カルアミルク・アイズ
「こんな風に話すのは初めてだよね?」
平井さんは、閉まったままのエレベーターの扉を見つめたまま、そう洩らした。
鷹臣より少し高い身長の平井さんは、歳がひとつしか違わないのに、何歳も歳上に見えて、とても男性的な雰囲気を釀しだしていた。
女子社員が密かに狙うこの標的は、微かにブルガリブルーの香りを漂わせて、私の鼻孔を擽る。
平井さんの体温とブルーの混じりあった香りは本当に色っぽくて、思わずよろりと腰が砕けてしまいそうな程だった。
「日曜出勤なんてふざけるなと思ってたけど、僕は案外ラッキーかもしれない」
到着の合図と共に私を誘導する平井さんの奇妙な発言に、私は僅かに首を傾げ、軽く会釈してからエレベーターの外へ出た。
「岡倉さん、付き合ってる奴、いるでしょ?」
「ハッ!?なんでですか…?」
「いや、なんでも。失礼かもしれないけど、岡倉さんっていつも雌の匂いを撒き散らしてるから。」
まったく、何てことを言う人だろう。
最初の質問にしたって、あんな断定的な物言いで質問してくる人間はまずいない。
いや、いるかもしれないが、あまり話した事のない相手に使う口調ではないだろう。
普通なら傲慢な人間に思われて接触を避けられるのがオチだ。
それなのに、この人ときたら、微塵もそんな風に感じさせることなく、さらりと言ってのけるのだから。
これはきっと、平井さんの人徳なのだろう。
続いて述べられた失礼な発言も、本来なら怒ってしまって口もきかずに終わってしまいそうなところだが、事、彼に関してはそんな気持ちは湧いてこなかった。
それどころか、彼の一風変わった表現に思わず笑いが込みあげてきて、我慢出来ずについ吹き出してしまう。
「平井さん…そんなこと女性に浴びせる言葉とは到底思えないんですけど。これから意中の方とお話する場合はくれぐれも気を付けた方がいいですよ?」
笑いを堪えながら平井さんに忠告すると、彼は目を見開いてから空を仰いだ。
「時既に遅し……か」
平井さんがぽつりと呟いた声が聞き取れず、思わず彼の方に顔を向ける。
ほんの、一瞬だった。
普段なら、人の顔に視線を移す合間に見る景色など、特別な印象を残して目には入らない。
けれど私は感じたのだ。
とてつもなく甘くて、苦味の混じった、溶けてしまうような視線を。
私がその熱の方向に恐る恐る視線をやると、予想通りの対象がそこにはあった。
「平井さん……ごめんなさい。私、急用が出来て…お疲れ様でしたっ!また会社で!!」
平井さんが私に驚きの表情を向けたのを一瞬確認した後、私を捕えた熱の方向へ一直線に歩き出した。
なんでスーツなんか着てんのよ!?
熱を放出していたのは、馴れないスーツに身を潜めた鷹臣に間違いなかった。
私は接近するにつれて小走りになり、やがて身動きひとつ取れない鷹臣にいよいよ近寄る。
けれど私は止まらなかった。
その代わり、擦れ違い様にひとこと、彼にメッセージを残したのだ。
「黙ってついてきて……」
私の可愛い仔猫ちゃんは犬みたいに尻尾を振って付いてくるだろう。
案の定、鷹臣だけが持つ甘さと、ほのかに芳るブルーの香りが私の背後にふわっと舞って、振り向かずとも柔らかな風が運ぶその香りに、彼の存在を確かめる事が出来た。
平井さんの目も届かなくなったところで、私は近くのカフェに入り、トールサイズのミルクティーを頼んだ。
本当はカフェラテが良かったけれど、鷹臣がお腹を空かせていたらと思い、カフェインは控えておいた方が良いと判断したのだ。
ハチ公みたいな仔猫ちゃんは不安な目つきで私の精算を入り口付近で待っている。
本当はそんな鷹臣に思いきり抱きついて、鷹臣仕込みの甘いキスをしたいところだったけど、そうはいかない。
「はい。お腹、空いてるんじゃない?スコーンも買ったから食べて?」
ワザと少し怒ったような口調で、ミルクティーとスコーンの入った紙袋を手渡すと、鷹臣は大きく頷いて、まだ熱いミルクティーを煤った。
そんな鷹臣を引き連れて家路への電車に乗り込み、空いている席へ腰を掛けると、鷹臣が不安そうに私の顔を覗き込んで訊いてくる。
「サヨコさん、もしかして…怒ってる?」
「どうして?…ねぇ、私のメールみた?」
そっけない私の口調に、鷹臣は眉を八の字にして口を開けたまま、ゆっくりと首を横に振り、泣きそうな顔で私を見つめた。
「じゃあ帰ったら見ないで消去して?絶対よ?そうじゃないと私……」
鷹臣の策略にまんまとハマってる気がするじゃない…?
彼には聞こえないように、心の中で呟いてから小さく舌を出した。
そして、鷹臣のまだ不安そうな表情を確認してから、私は顔を前に向き直してふと、思う。
さっき浴びた視線はまるでカルアミルクみたい。
甘ったるいコーヒーリキュールに、たっぷりのミルク。
やっぱり彼は私のスウィーツなんだなぁ。
そんな事を考えていたら、本当に呑みたくなってしまい、帰りにコンビニに寄って行こうと勝手に胸を踊らせていた。
そうしたら、鷹臣の握り締めてる紙袋に入っている、まだ手付かずのままのスコーンも一緒に頂けばいいじゃないか。
帰ってからのお楽しみに独りで想像を膨らませる私は、玄関を開けたらすぐ、そう思わせた原因に甘すぎる口づけをしてやろう、と密かに企んでいたのだった。
ラム酒になって、あなたと混じりあえば…ほら、もっと極上になる。