうるさいのは別に構わない。自分でも食器の扱いがなってないと思うほどだったから。だけど、あの空間を支配されている感じ、父を中心に食卓という世界が回っている感覚が嫌だった。時々話題を出すかと思えば、最近弟になったばかりのオズの話ばかり。三人で盛り上がって、俺は独り取り残されてしまう。そこにいるようで、俺はどこにもいなかった。
でも今日は違う。誰にも支配されず、親子として同じ食卓を囲んでいられる。嬉々としないはずがなかった。否応にも弾んでしまう心に足取りを任せて、俺はいつもの弟の隣の椅子に腰を下ろしたのだ。
弟のオズの顔を見遣る。オズは最近になって家族の一員となった。詳しい事情は聞かなかったけど、オズはとても良く出来たやつだった。両親が俺そっちのけで弟に愛情を注いでいたのも、子供心に何となく理解していた。こんなにも優秀でかわいい次男がいれば、お荷物になった長男も平等に育てろというのは難儀な話だ。俺にとっちゃ全然面白い話ではなかったが、機嫌の良い両親の顔を見て、俺はまるで自分が彼らを満足させたのだと錯覚していたのかもしれない。
オズは俺と目が合うと、いつもは健気に「どしたの?」と訊いてくるのだが、今日は何だか反応が違った。色とりどりの豪華な食卓に、ブラウンの大きな瞳をすっと逸らしたのだ。俺は呑気に腹減ってんのかな、と疑問にさえ思わなかった。何の気なしに自分のために用意されたケーキに目を移すまでは。
『オズへ 飛び級試験合格おめでとう!』
チョコレートプレートにはそう書かれていた。一瞬、何が何だか分からなくなって、俺は瞬きすら忘れたままケーキを見つめていた。楽しい字体で書かれたプレートのどこを探しても、自分の名前は見当たらなかった。
直前まで腹ペコだったというのに、喉が栓を閉められたくらい窮屈になって、言葉を発する事さえできなくなってしまった。料理から漂う美味しそうな匂いは途端に、胸焼けを起こしてしまうほどの不快なものに様変わりした。オズは顔を落としたままだった。癖のない真っ直ぐな髪の毛を垂らして、誰のためでもない食卓を見つめていた。
俺はふらふらと母のいるキッチンへ向かった。ボルシチのもわっとした匂いが充満する中で、母は鍋の前に立って味をみていた。無論、俺の鼻はその匂いを良いものとは認識してくれなくて、その場にいるだけでも眩暈を起こしそうだった。
母はまだ俺に気づいていなかった。こんな時、どんな風に声をかけたらいいのだろうか。 泣き面を晒して喚けばいいのか、それとも素朴にプレートの事について訊ねればいいのか。舞い上がった気分はとうに地面にへばりついていたが、俺は真実の在処を母親に求めようとしていた。
俺の罪は二つ。呆然とキッチンへ足を運んでしまった事と、そこにあったゴミ箱の方に何気なく顔を向けてしまった事だ。捨て置かれた楕円のホワイトチョコのプレートが目に入った。そこに書かれた文字は読むべきでないと直感しながらも、読むのを止められなかったのは俺に対する罰だったのか。
『レンへ 十一歳の誕じょう 』
思わず悲鳴染みた声が飛び出て、それから母も俺の存在に気づいた。
その時の母親の顔ときたら今も忘れられない。俺がその悲痛な顔をしたいくらいだった。
気がついたら、俺は自分の部屋に鍵を閉め、布団の中で噎び泣いていた。涙が枯れるまで喚き倒し、逆流する胃液を存分に吐きだした。その間、母が必死にドアを叩いて俺の名前を呼んでいた気がしたが、それに応えようとはしなかった。まさか絶望の先の感情があるとは知らず、俺はその感情に蹂躙されるがままだった。ただ俺は、何もかもを拒絶するしかできなくて、覚えているのは義弟との扱いの差をそれからひしひしと感じるようになったという事だ。
俺の『特別』はオズの『特別』に上書きされて、この世から消えてしまった。
俺も同じようにこの世から消えてしまいたかった。少なくともその夜だけは。
噎び泣き、泣き喚いた十一歳の誕生日。忘れる事はない、最低最悪の誕生日……。
*
「ち、ちょっとレン! どうしたのよ!?」
「んお~! レン、しっかりするのだ~!」
視界には、テッサとポォムゥが俺を心配する姿があった。重力に引っ張られた上体を起こして、きょろきょろと辺りを見回す。光源は桃色に発光するポォムゥだけで、俺はまだ夢を見ているのかと錯覚しそうになる。
「すごいうなされてたけど」
「あぁ……。最ッ低の夢を見た……」
動悸で胸が締めつけられる。じっとりと浮かぶ汗は背中に留まらず、額にも手の平にも及んでいる。サヘランの夜風は今の俺には冷たすぎた。
夜風。そうだ、俺はいつもと違う寝床についているのに気がついた。
「そうか。俺、テントで寝てたのか……」
「まったくもう脅かさないでよ。ポムちゃんに言われるがまま、ここまでついてこさせられたんだから」
「レンの脈拍が130を超えてたんだぞ! 異常事態だと思ってテッサを起こしたのだ!」
「ったく、大きなお世話だよ……」
寝惚け眼には、仄かに光るポォムゥはまだ眩しすぎた。テッサも眠たそうに大きな欠伸を漏らす。テッサは就寝用の袖口の大きいシャツを着ていたが、寒そうに身を震わせた。
背後に衣擦れの音がして振り返ると、寝袋の頭の部分からモジャモジャが見えた。糸目のラッシが幸せそうな顔をしてスヤスヤと眠っていた。無性にそのモジャモジャをはたきたくなったものの、次第にそんな気持ちは失せていった。
アシェフへと赴いた俺達は、燃料節約のため今日はS・Sへ帰らず、辺り一面地雷原の中でこうやって野宿をする事に決めた。すこぶる寝心地の悪い装甲車の中を嫌って、一人外で寝る事にした俺と、テッサに戦車の中を占拠され追い出されたラッシが、テントを張って夜を過ごす事になったのだ。
動悸はまだ直で感じられるほど速い。身体を入れた寝袋の中がサウナのように暑かった。
「あ、ちょっと、どこ行くのよ」
俺は狭苦しいテントの中を抜け出し、冷たすぎる夜風に当たる事にした。白い息が吐けるほどの冷気に汗だくの身を晒さなければ、最ッ低の夢を頭から拭い去る事なんかできやしないと、そう思ったからだ。