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追放宮廷魔術師は密室に遺された言葉を解く——それは、私を陥れた宰相の最後の謎だった

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/04/12

 宰相ゴットフリート・エッシェンバッハが死んだ。

 私を追放した、あの男が。


 その報せを受けたとき、私は辺境の工房で霜花草の蒸留実験をしていた。三度目の精製でようやく毒性を中和できそうだったのに、フラスコを傾ける手が一瞬止まった。

 それだけだ。それだけのことで、私の二年間は総括された。


「フィーネ・アッシェンブルク殿」


 工房の戸口に、見覚えのある長身が立っている。黒髪を短く刈り込んだ男——近衛騎士団副長、ゼヴェリン・ブラント。表情の乏しい顔は二年前と変わらない。ただ、目の下の隈が少し濃い。


「久しいな、副長殿。二年ぶりか」

「お変わりないようで」

「変わりようがない。辺境には人も金も来ないが、時間だけは有り余っている」


 皮肉を言いながら、フラスコを火から下ろす。ゼヴェリンは工房を見回した。試薬瓶の森。壁一面を覆う術式の走り書き。床に散らばった焦げた羊皮紙。人が住んでいるというより、研究に棲みつかれた廃屋のような有様だ。

 彼はかすかに眉を動かしたが、何も言わなかった。その沈黙に、妙な気遣いを感じる。


「宰相が密室で毒殺されました」


 ゼヴェリンの声は、事務的だった。だが私を見る目には、どこか言い淀むような色がある。


「書斎の扉は内側から魔術封印が施されています。王宮の魔術師が束になっても解除できない高等術式です」

「それで、追放した魔術師を呼び戻しに来たと?」


 ゼヴェリンは一拍の間を置いた。


「——あなたにしか解けないと、判定されました。条件があります」

「聞こう」

「捜査に協力いただければ、二年前の禁術行使の件を再調査する。宮廷への復帰の道を開く、と」


 馬鹿げた話だ。冤罪で追い出しておいて、都合が悪くなったら呼び戻す。

 だが——私の唇は、勝手に弧を描く。


「面白いじゃないか」


 自分でも意外なほど、声が弾んでいる。


 蒸留装置の火を消し、外套を掴む。二年間の孤独に別れを告げるつもりはない。宰相の死を悼む気もない。ただ、謎に対する渇きが——研究者としての本能が、錆びた歯車を回し始めていた。


 それだけのことだと——このときは、そう思っていた。

 宰相がこの事件に込めた意味を、まだ何ひとつ知らずに。



    ◇◇◇



 王宮の回廊を歩くのは二年ぶりだった。

 磨かれた大理石の床。等間隔に並ぶ燭台。壁を飾る歴代王の肖像画。何一つ変わっていない。私がいなくなっても、この場所は微動だにしなかった——当然のことだが、どこかで期待していた自分が滑稽だ。

 すれ違う官吏たちが、幽霊でも見たような目を向けてくる。追放された魔術師が近衛騎士を伴って王宮の廊下を闊歩している。噂が駆け巡るのは時間の問題だろう。構わない。噂に怯えるくらいなら、最初から追放されていない。


 宰相の書斎の前には、騎士が二人配置されていた。ゼヴェリンが頷くと道が開く。


「ここです」


 分厚い樫の扉。その表面に、藍色の光紋が脈動していた。

 私は眼鏡越しに術式を読み取る。高等封印術式——第七系統の空間固定術に、時限発動の変則構造が組み込まれている。


 ……なるほど、これは確かに私でなければ解けない。この術式構造を考案したのは、かつて私が師事した魔術師だ。王宮で使える者は限られる。


 右手を翳し、十二の解錠節を順に辿る。藍色の光紋が一つずつ消えていく。最後の一節を解いた瞬間、重い錠前が弾ける音がした。


 扉を開ける。


 書斎は、静寂そのものだった。

 窓は内側から閂で止められている。暖炉には燃え尽きた灰。壁際の書架に整然と並ぶ革装本。そして——


 ゴットフリート・エッシェンバッハは、執務机に向かったまま死んでいた。


 椅子に深く腰掛け、わずかに首を傾げた姿勢。まるで書類に目を通しながら、ふと居眠りをしたかのようだ。老いた手は膝の上に置かれ、苦悶の跡はない。穏やかな死に顔だった。——毒殺にしては、あまりにも。

 

 机の上には、赤ワインの注がれた杯が二つ。一つは半分ほど飲まれ、唇の跡が残っている。もう一つは満たされたまま手つかずだった。その脇に、ワインの瓶。栓は抜かれ、三分の一ほど減っている。二人分には多い。緊張を紛らわせるように、何杯か注ぎ直したのかもしれない。


 私は書斎全体を見回し、眉をひそめた。


「ゼヴェリン。この封印術式を施したのは、外部の者ではない」

「……どういう意味です」

「術式の起点が室内にある。つまり——宰相自身が、内側からこの封印を掛けた」


 自殺ではない。毒殺だ。しかし宰相は、殺されると知りながら自ら部屋を封じた。


 ——なぜ?


 杯が二つあるということは、来客があった。片方が手つかず。客が飲まなかったのか——あるいは、宰相が客のために用意したものか。


 答えはまだ見えない。だが、この密室には意志がある。

 宰相は、何かを守ろうとした。


 あるいは——何かを遺そうとした。



    ◇◇◇



 容疑者は三人。王宮の法官がそう告げた。宰相の後妻、嫡男、侍女長。いずれも動機と機会がある者たちだ。


 私は法官の書類を受け取り、証言の聴取を開始した。最初に話を聞いたのは、宰相の後妻ノーラだった。


 応接間に現れたのは、予想よりずっと若い女性だった。亜麻色の髪を簡素に結い上げ、喪服に身を包んでいる。目の縁が赤い。泣き腫らしたのだろう。


「遺産目当ての結婚だったと——皆様はそうお思いなのでしょう?」


 私が問う前に、ノーラは自ら切り出した。その声は震えていたが、目は逸らさない。


「否定はしない。年齢差を考えれば当然の疑念だ。だが、私が聞きたいのは別のことだ。——宰相は最近、何かに怯えている様子はなかったか」


 ノーラの瞳が揺れる。


「……ありました。ここ半月ほど、書斎に籠る時間が増えて。夜中に起き出して、窓の外を確認することもありました」

「来客は?」

「分かりません。あの方は公務のことを私には話しませんでしたから。ただ——」


 彼女は言葉を選ぶように間を置いた。


「ある夜、寝室で『すまない』と仰いました。何に対してなのか聞いても、笑って誤魔化されて」


 涙が一筋、頬を伝う。その涙は本物だった。長年人の嘘を見分ける術式を研究してきた私の目には、偽りの感情は色が違って見える。ノーラの涙には、混じりけがなかった。


 遺産目当ての妻ではない。この女性は、純粋にあの老人を愛していた。


 宰相の妻が退出した後、私はしばらく応接間に留まった。宰相が怯えていた——あの鉄面皮の政治家が。信じがたい証言だが、嘘ではない。


 何に怯えていたのか。


 応接間を出て、宰相の書斎に戻る。封印を解いた後の残滓がまだ薄く青白く明滅している。机上の杯をそっと避け、引き出しを一つずつ確認する。一段目、二段目、三段目——全て公的な書類だ。宮廷の予算書、外交書簡の写し、陳情書の束。

 最下段を引くと、手応えが妙に軽い。底板を叩いてみる。——空洞音。

 二重底だ。指先に魔力を灯して隙間を探ると、底板が外れた。


 空だった。


 隠すために作られた精巧な仕掛け。しかし中には、紙一枚残っていない。底板には四角い跡——書類束が長期間置かれていた圧痕だけが残っている。誰かが既に持ち去ったのか、あるいは宰相自身が移動させたのか。


 手がかりの一つ目。宰相は何かを恐れていた。そして、守ろうとしていた「何か」は既に消えている。



    ◇◇◇



 二人目は、宰相の嫡男コンラート。


 中庭の訓練場で剣を振るっていた青年は、私の姿を見て露骨に表情を歪めた。三十歳前後だろう。父に似た鋭い目つきだが、そこに宿る感情はもっと剥き出しだった。


「追放された魔術師が、今更何の用だ」

「父上の死因を調べている」

「ご苦労なことだ。だが、俺は何も知らない」


 剣を鞘に収め、背を向けようとする。


「——宰相閣下が、追放を後悔していたという話は本当か」


 コンラートの足が止まった。肩が強張る。


「……誰に聞いた」

「答えてくれ」


 長い沈黙。中庭の風が、木剣の立てかけてある壁を撫でていく。コンラートの手が、剣の柄をきつく握り締めていた。


 やがて青年は振り向いた。怒りではなく——苦さを噛みしめるような表情だった。


「後悔していたかどうかは知らん。あの人は家族に弱みを見せる人間じゃなかった。だが——最後の半年、時折お前の名を口にしていた。書斎で独り言を言うようになってな。『あの術式を理解できる者は、もうアッシェンブルク嬢しかおるまい』——そう聞こえたことがある」


 胸の奥で、何かが軋んだ。私の名を口にしていた。二年間、私を追い出した男が。

 論理で押し殺す。感情が判断を曇らせる——研究者としての鉄則だ。


「それだけか」

「もう一つだけ」


 コンラートは腕を組み、視線を地面に落とした。


「父は最近、金庫から古い文書を書斎に移していた。何の文書かは見せてもらえなかった。だが相当に重要なものだったらしい。金庫の鍵を新しく付け替えた上で、書斎の引き出しにも仕掛けを施していた。俺が『何を隠している』と詰め寄ったら、あの人はこう言ったんだ——『知らぬ方が安全だ』と」


 知らぬ方が安全。

 追放された私にも、同じ理屈が適用されたのだろうか。考えまいとして、考えてしまう。


 手がかりの二つ目。宰相は追放を後悔し、私の名を口にしていた。そして、重要な文書を書斎に手元に置こうとしていた。


 ——空の引き出しと繋がる。文書は引き出しにあった。そして誰かが持ち去った。


 だが、まだ足りない。密室の理由が見えてこない。



    ◇◇◇



 三人目は、宰相付きの侍女長ヘートヴィヒ。


 六十は過ぎているだろう。白髪を厳格に結い上げた細身の老女は、応接間の椅子に背筋を伸ばして座っていた。皺の刻まれた手が膝の上で組まれ、微動だにしない。三十年間宰相に仕えた忠臣。——そして、毒薬学に精通していることでも知られる人物だ。


「毒は霜花草の抽出液と判明しております」


 私が口を開く前に、ヘートヴィヒが先に言った。


「致死量は体重あたり〇・三グラム。苦味はほぼありません。赤ワインに混入すれば、色も匂いも変わらない。毒殺に用いるなら、これ以上ない選択でしょう」


 まるで薬学の講義だ。感情が一切混じっていない。主の死を語る声としては、異様なほど平坦だった。


「あなたなら、その毒を入手できるか」

「もちろんです。王宮の薬草園に原料がございます。私は若い頃に毒薬学を修めました——解毒法を学ぶためです。毒を知らねば、毒から主を守ることもできませんから」


 隠す気がない。その透明さが、逆に不気味だった。三十年の忠誠が本物だとすれば、この冷静さは——悲しみを圧し殺しているのだ。長年仕えた主の死を、仕事として処理することで、自分を保っている。


「三十年間、一度たりとも主に背いたことはございません」


 ヘートヴィヒの目が、初めて私を正面から射抜いた。


「その事実は、どのような推論よりも雄弁だと思いますが」


 私は頷いた。この女性を疑う根拠はない。——だが、別の角度から切り込む。


「当夜の宰相の様子を聞きたい。夕食は?」

「通常通り、食堂で召し上がりました。食後は書斎へ」

「ワインは?」

「書斎に赤ワインの瓶と杯が二つ運ばれました。私が手配したのではありません。宰相ご自身が、厨房に命じたのです」


 ——ここだ。


「宰相は普段、夜にワインを飲む習慣があったか」

「いいえ。あの方は酒をほとんど嗜みません。薬師に止められて以来、宴席以外では口にされませんでした」


 杯が二つ。飲む習慣がない男が、自らワインを用意した。しかも二人分。


 宰相は当夜、誰かを書斎に招くつもりだった。


 この仮説で、密室の一部が繋がる。来客を迎え、ワインを注ぎ、会話を交わした。片方の杯だけが飲まれた——毒入りの方が。客は飲まなかった。すなわち、毒を入れたのは杯を選べる立場の者。招かれた客の側だ。


 そしてその来客と対面した後、密室が作られた——いや、正確には「作られた」のではない。時限式。封印は宰相の死後に発動するよう組まれている。


 宰相は来客に殺されることを予期していた。毒を飲むと分かっていて、杯を手に取ったのだ。


 手がかりの三つ目。宰相は自分を殺す相手を、自ら招いた。


 三つの手がかりを並べる。宰相は何かを恐れていた。重要な文書を手元に置いていた。そして殺されると知りながら犯人を招いている。


 論理的に矛盾がある。恐れている相手を招くか? 殺されると分かっていて抵抗しないか?


 ——あるいは。恐れていたのは犯人そのものではなく、犯人に奪われる「もの」だったとしたら。


 文書だ。文書が奪われることを恐れ、自分の命と引き換えに——


 いや。まだ足りない。論理の糸が一本足りない。この密室には、まだ隠された意味がある。



    ◇◇◇



 その夜、私は与えられた客間で調書を広げていた。


 三人の証言を時系列に並べ、矛盾点を洗い出す。しかし頭が回らない。二年ぶりの王宮の空気が、想像以上に堪えていた。


 廊下のすれ違いざま、かつての同僚たちが目を逸らした。禁術行使の罪人。その烙印は、冤罪だろうと消えていない。


 控えめな扉の音がした。


 ゼヴェリンが、盆を手に立っていた。木の椀に注がれた温かいスープと、硬いパンが一切れ。湯気が廊下の冷気に白く立ち上る。


「……食事はもう済ませた」

「食べていないだろう。厨房に確認した」


 この男は。護衛任務の合間に、わざわざ厨房の食事記録を確認したのか。


 反論する気力もなく、スープを受け取った。椀を両手で包む。じわりと熱が掌に染みる。一口含むと、根菜と鶏肉の滋味が舌に広がった。辺境の工房では、自分で作る薄い粥か、乾燥させた保存食しか口にしていなかった。温かい食事を誰かに出されるのは——いつ以来だろう。


 一口、二口と飲むうちに、張り詰めていた肩が少しだけ落ちた。身体が温まると、思考が僅かに柔らかくなる。


「……追放された時」


 気づけば口が動いていた。


「誰も、来なかったな」


 王宮の門前で罪状を読み上げられ、魔術資格を剥奪され、辺境への追放が執行された日。同僚も、弟子も、誰一人見送りに来なかった。


 ゼヴェリンは、壁に背を預けたまま沈黙していた。やがて、低い声が落ちた。


「来たかった。だが——命令で、止められた」


 命令。誰の。


 ゼヴェリンの横顔は、石のように動かない。だが声の最後に、ほんの微かな軋みがあった。二年間、この男はその命令に従い続けた。従いながら、何を思っていたのか。


 問い返す言葉を探しているうちに、ゼヴェリンは「おやすみなさい」と短く言って、扉を閉めた。足音が遠ざかる。


 残されたスープを最後まで飲み干す。器の底に、細かく刻まれた根菜が沈んでいた。雑に見えて、火の通りを均一にするために大きさが揃えてある。……厨房に頼んだのではなく、この男が自分で作ったのかもしれない。

 聞かない。聞けば、ゼヴェリンは否定するだろうから。


 調書に戻る。しかし頭の隅に、ゼヴェリンの言葉が引っかかっている。命令で止められた。追放の日に見送りに来ることを、誰かが禁じた。

 誰が? なぜ?


 ——宰相が、自ら密室を作った理由。

 まだ見えない。だが、輪郭が揺らぎ始めている。



    ◇◇◇



 翌朝、私は書斎に戻った。


 昨夜は眠れなかった。論理の糸を手繰っては切れ、手繰っては切れる。三人の容疑者にはいずれも決定的な証拠がない。しかし、この密室には明確な意志が宿っている。宰相は何かを守ろうとした。


 封印術式を、もう一度読む。


 昨日は解除に集中していたが、改めて残滓を丁寧に辿ると、違和感の正体が見えてきた。この術式の核心は「外部からの侵入を防ぐ」構造ではない。


 内部の物を守るための封印だ。


 普通の密室封印なら、扉と窓に均等に術力が配分される。だが、この術式は空間全体を固定——部屋の中の「物」が持ち出されないよう設計されていた。


 守りたかったのは、己の命ではない。この部屋に在る、何か。


 しかし引き出しは空だった。文書は既に消えている。矛盾する。守るべき物がないのに、なぜ——


 待て。


 私は暖炉に目を向けた。灰の山。昨日は見逃していた。いや——昨日の時点では、この灰が重要だと思っていなかった。


 封印は時限式だった。宰相の死後に発動する設計。ならば——毒が回る前の僅かな時間に、宰相は何かをしたはずだ。


 来客を迎え、ワインを飲み、毒が回り始め、死を悟り——


 文書を燃やした。


 燃やしてから、時限式封印を起動した。


 文書の「実物」を灰に変え、部屋を封じて証拠を守った。灰さえ残れば、魔術で断片を復元できる。そしてその復元ができる者は——


 私しかいない。


 指先に魔力を灯す。第三系統の物質記憶術——物体に残された過去の状態を一時的に再現する技法。辺境での二年間、無駄に過ごしたわけではない。この術式は私が独自に改良したものだ。


 灰の山に手を翳す。魔力が浸透すると、灰の粒子が微かに震え始めた。浮き上がり、渦を巻き、一枚の紙の幻影を結ぶ。輪郭は曖昧だが、燃え残りの断片から文字が滲み出る。


 ——「王家ノ血統ニ関スル秘匿記録」

 ——「始祖ノ儀式——禁術適用ノ証跡」

 ——「関連研究者:フィーネ・アッシェンブルク」


 私の名前だ。


 幻影は数秒で崩れ、灰に戻った。完全な復元には専用の設備と数日の作業が要る。だが断片だけで十分だった。全体像が見える。


 宰相が守ろうとした文書は、王家の血統に禁術が関わっていることを示す証拠だった。そして、その文書に私の名前が記されていた。


 禁術行使。二年前の冤罪。追放の理由。


 点と点が——まだ繋がらない。だが、線が見え始めた。



    ◇◇◇



 私は公開の推理劇を開く気はなかった。


 容疑者を一堂に集め、鮮やかに犯人を指差す——物語の中なら格好がつくが、現実には危険すぎる。追い詰められた人間は何をするか分からない。


 ゼヴェリンにだけ告げて、私は王宮書記官長の執務室を訪ねた。


 ルートヴィヒ・ファルケンハイン。五十代半ば、痩身、銀混じりの金髪を丁寧に撫でつけた紳士然とした男。王宮の文書管理を一手に担い、王家の信頼も厚い。容疑者リストには入っていない。当夜のアリバイは自室で執務——だが確認した者はいない。

 そして何より。文書を扱う立場にある男が、宰相の秘密文書について何も知らないはずがない。


「これは——追放されたはずの宮廷魔術師殿ではないか。お久しぶりですな」


 穏やかな笑み。完璧な表情管理。


「単刀直入に聞く。宰相が殺された夜、書斎を訪ねたのはあなたですね、書記官長殿」


 窓際の燭台の炎が揺れた。風はない。ルートヴィヒが微かに姿勢を変えたのだ。だが笑みは崩れなかった。見事な自制心だ。


「何を根拠に?」

「杯が二つ。宰相は晩酌の習慣がない。来客のために用意した。しかもワインは宰相自身が厨房に命じている——つまり、相手は宰相が『もてなしたい』と思うほどの地位の人物だ」


 間を置く。


「宰相は文書を守るために密室を作った。封印は時限式で、宰相の死後に発動する。宰相は殺されることを覚悟していた——いや、確信していた。殺しに来る相手が誰か、分かっていた」

「仮にそうだとして、なぜ私が?」

「封印術式の設計思想です。この術式は、魔術の心得がない者を密室に閉じ込めることができない。逆に言えば、魔術を使えない相手なら——封印は完全に機能する。宰相は、来客が魔術を使えないと知っていた」


 ルートヴィヒの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。書記官長は文官だ。魔術の素養はない。


「面白い推論ですな。しかし——」

「もう一つ。空の引き出し。文書は宰相が自ら燃やした。あなたが持ち去ったのではない。しかし、あなたはまだ気づいていないでしょう? 宰相が灰を残したことに。灰から文書の断片は復元できる。そしてその封印は——私にしか解けない」


 沈黙が落ちた。


 ルートヴィヒの微笑が、静かに剥がれた。その下から現れたのは、冷たい目だった。


「……なるほど。あの老狐め。死んでなお、手を打っていたか」


 袖口から光るものが覗いた。暗器——細い刃だ。


 動くより先に、背後から伸びた腕がルートヴィヒの手首を捻り上げた。刃が床に落ちる。


 ゼヴェリンだった。いつから扉の外にいたのか、無言でルートヴィヒの両腕を背後に拘束する。


「……廊下に控えていろと言ったはずだが」

「廊下に控えていました。扉一枚隔てて」


 床に転がった暗器を、ゼヴェリンが足で遠くに蹴る。ルートヴィヒは騎士に引き渡され、抵抗を諦めたように脱力していた。

 最後に一言だけ、書記官長は呟いた。


「——あの文書が世に出れば、王国は内乱になる。私は王家を守ろうとしただけだ」


 大義。自分の行為に大義があると信じている目だった。正しさの確信ほど厄介なものはない。


 全く、融通の利かない男だ。ルートヴィヒのことではない。扉の向こうで息を殺して待っていたゼヴェリンのことだ。——だが、その不器用さに救われた。



    ◇◇◇



 ルートヴィヒが拘束され、騎士に引き渡された後。


 静まり返った書記官長の執務室で、私は椅子に座ったまま動けずにいた。犯人は捕まった。密室の仕掛けも解明した。事件は終わりだ。


 ——終わりのはずだった。


 廊下を足音が近づき、扉が開く。コンラートだった。手に、革装の小箱を持っている。


「父の金庫から見つかった。鍵を付け替えた新しい方の金庫だ。——お前宛だ、アッシェンブルク」


 小箱を受け取る。手のひらに収まる大きさ。革が使い込まれて柔らかい。中には、一通の封書。蝋印は宰相の紋章——二頭の鷲が向かい合う意匠だ。蝋の色は黒。公式文書に使う赤ではなく、宰相が私信にのみ使う黒い蝋。


 私宛の、私信。


 封を切る。指先が震えるのを自覚する。論理の人間のはずだ、冷静でいろ、と自分に命じるが、指は言うことを聞かない。


 便箋を広げる。宰相の筆跡は、記憶の通り端正で冷たかった。だが——内容は、私の知る宰相とはまるで別人のものだった。


 第一の真実。


 宰相が握っていた文書は、王家の始祖が禁術によって血統を「修正」した記録だった。現王家の正統性を根底から揺るがす爆弾。書記官長ルートヴィヒは王家の側近として、この文書を闇に葬りたかった。文書を握る宰相は、排除すべき障害だった。


 便箋を握る手に力が入る。王家の秘密。禁術の証拠。それを握っていたから宰相は殺された——ここまでは論理が通る。


 だが便箋には、続きがあった。


 第二の真実。


 二年前。私の禁術研究が、偶然この王家の秘密に触れかけた。禁術の痕跡を辿る私の論文が、ルートヴィヒの目に留まった。放置すれば、いずれ王家の秘密に到達する。ルートヴィヒは私を「知りすぎた者」として始末しようと動いた。

 暗殺者の手配が進んでいた。私は何も知らずに、研究室で術式を組んでいた。


 宰相は——先手を打った。


 私に「禁術行使」の冤罪を着せ、追放処分にした。王宮から追い出すことで、ルートヴィヒの手が届かない場所に逃がした。辺境という僻地に。人目につかず、暗殺者も送り込みにくい、不便で安全な場所に。


 追放は、保護だった。


 あの日の宰相の声を思い出す。冷たく、感情のない声。一切の弁明を許さない、断固たる追放宣告。

 あの声は——私に憎まれるために、わざと冷たくしていたのだ。恨んで去れ、と。恨みさえあれば、王宮に未練を持たないから。


 便箋を持つ指が震える。文字が滲む。いや——滲んでいるのは文字ではなく、私の視界だ。


 便箋の最後に、一行だけ書き添えられていた。


 『アッシェンブルク嬢に伝えよ。あの追放は、老人にできた精一杯の不器用な保護だったと。』


 第三の真実。


 二年間、私はこの男を憎んだ。恩師を裏切った冷酷な政治家だと。研究を奪い、居場所を奪い、名誉を奪った仇だと。


 違った。


 全部、違った。


 眼鏡を外す。レンズが曇っていて、拭いても拭いても澄まない。


 便箋を膝に置く。指を組んで、額に押し当てた。目を閉じる。暗闇の中で、宰相の顔を思い出す。あの冷たい目。感情を見せない鉄面皮。——その奥に、こんなものが隠れていたのか。


「……コンラート」

「なんだ」

「お前の父親は——」


 言葉が詰まった。論理で組み立てた世界が崩れて、代わりに溢れてきたのは、私がずっと蓋をしていた感情だった。


 二年間の孤独。誰も来ない辺境の工房。試薬の匂いだけが友の、凍える冬の夜。研究だけが自分を支えていて——それしかなかった。

 冤罪の悔しさ。信じていた恩師——宰相への怒り。あの男は私を裏切ったのだと、毎朝自分に言い聞かせて二年を生きてきた。


 そのすべてが——一人の老人の、不器用な嘘。


 恩師だった。最後まで。自分の命を差し出してまで、弟子を守り通した人。


「……とんでもない、くそ爺だ」


 声が掠れた。コンラートは何も言わなかった。視界の端で、彼が静かに目を伏せるのが見えた。この青年も——父の不器用さに、振り回されてきたのだろう。

 やがて足音が遠ざかり、部屋に一人になった。



    ◇◇◇



 ゼヴェリンが戻ってきたとき、私はまだ椅子に座っていた。


「密室の——本当の意味が、分かった」


 声は平静を装ったが、たぶん目が赤いのは隠せていない。


「宰相は、殺されると分かっていてルートヴィヒを招いた。文書を自ら焼き、時限式の封印を組んだ。封印の術式構造は——私が師事した魔術師のもの。王宮でこの術式を解ける者は、私しかいない」


 ゼヴェリンは黙って聞いている。


「あの密室は、私を呼び戻すための仕掛けだった」


 声に出して、ようやく全体像が見えた。


「宰相は殺されると分かっていてルートヴィヒを招いた。文書を自ら焼き、灰だけを残した。灰から文書を復元できる者——私——しか手がかりを読めないように。そして時限式封印を組んだ。私にしか解けない術式で」


 ゼヴェリンは黙って聞いている。


「封印が解けなければ、事件は永遠に密室のままだ。だから王宮は、追放した魔術師を呼び戻すしかなかった。冤罪の再調査を条件にして。——宰相は自分の命を代償にして、全てを一手で設計した。ルートヴィヒの排除。文書の抹消。そして私の名誉回復を」


 密室は、遺言だった。


 帰って来い、と。


 二年前に追い出し、二年後に呼び戻す。その間に犯人を焙り出す罠を仕掛け、文書は焼却して王家の秘密を葬り、灰だけを私への手がかりとして残した。自分の死を、盤面を動かす最後の一手に変えた。


 冷酷な計算。だが——その計算のすべてが、一人の弟子を守るために組まれていた。


「……あの老人は、最後まで計算高い男だった。だが——」


 眼鏡を掛け直す。曇りを拭う。


「計算の中に、人の心を入れることだけは、絶望的に下手だった」


 ゼヴェリンは一瞬、何か言いたげに口を開きかけた。

 だが結局、「お疲れ様でした」とだけ言って、扉の前に立った。


 その背中が、二年前と同じ場所に立っている。あの時は、命令で来られなかった。

 今は——ここにいる。



    ◇◇◇



 三日後、全てが片付いた。


 ルートヴィヒ・ファルケンハインは王家への反逆と殺人の罪で拘禁された。自供は淡々としたものだった。王家の秘密を守るためだったと——最後まで大義を語っていたらしい。


 そして、私の冤罪は正式に撤回された。


 王族の代理人が、羊皮紙に記された赦免状を差し出した。宮廷魔術師としての資格の回復。研究室の返還。二年分の俸給の補填。


「以上が王家からの提案です。ご検討いただけますか」

「……検討する」


 代理人が去った後、がらんとした応接間で赦免状を眺めた。二年間、これを夢見ていたはずだった。追放の撤回。名誉の回復。


 なのに、紙の重さしか感じなかった。羊皮紙の手触りだけが、やけに鮮明だ。


 窓の外では、官吏たちが忙しく行き交っている。書記官長の逮捕で王宮は騒然としている。宰相の死の真相。王家の秘密文書。冤罪の宮廷魔術師。噂はもう止められないだろう。


 宰相は命を懸けてこの結果を設計した。私の名誉回復も、ルートヴィヒの排除も、全ては計算の内だった。あの密室は——死に際の一手であり、同時に、二年遅れの詫び状だった。


 受け取らないわけにはいかない。あの老人が命を賭けて作った結果を、私の感傷で無駄にすることは許されない。

 だが、素直に喜べるほど——私は器用な人間ではなかった。赦免状を丁寧に折り畳んで、外套の内ポケットに仕舞う。胸の近くに。



    ◇◇◇



 城門を出ようとしたとき、背後から足音が追いかけてきた。


 長い歩幅。軍靴の硬い音。振り返らなくても分かる。


「ゼヴェリン」

「復帰の件は、どうする」


 門の外には、初夏の風が吹いていた。辺境の乾いた荒野とは違う、花壇の薔薇と刈りたての芝の匂いを含んだ、柔らかい風だ。王宮の庭師はいつでも優秀だ——政治がどれほど腐っていても、花は美しく咲く。


「まだ辺境の研究が途中だ。霜花草の蒸留実験が三度目でようやく成果が出かけていてね。中断するわけにはいかない」


 嘘ではない。だが、それだけが理由でもない。この城に戻るには、もう少し時間が要る。宰相の不在に慣れるための時間が。


「……そうか」


 ゼヴェリンは何か言いたげに口を開き、閉じ、また開いた。普段の無駄のない所作からは想像できないほど、ぎこちない。


「辺境は——俺の管轄区域でもある」

「知っている」

「巡回がある。月に一度。その折に——寄っても、構わないか」


 ああ。この男は、こういう人間だった。


 来たかった。命令で止められた。——あの言葉が、ようやく腑に落ちる。二年前、追放の日に見送りに来なかったのは薄情だったからではなく、宰相の命令で止められていた。そしてこの二年間ずっと——来る理由を探していたのだろう。


 口元が緩む。


「月に一度か。それなら——スープくらいは用意しておこう」


 ゼヴェリンの眉が微かに上がった。感情の乏しい顔に、ほんの一瞬だけ、柔らかいものが過ぎる。


「スープを作って待っている、とでも言えばいいか」

「言わなくていい。作っておいてくれれば——それでいい」


 不器用にも、ほどがある。


 宰相は冤罪で追い出すことでしか守れなかった。ゼヴェリンはスープを作ることでしか気持ちを伝えられない。この国の男どもは揃いも揃って、大事なことを言葉にできない。


 だが——その不器用さが、嫌いではなかった。

 少なくとも、嘘よりはずっといい。



    ◇◇◇



 城を出る前に、一箇所だけ寄る場所があった。


 宰相の書斎。封印はとうに解かれ、調査も終わり、扉は開け放たれている。数日後には、コンラートの執務室として使われるのだろう。


 一歩、中に入る。


 あの夜の記憶が蘇る。藍色に脈動する封印。椅子に腰掛けたまま事切れた老人。二つの杯。


 ここは、二年前に追放を言い渡された場所でもあった。あの日、この机の向こうに座った宰相の顔を、私は忘れていない。冷たく、感情のない声。「禁術行使の罪により、フィーネ・アッシェンブルクを王宮より追放する」。


 あの時の宰相は、何を考えていたのだろう。


 冤罪と知りながら言い渡す追放。背後でフィーネを狙う暗殺者から、追放という形で遠ざける不器用な保護。——言い訳もせず、憎まれることを選んだ老人。


 遺書の一行が、頭の中で反響する。


 『老人にできた精一杯の不器用な保護だったと。』


 精一杯。


 あの冷徹な宰相が使う言葉とは思えない。だがそれだけに——その一語に込められた重さが、胸を突く。


 眼鏡を外した。

 目元を手の甲で拭う。


「——不器用にも、ほどがあるでしょう。宰相閣下」


 言葉は震えなかった。涙は二度は流さない。論理の人間として生きてきた矜持が、それだけは許さなかった。


 一度だけ、深く頭を下げた。


 二年分の憎しみと——二年分の、知らなかった感謝を込めて。


 沈黙の中で、かすかに風が動いた。窓から入った初夏の風が、書斎の古い書物の匂いを運んでくる。インクと羊皮紙と、僅かに残るワインの残り香。宰相がこの部屋で過ごした膨大な時間の痕跡だ。


 その風に乗せて、声が聞こえた気がした。


 ——よく来たな、アッシェンブルク嬢。


 空耳だ。論理的にあり得ない。死者は語らない。だが、この部屋そのものが——この密室が、言葉の代わりだった。


 顔を上げる。眼鏡を掛け直す。もう、レンズは曇らない。


 書斎を出る。振り返らなかった。


 城門の向こうで、初夏の陽光が白く輝いている。辺境の工房では、三度目の蒸留実験が途中のまま待っている。月に一度、不器用な騎士がスープの材料を抱えて訪ねてくるだろう。


 密室は解かれた。遺言は届いた。


 私は、歩き出す。

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