レイス ワンズ エスプレッソ ウィズ ユー
退屈な毎日に、少々の甘味を。
何これ……?
私はフジコちゃんなわけ??
いつもの不可解でおかしなメールが、やっと正常に働きだした私の脳内を冒して、『吹き出し笑い』という行動を命令する。
平日と比べ、駅のホームはまばらにしか人が居なかったが、それでも、直ぐ側にいる中年男性に怪しまれない様に、小さく咳払いをして口許を慌てて押さえた。
鷹臣はほんの少しの幸せを、毎日毎日、欠かさず私に与えてくれる。
閑散とした車内の一番端の席に座り、手摺に頭を預けながら、私の中での鷹臣というものの存在について考えてみる。
実に単調で、実に平淡な、取るに足らない我が人生に、彼の存在はほんのりと甘い味付けをしてくれた。
それはなくてはならないモノでは決して、なかった。
例えるなら、そう、ソーダフロートの上で申し訳なさそうにしているミントの葉、コースで食事をした時なんかに出てくる、デザートのあの繊細な飴細工の器、そんな素敵なオプションみたいなものだった。
けれど今は違う。
私にとって鷹臣は、絶品のアイスクリームの中に細かく刻まれたヴァニラビーンズであり、スパイスクッキーの、あの舌を心地よく刺激する、ナツメグみたいなものになっていた。
詰まるところは、それなしでは何の意味も成さないという事。
ヴァニラアイスに人工的な香りを加えても、スパイスクッキーに見当違いなスパイスを加えても、そんなのって、やっぱり違う。
どれだけ似たものを差し出されても、本物の味を知ってしまった私には通用しない。
紛いものなんか、いらない。
欲しいのは、私の人生に本物の甘さを注いでくれる、鷹臣だけだから。
27にもなってこんな乙女チックな思想に囓りついている自分に、我ながら驚き、少し恥じた。
熱くなった頬を隠すように両手で覆い、俯いていると、扉の開閉音と共に大きな足音が聴こえた。
その音に反応して顔をあげると、目の前の美少女があるまじきポーズで腰を下ろしたところだった。
ミニのブルーデニムスカートから伸びる長い足を、下着が見えてしまう事も臆せずに組んで、ドクターマーチンの重みで少し反動がついた足先をぷらぷらとさせていた。
痩せた肩が覗くボーダーのカットソーを着た彼女は、まるで外国のファッション誌から飛び出してきたような抜群のルックスで、その素行の悪さが不思議と板について、こちらに不快感を与えることは全くなかった。
馬鹿みたいにその彼女に見とれてしまった私は、不意に彼女と視線があった気がして、解らないように慌てて目線を反らす。
何駅も乗らないうちにそのモデルみたいな彼女は、乗車した時と同じように大きな足音を立てて下車していった。
彼女の後ろ姿を走りゆく車内から見送り、まるでシャム猫が歩いているような可愛らしくてセクシィなその姿に再び見とれてしまい、鷹臣にはああいったコが本当はお似合いなのかも…と余計な嫉妬をする。
彼女の若々しいベリーショートと、鷹臣の柔らかな猫っ毛に想いを馳せ、私はまた、醜い何かに心を蝕まれてしまっていた。
悶々とそんなことを考えていると、アナウンスで私が下車する駅を告げられ、急いで髪を纏め直した。
忙しない動きで私は鞄から携帯を取り出して、メールを打つ。
【じゃあ楽しみに待ってます。時間になってもさらってくれないのなら、私があなたを奪いに行きます。】
ふふっと笑みを零して送信ボタンを押した私は、まさか彼の予告が本気だったとは、これっぽちも予測していなかった。
オフィスにつくと、まるで平日のように通常業務と何ら変わりなく過ごしていた。
仕事といっても所詮私は事務専門。
休日返上で忙しく働く人達のサポートみたいなもので、要するに、コピーしたり、簡単な書類作成をしたり、煮詰まったコーヒーメーカーを取り替えたりするくらいなものだ。
勿論、残業など必要なく、定時を迎えた私は残った人達のために最低限のモノを用意して退社する。
鷹臣に会いたい。
下りエレベーターを待つ私は急に寂しがり屋になって、携帯を手にする。
メールは来ていなかった。
周りに人が居たら聞こえてしまうくらいの大きな溜め息を吐いて、丁度来た無人のエレベーターに乗り込む。
「ちょっと待って!!」
乗り込んで直ぐ、閉ボタンを押した私は慌てて開ボタンを連打して扉を開けた。
「俺も今日は帰るんだ。岡倉さん、途中まで一緒に行こうよ?」
乗り込んできたのは同じ課の平井さんだった。
断る理由も無い私は黙って頷き、片手に持ったままの携帯を今一度ちらりと見た。
鷹臣からのメールはやっぱり、なかった。