9-1 チェスの夢
ぼんやりと薄暗い、しかしそこは何とも心の落ち着く空間だった。そこに俺はいた。どういう体勢で何をしているかも定かではなかったが、確かに俺はその場所で部屋の向こうの会話に気を留めていた。
「う~ん、また負けちゃったよ。これで二十七連敗……」
「ハンデなしでは、さすがのオズも私に勝てっこないさ」
聞き覚えのある二つの声。仲睦まじい親子の会話だった。それなのに、俺は安堵ともう一つの、安堵とはほど遠い別の感情との中間に心を彷徨わせた。
「でも、諦めるわけにはいかないし。妥協は怠慢を生む。怠慢は目に見えぬ不幸を生む。そうだろ、パパ?」
「そうだ。そして、目に見えぬ不幸はやがて己を蝕む。自身が気づかぬうちにな。大切なのは常に妥協しない事だ」
「それはいいけど、少しは手加減してくれてもいいんじゃない? こうも完膚無きまで叩きのめされちゃ、文字通り打つ手がないよ」
「ははは。それは、息子にチェスで負けそうになる私が、幸せ者だという事さ」
ああそうだ、と俺はすぐに思い出した。話しているのは俺の弟と、俺の父だ。休日の午後はこうやって二人で、居間で紅茶を飲みながらチェスをやっていたものだ。弟は家族の誰とも血が繋がっていなかったが、二人は本当の家族だった。こうやってよく二人で遊んでいるのは弟と父で、俺はそこに加わる事ができなかったし、加わろうともしなかった。自ら除け者のように、物置染みた自室でゲームなんかをしていた。
だが、いくら気を紛れさせようとしても、彼らの会話はまるでそこにステレオデッキがあるかのように、いつも鮮明に聞こえてくるのだ。
俺は今も頭を抱え込み、耳を塞いで何もかもをシャットアウトしようとした。それでもやはり、弟の清涼な声と父の厳かな声は否応にも俺の頭の中に入り込んできた。
「はいはい。でも負けっぱなしは嫌だからさ、何か勝つためのコツを教えてよ。そうでもしないと、幸せになる前にふてくされちゃう」
「ふむ、そうだな……。チェスの駒にはそれぞれ名前がついていて、それぞれが異なる動き方をする。お前は駒の特性をよく理解し、盤上をまるで本当の戦場のように見立てて駒を動かす癖があるな。ある意味それは正しいと言えるが、正しいからといって勝負に勝てるわけではない」
「どういうこと?」
「賢者は往々にして、人の長所を見極める事に長けている。お前もそうだ。だが、その長所を生かす事、美しく戦おうとする事ばかりに気を取られて、結局勝負では負ける羽目になっている」
俺は昔から、全てを悟ったような父の言い回しが好きじゃなかった。堅苦しくて抽象的で、そのうえいつも核心を衝いていたから。いつの頃から、無駄と思えて父に対して反論はしなくなった。そして父も、出来の悪い俺に対して文句を言う事はなくなった。おそらく俺と同じ理由で。そして血の繋がっていない弟が、父にとってまさに理想的な息子の役目を果たした、というのにも何となく気づいていた。
それを証拠に、聡明な弟のオズは声を低くして自らの考えを述べるのだ。
「そう、だね……。確かにパパの打ち筋は勝ちに貪欲に見える、かな。最終的にチェックメイトをかけるために、どんな犠牲も厭わない。キングだけが残るぎりぎりの引き算をしているような感じ」
「そうだ。やはりお前は頭が良い。チェスの本質は引き算――すなわち捨てる事だ」
「捨てる?」
「かのナポレオンもこういう言葉を残している。『真に気をつけるべきは、有能な敵よりも無能な味方である』と。何もポーンが無能と言っているわけじゃない。戦局次第では、単なる一兵が敵の王を討つときもあるし、わがままな女王に振り回されてこちらの王を討たれるときもある。オズよ、これ以上は言わなくてもわかるだろう?」
「……ま、何となく」
俺には皆目わからなかった。頭の良い弟との決定的な違い。嫉妬を覚える事すら敵わない、義兄弟の差。その場に留まる事はできても、決して彼らと同じものを共感できない。だから俺は、自室に逃げ込むように籠っていたのかもしれない。俺が唯一不運だったのは、居間の隣が自分の部屋だったということだ。そうじゃなければ、こんな思いをしなくて済んだのに。出来の悪い俺が、彼らと同じ家族の一員だという事実から目を逸らす事ができたのに。
「お前がもう少し成長したら嫌でもわかるさ。社会というのは、使えない人間で溢れかえっている。頭を抱えてしまうほどにな。その点、チェスは心地良い。面倒な輩は切り捨てて、有能なものだけが盤上に残る事ができる」
居間からたちこめる紅茶の香りに、俺は諦めたようにうんざりとしていた。その香りがするときには大抵、父が俺に対して皮肉を垂らして鬱憤を晴らすのだ。話し相手は母と義弟で違えど、物覚えのついた頃から変わらない、濁ってへばり付き、洗っても一生取れない泥のような時間だった。
ティーカップが皿に落ち着く音がする。一息の間のあと、やはり父親が口を開いた。
「だが、オズよ。チェスは社会の縮図ではない。無能な人間ほど生き恥を晒して蔓延りつづけるのが世の常だ。ちょうどお前の兄のようにな。あいつを使える人間にしてやれる事も、ましてやチェスの駒のように切り捨てる事も私にはできなかった。だからせめて、息子のお前には身につけていてほしいのだ。物事を見極める大切さ、そして切り捨てる事のできる決断力を」
「……わかったよ、パパ」
俺と二人きりの時は優しく接してくれたオズは、今は取り繕うために父の言葉を肯定する。複雑な心境だったからこそ、弟は突き刺すような冷たい声音を漏らしたのだと思う。父親の辛辣な皮肉はどうでもよかった。それよりも俺は、義弟の非情で冷徹な一面を垣間見たような気がして、これ以上何も耳に入らないように両手で頭を掻きむしった。呻き声さえあげていたかもしれない。
やりようのない感情。埃っぽくて薄暗い自室。漂ってくる紅茶の香り。どれもが俺の心を蝕んだ。不幸だなと俺を嘲笑うかのように居座り続けた。もう十年以上も前の出来事なのに、俺の中にどうしようもなく存在し続ける心象風景。
「さあさ、お夕食の準備ができましたよ。今日はオズちゃんの大好きなイワシのムニエル! デザートもたんと用意してあるからね」
「はあい」
母と弟のそんな他愛ないやりとりを聞いて、俺は何となく目を開けた。
開けた先の天井は、薄暗いのは同じだったが、俺の予想とは反するものだった。
そして気づいた、俺が昔の夢を見ていたという事に。
目尻に触れると、そこには涙の伝った跡があった。
たとえさっきの夢が現実であっても――思い出して涙するほど哀しい記憶であったとしても――俺は素直に受け入れていたと思う。俺の時間がどこを彷徨おうが、俺としてあり続ける事しかできないのだから。
だが、目を開けた先は二十七歳になっている俺の一人称視点だった。思い出す度嫌な気持ちになる過去も、今は懐かしみさえ感じるようになっている。夢の中で再現できても、所詮は夢。もうあの頃には戻れない。
起き上がってしばし家族を想う。目を瞑った先の暗闇にぼうっと彼らの姿が現れ、はっきりしないまま消えていく。PCなどの記憶媒体に、数少ない家族の写真が残っているはず。それをふと目にしたくて腰を上げたが、溜息と共にそんな気持ちは失せていった。
そして再び、涙の伝った跡に触れて枕元を見ながら思う。この涙は悲哀の、それとも郷愁のどちらであったのだろうかと。
第9話、スタートです。