9-9 人生で一番美味いスープ
初めて聞く名前なのになぜだかピンときて、俺は声を上げた。
「サヒード……? もしかして、アシェフの代表者のことか?」
「十五年前に起こった疫病関連の事件を、未だに根に持っていたようだが……」
ウルフの言葉にオーランが頷く。
「それなら、サヒードに間違いありません。もっとも、それに関してはこちら側の逆恨みに他ならないのですが、わたし以外の住民は聞く耳を持たない有り様で」
代表者の名前が判明した。そしてそいつはいけ好かない野郎に違いないと、俺は盲目的に邪推した。疫病関連の件での救助隊の弁明も聞く耳持たず、勝手に余所者を毛嫌いした挙句、今の惨状を作り出した張本人だ。しかも、痩せ細った少女を盾にして、自分の姿は一向に見せる気配がなかった。元凶ではないものの、状況を著しく悪化させた卑怯者の名前を、俺は胸の中で反復した。
考え込むように口に手を置き、ビー・ジェイはおもむろに呟く。
「サヒードは、曲解した過去に捉われて籠城みたいな真似しているのか」
「違います!」皆一同になって、突然大声を張り上げたオーランを見遣る。「彼は常に賢明だった。弱る人々を励まし、助かる見込みのない境遇に置かれても決して挫けなかった。食べ物の奪い合いが起こらなかったのも、皆がサヒードを信頼していたからなんです。彼がいてくれたから……」
賢者の沸騰的な怒りに誰もが困惑した。彼が息切れてくれたのが何より救いだった。ここまで懇切に接してくれていたオーランであったが、彼もまた閉鎖的意識の強いサヘラン国民なのだ。オーランの拒絶に、俺は泥沼のようなサヘランの闇を垣間見た気がした。
ケイスケがどっしりと構えた体勢で、疲弊した賢者に訊ねる。
「オーラン殿。某たちが聞きたいのはその先でございます。それほどの人物がなぜ貴方を追いやり、アシェフの町と共倒れせんとしているのでしょうか?」
「……思い当たる事が一つあります」オーランは一度唇を噛み締め、ぽつぽつと続ける。「町の一角に墓を設けたんです、この期間に死んでしまった住民たちの。日を追う毎に増えていく墓標を前に、サヒードはこう呟きました。『同じだ、あの時と』って」
俺以外のメンバーにとっては、オーランの辿る記憶は単なる情報の羅列に過ぎなかったかもしれない。実際に息を呑んだのは俺だけで、他の連中はオーランの話に集中していた。 だが、俺の眼には別の光景が映っていた。
それは数カ月前まで仕事場だったゴーストタウン。人の住む気配がまるでなく、町中に地雷だけが敷き詰められた廃墟より廃れた町。そういえば、どことなくアシェフと雰囲気が似ている気がする。閉鎖的、退廃的な空間で、裏路地に落ちる陰が粘りつくような闇色だった。
唐突にそのゴーストタウンを思い出したのは、偶然にも俺がアシェフと代表者と全く同じ言葉を口走っていたからだ。陰鬱な過去に正対せざるを得ない。そういう状況を突きつけられて……
同じだ……あの時と……
あの時、そう口にするより他に俺は何もできなかった。俺のせいで一つの命が失われたという事実。振り返るまでもなく、言葉の通り、あの時と全く同じだった。
幸いだったのは、俺がこの世の終わりみたいな顔をしていたのを誰にも悟られなかった事だ。俺以外のメンバーは、オーランの語りに耳を傾けていた。
ウルフが手本のような相槌をする。
「あの時……。十五年前の出来事か」
「ひたむきに前を向いて生きてきたサヒードの事です。きっと、思い出さないようにしてきた辛い過去が蘇ってしまったんでしょう。それからです、サヒードの言動に異変が起きたのは」
「異変?」
「サヒードは皆に希望を持ち続けようと声をかけていたのに、いつの間にかそれが、誇り高く死のうだとか、終焉こそが我々の望むものだとか、そういう言葉にすり替わっていたんです。それがあまりに自然すぎて、わたしも気づくのに時間がかかってしまって……」
メンバー達は顔を見合わせる。オーランの言う事が本当ならば、サヒードという人物は献身的にアシェフの民の世話をしていたが、極限の状態に追い込まれて愚行を重ねている――もっと噛み砕いた表現をすれば、おかしくなっちまったという事になる。
「食糧難による慢性的なストレス。それと本来起こり得ない事態がフラッシュバックを引き起こし、サヒードの言動を変容させた。そう考えるのが妥当だろう」
一服し始めたビー・ジェイが、誰もいない空間に煙を吐いてそう告げた。医者らしからぬぶっきらぼうな態度はけしからんが、彼の言葉には謎の説得力があった。
「それまで固い意志を持ち続けた男が、かい?」
「実際はわからんさ。でもな、サコン。固いってことはそれだけ脆さもあるってことだ」
「でも、リーダーが正反対の事を言い出したのに、住民たちは何の疑問も持たなかったんでしょうか?」
サンタナの疑問に、オーランはかぶりを振った。
「不思議な事に何も。むしろ心を揺さぶられたかのように、住民たちはサヒードに同意したのです。それが私の目には、漠然と奇妙に映ってしまって」
「あんた以外の住民に、集団心理が働いたのかもしれんな」
またビー・ジェイの口から専門用語っぽい言葉が発せられる。だが、それはあまり学のない俺でも聞いた事のあるものだった。自分が「YES」と正しい答えであるのに対し、周りの人間が「NO」と誤った答えを声高に言っていると、なぜだか自分の答えに懐疑的になってしまう心理の事だ。
だから俺は、ビー・ジェイに疑問を投げかける事ができた。
「オーランは、その集団心理とやらにかからなかったのか?」
「おそらくだが、一時期に母国から離れた経験がオーランを助けたのだろう。見地の差とういのは大きい。それに話していたらわかる通り、オーランは賢い人間だ。厳しい境遇に置かれても、冷静に物事を分析していたのだから」
「そうですよね。オーランさんはアシェフの英雄です」
オーランは喜ぶ素振りも見せず、顔を俯けた。その先には水の入ったペットボトルがあったが、オーランはそれを眺めるばかりだった。
「もしそうだとしたら、縄で縛られて町の外に追放されたりしませんよ」オーランは悲しそうな眼をして嘲った。確かにといっては悪いが、その振る舞いは英雄に程遠いものだった。「サヒードの心情もわからず、ちょっとした指摘で反感を買ってしまい、そのまま口論に発展して……。サヒードの言いなりになった住民に数人がかりで取り押さえられて、今の状況になってしまったのです。わたしがもっとしっかりしていれば、こんな事には……!」
肩を落とすオーランを優しく励ますのは、ウルフとサコンだった。
「どちらも良かれと思っての事だ。今はその是非を問うてる時間はない。そうだろ?」
「安心しな、オーランさんよぉ。もう誰一人として死なせやしないさ」
「ありがとう。助けに来てくれたのが貴方たちで本当によかった……」
車内が和やかな空気に包まれる。たった一人の人間であっても、サヘランの国民と和解する事ができた。それがどうにも俺達の頬を緩ませたのだ。ただ、全てが終わったわけじゃない。むしろこれからが本番だというのに、こうして和やかにしていいものかと疑問さえ覚える。でも、謎の微笑みはなかなかどうして抑える事ができなかった。
だから俺は調子づいて、いつもみたいに愛のある皮肉を口にしてみた。
「まぁ、誰かさんが啖呵切ってくれたおかげで、ヤバい状況なのは変わらないんだがな」
「え?」
ウルフは気まずそうに顔を逸らす。オーランだけが状況を飲みこめずにいたが、手向け花の件は、彼がもう少し落ち着いてから話す事になるだろう。
どこからか、とぷとぷとマグカップにお湯を注ぐ音がする。振り返ると、ケイスケがでかい図体をこぢんまりとさせて、何やら調理を進めていた。出来合いのものであったが、コーンスープの香しい匂いが漂ってきた。
「それはさておき……。ウルフ殿、これを」
「あ、あぁ」渡されたカップを、ウルフはそのままオーランに手渡す。「インスタントで申し訳ないが……。飲んでくれ、オーラン」
「わ、わたしは……」
てっきりありがたくいただくかと思っていたが、オーランは神妙な顔をしてマグカップの中身を見つめ、そう言い淀んだ。クリーム色のスープからは湯気が昇り、それが物言わぬ味わいを深めている。……ま、インスタントだから一口飲んでがっかりするまでがワンセットなんだけど。
だが、オーランは生唾を飲みこむばかりで、カップに口をつけようとはしなかった。さっき渡した水も結局、蓋を開けすらせずに横に置いたままだった。
「ん、どうした? 腹減ってんだろ?」
何の気なしに首を傾げて訊ねたが、やはりオーランはマグカップを手に持つだけだった。そして隣から、ハッと息を呑む音がはっきり聞こえた。ウルフが申し訳なさそうにして顔を下げていた。
「すまない、オーラン。君の気持ちもわからずに……。レン、一口飲んであげろ」
「一口? ……あっ」その言葉でおバカな俺も、ようやく察する事ができたのだ。「そうだな」
十五年前のアシェフで起こった出来事。救助隊が上空から落としていった食糧には睡眠剤が入っており、それを向こうのやつらは毒物だと思い込んでいること。俺たちは、アシェフの民を思いやる事はできても、その心情までは明確に理解できていなかった。
心の隙間につけこんで、優しい言葉を投げかけて絶望のどん底へ陥れる……。そんなイメージが、オーランの頭を過っていたのだろう。余所者に渡される水やスープに、そう簡単に手をつけられるはずがない。ましてや拒絶なんかしたら今にも殺されるかもしれない。
わかっていたつもりだったが、俺達は何にもわかっちゃいなかった。
湯気の立つスープを手に取り、俺はほんのちょっとを口に含んだ。うん、思った通り、見た目よりかは期待外れの味だ。粉っぽくて出来が良いとは世辞にも言えない、けど。
「ま、インスタントにしては上出来かもな。ほれっ」
「あ、ありがとう……」
手渡したマグカップから、彼の手の震えがわかった。そしてオーランは恐る恐る、スープを口の中に運んだのだ。含んだものを口全体に行き渡るようにして、オーランは目を閉じて飲みこむ。
そうして俺達を見上げた顔は、彼の本当の朗らかな、安らかな表情だった。
「こんなにうまいコーンスープ、飲んだことがないよ」
賢者の目には涙があった。嗚咽が彼を襲い、スープを飲む動作がぎこちない。それでも賢者は人生で一番美味いスープを飲むのをやめなかった。
「うまい……うまいよ……」
しばらくの間ずっと、車内にはスープを啜る音が静かに響いた。