9-7 蟠り
アシェフから数十km離れた『必死地帯』のわずかな合間、互いに視認する事のできない地点まで俺達は戻った。その間の車両内の雰囲気は最悪で、あのやかましいポォムゥでさえも口を閉じる有り様だった。あいつに空気を読むなんて芸当が仕込まれているかどうかは知らんが。
装甲車が停車し、俺が縮こまった背筋を伸ばしている時にそれは起こった。重苦しい雰囲気の元凶が、いきなりウルフの胸倉に掴みかかったのだ。
「どういう事だ、えぇ? ウルフさんよぉ」
「サコン殿、落ち着いてくだされ。お気持ちは察しますが――」
「だったらお前さんも交じって話し合おうや。お互い納得いくまでそうするのが今後のためだ。それが平和的な方法ってもんだろう? 何とか言ったらどうだい、えぇ?」
嫌味たらしい口調で、サコンはウルフを睨め回す。頑固なジジイが青筋を立てて怒りに震えるのを、ガタイのいいケイスケが止めに入りはしたが、サコンの怒りは収まらなかった。
オーランと呼ばれる男の救出、それとあの場からの一時撤退を余儀なくされて、しばらくは皆が状況に流されていたものの、そろそろウルフから何らかの説明を求めていた。なぜアシェフの民を見殺しにするような発言をしたのか、その真意を確かめたかったのだ。
閉口するウルフの眼にいつものような鋭さはなく、視線は宙を彷徨っている。
端に追いやられてようやく、ウルフは重い口を開いた。
「……昨日からずっと考えていたんだ。アシェフの民の事を」
俺を含むメンバーは黙りこくり、ウルフの言葉を促す。くすんでしまった彼の黄色い瞳に、俺は何かを感じ取っていた。読み取れはしないけれど、その瞳の奥に複雑に絡みこむ感情があるとだけはわかった。
「余所者には裏切られ、唯一信じていた自国からも見放されたら……。こちらがどんなに説得しても、全部を否定しにかかってくる。同じ立場だったら俺だってそうするってね」
「だから見殺す事にしたと?」再びサコンはウルフの胸倉を強く握り戻し、大声を上げる。「ふざけんじゃねぇよ! 目の前で苦しんでる人を助けるのが人間だろうが!」
「サコンさん落ち着いて!」
しびれを切らしたサンタナも止めに入り、サコンは二人がかりで押さえつけられる羽目になった。それでもなお、サコンはウルフに食ってかかろうと鼻息を荒くして躍起になっている。
「彼らは多分」その様子を気にする事もなく、ウルフは淡々と続ける。「素直すぎたんだ。素直で優しくて気高くて、争いを好まなくて……。今ではそれが、全部悪いほうに向いてしまっている。彼らの行為がどれほど愚かでも、それを指摘したところで何も進展しない。彼らを逆上させるだけだ」
「それで『手向け花』云々と言ったわけか。傍から見るとど偉い挑発に聞こえたがな」
それまで沈黙を守っていたビー・ジェイが煙草に火を点け、そう言った。荒ぶっていたサコンも動きを止めたが、恨むような視線でウルフを睨め回すのは止めなかった。
「一種の賭けだった事は認めるよ、すまなかった。でもサコン、これだけは知っておいてくれ。俺はアシェフの民を見殺しにするつもりは毛頭ない。彼らを救うためにあえてああいう風に告げたのだと」
「……救える見込みはあるってのかい?」
「まだない」決して前向きな返答ではなかったが、ウルフは語気を強めて話を続ける。「だが、彼らが本当の愚か者じゃないとわかっただけでも収穫じゃないか」
「確かに。同胞の――オーランといいましたかな――彼の命を奪わなかったという事は、アシェフの代表者はそれだけの理性を保っているわけですから」
ケイスケはそう頷いて、サコンの肩を二度ポンポンと叩く。サコンが脱力したように拳を下ろすと同時に、漂っていた沈鬱な空気は元に戻り始めた。
傍観者――いや、置物のようにその場に座り込んでいただけの俺だったが、実は俺もケイスケと同様の分析を頭の中でおこなっていたのだ。
反旗を翻す者なんてのは大概、犠牲を顧みずに己の野望を果たさんとする。内側から徐々に変えていこうとするのではなく、声を大にして同胞を集め、劇的な変化を求めるものだ。もしもアシェフの代表者が粗暴な輩だったら、そこで今横たわっているオーランという男をすぐにでも殺していた事だろう。だが、そうしなかった。つまりは、まだ話し合いのできるだけの余地があると判断できる。
情けをかけてやるだけの理性があるのなら、こちらにもつけ入るチャンスはある。口にはしなかったが、俺はいつもよりかなり前向きに、朧げな希望を頭に思い浮かべていた。
そこにタイミング良く通信が届いた。サイドテールの綺麗な黒髪と言えば、ウルフのパートナーであるロウファで決まりだ。
『ウルフ、アシェフの代表者が言っていた、十五年前に起きたアシェフの事件についてわかったわ』
「教えてくれ」
『当時アシェフでは、感染力の強い疫病が流行していて、その時に半数以上の住民が亡くなったらしいの。といっても、現代医学で充分に治療できるレベルのものだったけど。でも、当時からサヘランは鎖国的――何か変なコトバだけど――だったでしょ? だから、救助隊が向かうまでかなりの時間を費やしたらしくて』
「具体的には?」
『二十九日と五時間四〇分……。感染者にとって致命的な日数ね』
ロウファが少し哀しそうな表情をして告げる。
皆が話を切り出しにくい中、ビー・ジェイが煙混じりの長い息を一つ吐き、首を傾げて疑問を呟く。
「でも、何であれ救助はしたんだろう? だったらなぜ奴さんはあんなに余所者を恨んでいるんだ?」
『当時の報告書によると、まだ感染の症状が見られなかった住民が、押し入る救助隊を嫌がって重火器を用いて激しく抵抗したみたいで』
「ちょうど今みたいな状況だったんだな?」
『そうね。だから救助隊は仕方なく、睡眠剤を混入した食糧や医薬品をヘリから落とし、薬が効いてくる時間にアシェフに侵入したらしいわ。だけど……』
言葉を詰まらせるロウファ。その先の話は察しの悪い俺でも予想がついた。あまり予想したくないものではあったが。
『患者のほとんどがもう手遅れの状態で……。生き残った住民が目を覚ました時には、既に息を引き取った人が多くいたそうよ』
およそ一カ月の間、疫病にかかった人間を放置したらそうなるに決まっている。最期を苦しまずにいられただけでも、アシェフの民にとっては幸運だったのではないか……。
その時俺はハッとして、久し振りに口を開いた。
「お、おい。じゃあアシェフの代表者は、今もその事を誤解しているってわけか?」
「当時の救助隊を、配給物資に毒を盛った鬼畜外道と勘違いしているわけですな。それで我々の事もそうみなしていると」
どうやら俺は言葉足らずだったようで、ケイスケが誤解の詳細を淡々と述べる。
要はこういう事だ。――死に至る疫病が蔓延し、町存続の危機に瀕したアシェフにここぞとばかりに余所者が乗り込んできた。激しく抵抗して追いやったと思ったら、余所者はヘリから配給物資を落としていった。おそるおそる手をつけてみたらそれには毒が盛られていて、住民の過半数が命を落とした。余所者の非人道的な手段によって――
そんな風に、アシェフの民は誤解しているらしい。情報化が進みまくったこの時代に、よくもまあこんなくだらん解釈をしなさりやがって。心の中でそう悪態をついたが、口にしたらダメな事くらいわかっている。だから俺は苦い顔をして、もやもやする気分をやり過ごした。
『何度も説明はしたわ。でもその一件以来、サヘラン政府及び国民の特徴として、外部からの干渉をいっそう拒もうとするばかりか、排他主義の傾向をさらに強める事になった――。報告書の最後には、そう纏められているわ』
「何だか、悲しいですね。いつまでも信じてもらえないっていうのは」
下を向いたサンタナがそう呟く。十五年という月日が経った今現在もなお、俺達は非道な余所者としてみなされている。アシェフの民の哀しき記憶は風化するどころか、忘れ得ぬ刻印として胸の中に残っているのだ。
サコンは一歩退き下がり、押さえつけられていた身体の自由を得る。ウルフに詰め寄ろうとした気持ちも萎えてしまったのだろう。背を向けた老いぼれの後ろ姿が、俺にはいつもより小さく見えた。
「先人たちのツケが積み重なって、今の状況になっちまったのかってぇのかい。けっ、口説くには最悪のタイミングだな」
「だが、誰かがそのツケを支払わない限りこの問題は収束しない。そして不運な事に、俺の手持ちだけじゃ払えっこないんだ。だからサコン、あんたも一つ手を貸してくれ。皆で協力すれば、文殊の知恵が浮かんでくるとは思わないか?」
ウルフの双眸にいくらかの輝きと鋭さが戻っていた。サコンは背を向けたままだったが、やがてハンチング帽を深く被り直し、しゃがれた声を上げる。いつの間にか彼も、いつもの食えないジジイに戻っていたのだ。
「……損な役回りだぜ。まぁ、一仕事やった後の酒のためと思えば悪かないか。そん時は、俺の隣で酒を注いでもらうぜ。ウルフさんよぉ」
「恩に着る」
小気味よくウルフがそう答える。数分前までの蟠りなどは消し飛んでしまったかのようだった。俺は少女の眼を思い出す。誰も何も信じないといった嫌悪に滲む黒き眼。砂埃にまみれた不信の表情。願わくば彼女の瞳に、希望の光を宿してあげたい。簡単にできる事じゃないのはわかっている。でも、世界はそんなに捨てたもんじゃないと、言葉が通じないなりにそう教えてあげたい。俺は心の底からそう思ったのだ。
話に一段落ついたところで、ウルフは煙草をふかすビー・ジェイを見遣る。
「ビー・ジェイ、彼の容態は?」
「栄養失調ではあるが、それ以外の病気や怪我はしていない。じきに目を覚ますだろう」
「彼には色々と事情を聞かねばなりませんな」
「しばらくは安静に――と言いたいところだが、そういうわけにもいかないか」
何ともヤブ医者らしい発言だった。
ともあれ、アシェフの代表者を説得するには、必ずやこの横たわっている男の力が必要になる。ここにいる誰もが、同じ事を思っていた。縄で縛られ荒野に放り出され、荒々しい余所者にその身を委ねられた哀れな男。名前はオーラン。彼には聞きたい事が山ほどあるのだが……。
「うぅ……う……」
苦悶の呻きは、その者の口から突如発せられた。